砂の味

 最初のポケモンバトルの結果は負け。
 あの敗北が忘れられない。
  
 はじめての戦いはとても怖かったが、それでもこのヒトカゲに勝たなくてはならないという使命が頭の隅に付いて離れなかった。だから何度も何度も、必死で体当たりしていたことを覚えている。まだ柔らかい甲羅に当たる、ヒトカゲの尻尾の炎が熱くて痛い。既に身体は傷だらけだ。
 でも勝たなくちゃ。自分を選んでくれた彼のために勝たなくちゃ――もう一度ヒトカゲに体当たりしようとした時、頬を引っ掻かれて床に崩れ落ち、身体が動かなくなった。まだ戦えるはずなのに、起き上ることができない。
「この勝負、レッドの勝ちだな」
 遠くで博士の声がする。
 それはつまり、ヒトカゲに負けたということ。ヒトカゲは赤い帽子の男の子に飛びつき、頭を撫でられているけど、自分は床に倒れたままその様子を眺めるだけ。これがはじめての戦いにして、はじめての敗北ということなのだろう。なんて惨めで怖いんだ。これではせっかく自分を選んでくれた彼に怒られる。
 すると彼は自分を見下ろしながら、落胆を叫んだ。
「えー、そんな馬鹿な! お前のポケモンにすりゃあよかった」

+++

 初めて手にしたジムバッジはニビジムのグレーバッジだった。
 ゼニガメとポッポ、そしてコラッタを率いての総力戦。ぼろぼろのゼニガメがリーダーのイワークの隙を突いて「あわ」で先制していなければ負けていた。勝因はタッチの差だ。そんな運も実力のうちだし、最初のジム戦は何度も躓くものと決まっているから、ジムリーダーのタケシは初めての挑戦でいきなりバッジを手にした自分の実力を高く評価してくれた。多くのトレーナーは敗戦を重ねた末にようやくタケシに勝てるのだという。
 ジムの入り口に掲げられた「ジムリーダー認定トレーナー」一覧の一番下に書かれた自分の名前はバッジと同じ輝きを放っていた。三度見返したが、このリストに幼馴染であるレッドの名前はない。自分が先に最初のジムを突破したのだ。
 グリーンは頬を緩ませながら、ポケモンセンターで回復を終えたゼニガメにバッジを掲げる。
「順調にグレーバッジゲット。おれって天才ー?」
 イワークに苦戦を強いられたゼニガメは不甲斐なさそうに頷いた。可愛らしい見た目をしているのに、案外真面目だからか調子が合わない。かれは「運も実力のうち」という言葉を知らないようだが、ポケモンに運を説明するのが難しかったので、グリーンはさらりと流して場を盛り上げる。
「よーし、この調子でポケモン図鑑を作りつつ、二個目のバッジを狙おうぜ。次はハナダジムだな。リーダーはどんな奴だっけ」
 ゼニガメの顔を見ずにボイスチェッカーに視線を移した。
 カントー地方で普及している、有名トレーナーの情報が集まる端末。ジムリーダーや四天王は勿論のこと、界隈では知らぬものが居ない祖父や姉のニュースも届く。
 家族の中でまだ名を馳せていないのは自分だけだ。いつか名のあるトレーナーになり、ボイスチェッカーに登録されるのがグリーンの夢である。トレーナー別登録ユーザ数ナンバーワンとなり、やがて名実ともにチャンピオンに――その時はどんな情報を発信しよう?
 思い描いているうちに楽しくなったので、隣を歩くゼニガメを見た。
 口をぎゅっと結んだまま、オツキミ山へと続く山道を見据える相棒の横顔は頼もしい。ポッポやコラッタにも慕われており、その性格はタケシにも褒められた。
 かれはいいチームリーダーになるぞ――それでグリーンはゼニガメに労いをかけていないことを思い出した。
「あのさ」
 ゼニガメはさっとグリーンを見上げる。
 どこか切羽詰まった表情で、目は見開かれていた。そこへ短パンを履いた少年が割り込んでくる。
「おい、トレーナーだな。勝負しろ!」
 売られた喧嘩は迷わず買う主義だ。
「やっぱ、後。いくぞ、ゼニガメ!」 
 グリーンは甲羅を軽く叩いてゼニガメを嗾けた。


 オツキミ山を越え、ハナダシティのポケモンセンターに到着したのは一週間後だ。自動ドアを抜けてすぐ、玄関マットを乗り越える前に職員の女性に呼び止められた。
「僕、まずはシャワールームへ行ってくれるかな?」
 グリーンは胸から足元までを見下ろす。服は泥だらけで、露出した皮膚は擦り傷だらけだ。隣に連れ添うゼニガメとコラッタも同様である。獣道を進もうとして迷子になり、希少種であるピッピを探したり、キャンプに夢中になっている間にこの身なりを忘れていた。
 グリーンは慌てて二匹を脇に抱え、シャワールームへと駆け込んだ。トイレの個室程度の狭い空間に服を脱ぎ捨てて上がりこみ、ミストを出しながらゼニガメに「あわ」を命じる。ポケモンが吐き出した泡はぶくぶくと膨らんで、あっという間に室内を覆い尽くした。柔らかな水泡は肌に心地よく、備え付けのボディーソープをそれに混ぜると汚れはみるみる剥がれ落ちていく。キャンプ中も、こうして身体を洗っていた。
「やっぱり気持ちいいなー。たまんねー!」
 泡まみれのグリーンが陽気にコラッタを洗うと、かれも嬉しそうに鳴き声を上げる。オツキミ山でたっぷり戦闘経験を積んだコラッタは一回り大きくなった。ポッポはピジョンに進化し、この場には出せない。そして隅で泡に埋もれたまま、うずうずとこちらを見つめるゼニガメも同様だ。甲羅は固くなり、一層頼もしくなった。グリーンはコラッタを洗ったあと、泡の中から相棒を引っ張り出した。
「次、お前な」
 待ちわびていたゼニガメの表情が緩む。
 ここ一週間で相棒のとの距離はぐっと縮まった。こうして一緒にシャワーを浴びる仲だから、何も気を遣う必要はないと思っている。ゼニガメの身体をごしごしと洗うたび、わだかまりが泡の中へ溶けていく。
「そうそう、ピッピを捕まえられてよかったなー! あいつ、超レアキャラらしいぜ」
 旅の目的はポケモン図鑑の完成も兼ねているから、ピッピを捕獲できたのは幸先がいい。新しく立ち寄った場所ではいつも五〜十匹ほどの野生ポケモンを捕獲する。

 センターの長椅子に腰を下ろし、回復を終えたゼニガメの前でそれらのボールを並べた。
「ポケモンリーグに挑むためには強いポケモンが必要だ。だから、今まで捕獲したポケモンの中から一匹だけ手持ちに加えて育てていこうと思う。一気に増やすと馴染ませるのに大変だから、少しずつな」
 ゼニガメは口を噤んだまま、捕獲したボールを見下ろしている。不安げな表情を見て、グリーンはやや冗談っぽく小突く。
「新入りに追い越されるんじゃねーぞ」
 ゼニガメは少しむっとしていたが、反骨心だと思った。チームリーダーにはこれくらい言っても問題ないだろう。ゼニガメにはそれくらい期待している。グリーンは相棒の顔を見ずに、捕獲したポケモンの中からケーシィを選び出した。エスパータイプは全体的に優秀だと聞いたことがある。きっと、即戦力になるだろう。
「じいちゃんのボイスチェッカーでこいつのこと、分からねえかな」
 ケーシィのボールを左手に持ち替え、ボイスチェッカーを右手で起動した。祖父の情報を確認するはずが、最近登録したばかりのタケシの項目に新着通知があったので先にそちらを選択した。褒めてもらったのが嬉しくて、ジムを出た後にすぐ設定したのだ。ボタンを押すと、いきなり胸弾むような新着インタビューが流れる。
『最近、期待しているルーキーはいますか?』
「そうだね、マサラタウンの……」
 息が止まる。
 それって、もしかして。
『レッドくんかな。彼はなかなか気骨のある、優秀なトレーナーだよ。将来が楽しみだ。他には……』
 そこでボイスチェッカーの再生を止めて、長椅子の上に投げつけた。ゼニガメがびくりと身体を震わせたが、気遣っていられる余裕はない。
「何だよ。あいつ、見る目ねえな」
 少年は初めて社交辞令という言葉の意味を理解した。
 レッドのことはよきライバルだと思うようにしている。だが先回りしても彼はこうして自分に追いつき、追い越してくる上にポケモンバトルではまだ一度も勝ったことがない。その現実はグリーンの気持ちを逸らせる。
 ゼニガメは長椅子の隅に転がったボイスチェッカーを拾い上げ、主の機嫌が戻るのを待った。
 

 またレッドに負けた。これで三度目だ。
 幼馴染は決して嫌いな存在ではないが、同じ相手に負け続けると身体から力が抜けて、かさかさに乾燥する。乾いた唇を噛み締めると、砂鉄みたいな味が舌先を痺れさせるから気分が悪い。水の都ハナダシティも今は濁って汚く見える。そしてタケシ同様に、この後にジムリーダーのカスミが幼馴染を称賛する流れが来そうだったので、ボイスチェッカーをレッドに押し付けた。
「これ、お前にやるよ。おれは他人の噂なんか興味ねえから」
 ブルーバッジを先に獲得したのは自分だ。だから実力はこちらが上だと思っていたのに、レッドのヒトカゲはリザードに進化し、じっくり育成していたらしいバタフリーやオニドリルに圧倒された。確実に後ろから迫る、幼馴染の存在が憎たらしい。先へ先へと急いてはいけないのだろうか――こちらも同じくらいバトル経験を積んでいるはずなのに、相棒はゼニガメのままだ。
 そのゼニガメが市内のポケモンセンターで回復を終えて戻って来たが、レッド戦の連敗を引きずっているのか浮かない顔だ。こんな弱気ではいつまで経ってもレッドに届かない。幼馴染を越えてポケモン図鑑を完成させ、リーグを制覇すればボイスチェッカーで自分の情報を発信するだけの名声を手に入れられる。そうすれば自分は祖父や姉に肩を並べられる。そんな希望がグリーンを衝動的に動かした。
「リザードと相性がいいのに勝てなかったのはお前が進化してないからだ」
 ゼニガメの顔がきゅっと強張る。きつい物言いかもしれないが、はっきり伝えないとポケモンは理解しないし、自分の気も晴れない。
「それからケーシィがまだテレポートしか使えねえのと、レベルの低いコラッタが足引っ張ったのが原因だな」
 グリーンは思いつく限りの要因を捲し立てると、「よおっし、これから特訓だ。行くぞ!」と叫んでポケモンセンターを飛び出した。
 お友達気分の馴れ合い旅をしていてはレッドに勝つどころかリーグにも挑むことが出来ない。ポケモン達もそれを理解しているはずだ。野生ポケモンとの戦闘を二倍に増やし、トレーナーにも積極的に話しかけて野良バトルを申し込んだ。ぼろぼろに疲弊すればポケモンセンターで回復し、それから日が暮れるまで走り込み。次に到着したクチバシティは夜になっても明かりが多く残っているから、遅くまで訓練を続けることが出来る。
 その猛特訓が実り、コラッタがラッタに、ケーシィはユンゲラー、そしてゼニガメはようやくカメールへと進化を遂げた。
 これなら勝てる。

 絶対にレッドに勝つことが出来ると思ったのに。
「なんだよー。ムキになっちゃって」
 サントアンヌ号の中で叫びたい衝動を抑えるのに必死だった。こいつの前では絶対に弱みを見せてはならない、と何度も頭に言い聞かせる顔はひどく引きつっていたはずだろう。この感情をどこかに逃がさなければ窓を割って海へ飛び込んでしまいそうだったので、この船の船長を「船酔いゲロじじい」と貶めて足早にレッドの元を去る。
 瞼の裏がぴりぴりと痺れて視界がちらつき、口の中はからからに乾いていた。ここで水分を補給すれば、あの船長よろしく胃の中のものをすべて吐き出してしまいそうだ。
 まさかの四連敗。
 手持ちは全員進化したのに、終始レッドに押されて負けた。彼の手持ちからはバタフリーやオニドリルが外れ、ダグトリオやスリープが加入しており、それら新戦力に屈してしまったのだ。前回のバトルで特に苦戦を強いられたバタフリーの対策を念入りに行っていただけに無駄骨となったのは痛い。それに対し、こちらの面子は前回と変わりないので対策は楽だろう。
 ならば自分も手持ちを大幅に入れ替えればいいのではないのか――気を緩ませればすぐに遠のく意識の中で、そんな考えが浮かび上がった。何度もバトルを重ねるうち、ラッタは他のメンバーより負けが目立つようになっている。
 よろめきながらクチバのポケモンセンターへ入り、回復を待つ間もセンターの隅に置かれたボックス端末がちらついて離れない。次もレッドに負けたら今度こそ立ち直れないだろう。同じ日に旅立った幼馴染に届かないどころか大差をつけて置いていかれる屈辱と焦燥で身体が痺れ、手先が冷える。自分の実力はこんなものではないはずだ。同じポケモンばかり起用して負けるのなら、別のポケモンを起用しよう。長い付き合いだったが仕方ない。仕方がない、と何度も言い聞かせても不思議とすぐには踏み切れない。するとセンター内に手持ちの回復を知らせるアナウンスが流れた。
 カウンターでボールを受け取り、カメールを連れ歩くためにその場に繰り出す。
 顔を上げたカメールと視線が合った。相棒は無表情のまま、こちらの言葉を待っている。レッドに負けて落ち込んでいた進化前と反応が違っていたから、何を言えばいいのか分からず困惑した。
 次は勝とうな。
 本来ならそれだけで十分なはずだが、次の敗北が怖くて喉につっかえ、代わりに別の言葉が出かかった。
「なんで……」
 なんで、いつも負けるんだよ――カメールの表情が一瞬崩れたのを見て、即座に右手で口を塞いで視線を逸らした。それを言うのはあんまりだ。深呼吸しながらポケモンセンターを出て、他の手持ちもその場に呼んだ。サントアンヌ号の船長から貰ったひでんマシンを掲げ、引きつった笑顔でメンバーを見渡す。
「まーたレッドに負けちまったが、まあそのうち勝てるだろ。気分転換にクチバジムへ挑戦して、さくっとバッジをいただいちゃおうぜ! 誰か、『いあいぎり』を覚えられるやつ!」
 カメールがぷいと視線を逸らし、ピジョンとユンゲラーが申し訳なさそうに俯いた。ラッタだけがここぞとばかりに尻尾を振ってアピールしているが、入れ替えを検討している手前、覚えさせるのに躊躇する。グリーンはラッタを避けてカメールの前にひでんマシンを差し出した。
「カメール、お前どうだよ」
 鼻先に付き出した途端、カメールは尻尾でグリーンの手を払い、ひでんマシンを叩き落とした。ポケモンを油断させる「しっぽをふる」技だが、人間の甲に当たればひりひりと痺れる。唖然とするグリーンに対し、カメールは噛み締めた歯の隙間から荒い息を漏らしながらラッタを指す。かれに覚えさせろ、と激しくアピールしていた。
「覚えられねえなら、別にいいけど……」
 だからってその態度はないだろう、とすぐにその場で叱るべきなのに、激しく拒否された衝撃で咄嗟に動くことが出来なかった。相棒もレッドに負けて機嫌が悪いのだと考えて混乱を抑え込む。カメールだけはレッド戦の黒星が他より一つ多い分、ナーバスになるのも仕方がない。何はともあれ、ラッタに活路が見出せてよかった――と、グリーンは綻びなど気にせずに前だけを向くことにした。


 Tシャツや靴下に穴が開くと、それをきっかけにびりびりと破れていく。その場合、新品に買い換えれば済む話だ。だがポケモンはそうもいかない。草むらに行き、ボールから出してバイバイ、元気でな!――と、さっくり切り捨てられるならどんなに楽だろう。
「カメール、みずでっぽう!」
 野良バトルを仕掛けてきた「怪獣マニア」のガラガラに対し、グリーンはカメールに水技を命じる。だが相棒はぷいと顔を逸らし、ガラガラの骨棍棒に噛みついて武器を取り上げると、そのまま体当たりした。二匹が砂場に倒れ込み、砂塵が舞う。みずでっぽうで先制すれば試合が有利に運ぶのに――グリーンは舌打ちしながらカメールを叱責する。
「相撲でもやるつもりか!? いい加減にしろ!」
 立ち上がったカメールが、こちらを睨んで水を吹きかける。ポケモンに対し致命傷を与えることもあるその技が腕をかすめると、肌の奥に痺れる痛みが走った。
「てめえ!」
 すぐに声を荒げる。
 ゼニガメの頃ならこれで大人しくなったが、今は違う。カメールはバトルを放棄し、身を翻してグリーンに飛びかかる。咄嗟に回避し、ボールへ戻した。相棒はボールの内側を引っ掻きながら、ガタガタと暴れ回っている。これで何度目の反抗やら、数えるのもやめてしまった。バトルフィールドの反対側にいる怪獣マニアが呆れたように肩をすくめる。
「あのさあ、バトルの相手はこっちなんですけど……」
 そんな事は分かっている――意識せず眉間に皺を刻み舌打ちをしたから、脅えたトレーナーが逃げ出してバトルはそこで中断となった。
「どいつもこいつもビビりやがって」
 グリーンは路傍の石を蹴り上げ、右手に握りしめたカメールのボールを睨みつける。ポケモンは掌の熱を感じることなく、涼しい顔でそっぽを向いている。
 サントアンヌ号でレッドに敗北してから、カメールが自分の言うことを聞かなくなった。
 バトルでは勝手に戦おうとするし、餌も拒否してその辺で調達する。だが他の手持ちとはこれまで通り友好的で、ラッタなどは特に可愛がっており、少しでも引き離そうとすれば手を噛もうと威嚇するほどだ。こんな調子だからまともなポケモンバトルは出来ない。クチバジム戦はカメール不在でも切り抜けたが、ジムリーダーのマチスに苦言を貰ってしまった。
『バトルには負けたからバッジはやるが、君がチャンピオンになりたいのであれば今一度カメールと向き合ってみることだ』
 片言でははっきり伝えられないからと、通訳を介してそう告げられた。
 カメールの信頼が戻らなければリーグへの挑戦が困難であることは分かっている。だが、何度バトルフィールドに繰り出しても相棒の機嫌が戻ることはない。

 どうすればいいのだろう。
 ボイスチェッカーもなければ相談できる友もいない。レッドに聞いてみるのはもっての外だ。早く解決しなければ幼馴染に追い抜かれる――ゼニガメだった頃にかれと楽しんでいた記憶を掘り返した。慌てるように十番道路を抜けてイワヤマトンネル前にポケモンセンターへ駆け込み、シャワールームを借りる。
「よおっし、シャワー浴びながら話そうじゃないか!」
 引きつり笑いを浮かべながらカメールを繰り出し、Tシャツを脱いだ。ゼニガメの頃はシャワールームで一緒に身体を洗うのが好きだった。まだ「あわ」は覚えている。グリーンは数ヶ月前の真似事をすれば簡単によりが戻ると考えていたが、取り繕うような態度は見透かされていた。ボールから出されたカメールはシャワールームの隅に腰を下ろし、ぽつんと座り込んだままこちらを睨んでいる。
 シャワーを一緒に浴びたら機嫌を戻すと思っているんだろう、とでも言いたげだ。その態度がたまらなく腹立たしく、関係の修復に焦る自分が馬鹿みたいに思えた。
「何が気に入らないんだよ」
 こんな時、ポケモンと会話できないのが憎たらしい。言ってくれれば分かるのに――かれは何を考えているのだろう。思えばゼニガメの頃から内に不満を溜め込んでいるようなところがあり、感情を掴めないことも多かった。もしかするとレッドに負け続ける自分を馬鹿にしているのかもしれない。芽生えた疑念がみるみる膨らんでいく。そんな確証はないのに、早く解決したい衝動でグリーンは相棒にそっぽを向いた。
「もう、お前なんかいらねえっ!」
 脱ぎ捨てたシャツを掴んでシャワールームを飛び出した。

 馬鹿、何やってるんだよ、ちゃんと原因を考えろ――理性が頭の上から警鐘を鳴らす。ここでカメールを捨てた所でメリットはない。引き返せ。分かっていても、身体はセンター内のボックス端末へ進んでいく。
 おやに背くポケモンはいらないんだ。カメールが居なくたって、例えば代わりの水ポケモンはいくらでも捕まえている。ボックスから進化したばかりのギャラドスを引き出した。あとは育てれば強くなると聞いたガーディにタマタマ。既存メンバーとの兼ね合いも考えずに手持ちを埋め尽くし、これでカメールが入る隙はない。
 すっきりした。ああ、すっきり。
 強く言い聞かせても身体は重たいままだ。後悔が枷となって足を引きずり、端末から離れるのも億劫だ。なんとか顔を出入り口に向けた時、シャワールームへと続く通路の影にいたカメールと目が合った。
 偶然ではなく、自分がそちらに視線を向けたからだ。
 カメールはグリーンを見つけた途端、ばつが悪そうに後退する。外へ出ようとしたタイミングが重なってしまったのか、あるいは未練か。グリーンは後者であればいいと願った。
 ふいに通路の奥から歩いてきた職員がひとりぼっちのカメールに目を留めて駆け寄ろうとする。捕えられまいと、グリーンは即座に声を上げた。 
「来いよ」
 カメールと職員が同時に視線を上げた。
「そいつ、オレのポケモンなんで」
 職員はカメールがはぐれただけと判断したのだろう。満足げに会釈して、その場を通り過ぎる。グリーンは立ち尽くしたままのカメールに手招きした。相棒がおずおずとこちらに近寄る。和解する最後のチャンスだ。しかし何が悪いのか分からなかったから、結局悪態になった。
「センターに捨てたら、オレが悪者みたいじゃん」
 ぽかんとしていたカメールの表情がみるみる硬くなった。関係はどんどん悪くなる。素直に向き合えばいいのに、カメールの背信を許す器量がない。何とか折り合いを付けても、次にレッドに負けたらきっとまたつれない言葉を吐いてしまうだろう。ならば、別れるしかないのだ。
「イワヤマトンネルで別れようぜ……」
 カメールを見ずにトンネルの方へ早足で歩いた。この辺りで逃げればいいのに、律儀に連れ添うカメールの足音が聞こえる。
 雑草をさく、さくと踏みしめる音がグリーンの靴と重なる。
 あんなに悪態をついていたのに、どうして最後だけ従ってくれるんだろう。カメールはチームリーダーだったからか、妙に義理堅い所がある。

 林を横切り、イワヤマトンネルが近付くにつれ周囲は闇に覆われていく。耳の中に残るのは自分ともうひとつの足音だけ。振り向かなくてもまだカメールがいることがはっきりと分かる。地元を旅立った頃から連れ歩いている相棒だから間違いない。ちらりと後ろに視線をやった。半分暗闇に隠れているが、カメールは黙って後ろを歩いている。あの反抗が嘘のようだ。
 このままトンネルを抜けてシオンタウン側へ出たら、二人の関係も元通りになっているかもしれない。そんな欲が灯る。やはり自分はカメールを手放したくはないのだ。今なら引き返せる。
「なあ……」
 グリーンは後ろを振り返った。
 イワヤマトンネルの入り口を過ぎた所に、カメールがぼんやりと立っている。修復するなら今しかない。だけど何を話せばいいのだろう。カメールの不満の原因を理解しなければ、軽率に謝っても意味がない。ポケモンは不思議そうにこちらを見つめたまま。そんなことも分からないの、と言いたげな眼差しがグリーンを逸らせる。どうしよう。どうすればいい。
 やっぱり、分からない。
 そこで諦めた。
 カメールを理解できないのであれば、この関係は終わっている。グリーンは一歩後ずさり、暗闇の中へ走り出す。
「じゃあな!」
 未練がましく振り向くのは格好悪い。いつまで執着してるんだ。トレーナーの言うことを聞かないポケモンなんてこの先も足を引っ張るに決まっている。だから、ここで別れて正解なんだ。何度も自分を騙しながら入り口の光が届かない奥へ、奥へと駆けていく。ガーディの火を借りて松明を作らせることも出来たが、カメールから離れることで精一杯だった。

 この真っ暗闇のトンネルを抜けて、自分の気持ちにも区切りを付けよう。そう言い聞かせながら走り続けた。背中をズバットが掠め、岩陰に潜んでいたコラッタらしきネズミがグリーンの気配を感じ取って逃げていく。そのうち目が慣れてきて、トンネル内の岩壁が闇の中にぼんやりと浮かび上がった。この調子なら灯りを持たずともそのまま抜けることができそうだ。入口の光がすっかり遠のいたところで、グリーンはようやく足を緩めた。
 カメールの気配はもうない。それどころか、野生ポケモンの息遣いも聞こえなかった。音と景色が闇の中にすっと溶けていき、黒く塗りつぶされた地図の上に少年の座標が一つ、不安定にゆらゆらと揺れている。グリーンはここでようやく一人の怖さを知った。
 先の道を照らしてくれる、安心できる灯が欲しくてたまらない。グリーンは慌ててベルトからガーディのボールを取り外し、その場に繰り出した。ガーディは暗闇に驚愕しながら、火の粉を宙にぽっと吐く。橙色の火は風に流されながら、花火のように大袈裟に爆ぜた――ように見えただけ。火の粉は目の前の、鏡と見紛うほど磨き上げられた岩石に反射して瞬いたのだ。
 真っ暗闇の中、頬を撫でる生温い鼻息ときらめく岩肌でその存在にようやく気付く。ポケモンは息を潜めて獲物がやって来るのを待っていた。鉄蛇が尾を引きずりながらゆっくりと身体を持ち上げると、トンネル内に地鳴りが響き渡る。
 グリーンは息を呑んだ。ポケモンバトルでは未対決だが、その姿は知っている。
「ハガネール」
 火の粉が散って辺りはまた暗くなったが、こちらを獲物と捉えたハガネールの視線ははっきりと肌に伝わってくる。早く逃げなければ――後退は一歩目で止まった。
 野生のポケモンに慄く程度ではレッドに勝てない。グリーンはタマタマをその場に繰り出すと、フラッシュを命じながら辺りを照らす。
 予想通り、ここはハガネールの住処らしく他の野生ポケモンは見当たらない。ハガネールがのそりと頭を起こす間に、グリーンはガーディを嗾けた。
「鋼には炎がいいんだよな。行け、ガーディ!」
 技は――何を覚えているんだっけ。ボックスから引き出したばかりだから、先ほどの「ひのこ」しか浮かばなかった。その程度ではいくら属体的に有利でも敵うはずがない。その一瞬の迷いを突いて、鋼の鞭が飛んでくる。ハガネールが尾を振り回し、ガーディとタマタマをまとめて薙ぎ払った。洞窟を照らしていた光が弱くなり、少しだけ暗くなった視界がレッドに敗北した瞬間と重なる。それに冷や汗をかいたグリーンは急いで次のボールを掴んだ。
「ギャラドス……」技はコイキングから進化した際に習得したあれを使おう。「かみつけ!」
 ギャラドスが咆哮を上げながらハガネールに跳びかかり、鼻先に食らいついた。一匹だけでは倒せないかもしれないから、アシストのボールを投げる。
「ピジョン、ラッタ! 援護頼む!」
 二匹がギャラドスの背中を追いかけ、左右に分かれて技を繰り出そうとする。連携を把握しているカメールなら噛みつきながらハガネールの身体を捻り、攻撃を繋ぐことができたが、新入りのギャラドスは後衛を無視してハガネールにのし掛かり、自ら壁となって追撃を阻んだ。
「おい、ギャラドス、ちょっと退け……」
 グリーンの叱責をかき消すようにハガネールが咆哮し、激しく暴れながらギャラドスを押し返した。それにピジョンが巻き込まれ、二体が倒れた後に鋼の尾がグリーンの耳上をばしんと掠める。強い衝撃に脳天が揺さぶられ、鐘の中に閉じ込められて外から何度も叩かれているみたいだ。目の前がぐるぐると回って、そのまま気を失いそうになったが、何とか踏みとどまって意識を繋ごうとする。ガーディやタマタマが一撃でやられたのも納得だ。
 このままでは負けてしまう。
 それもトレーナー戦のような屈辱だけ覚える程度の敗北では済まされない。

 この野生のハガネールは今の自分の実力ではとても倒せるような相手ではない。
 対峙した際にすぐ逃げていれば手持ちの半壊は免れることが出来たのに、レッドとの敗北を引きずるあまり、自分はつまらない意地を張って無謀にも戦うことにした。手持ちをまるで考慮していなかったにも関わらず。
 そもそも、負けが続いてからメンバーの事情などろくに把握してはいなかった。敗北が怖いからとにかく勝ちたい、自分のエゴばかり押し付けていたのではないか。その結果がこれだ。
「だからカメールは……」
 相棒は誰よりもそれを憂いでいたのに、自分はそれに気付けないどころか責任を擦りつけていた。怒るのも当然だ。立ち尽くすグリーンを、攻撃を免れたラッタが不安げに見上げる。驚くほどハガネールに怯えていて、改めて無茶を強いていたことを後悔した。すぐにでも入口へ引き返してカメールに謝罪したくなかったが、それは後だ。今は目の前の仲間を見なければならない。
「ラッタ、逃げるぞ! こわいかお!」
 倒れた手持ちをボールに戻し、ラッタにハガネールを牽制させてから一緒にトンネルの奥へと駆けだした。フラッシュの灯りが徐々に消えていくが、とにかく離れなければ命はない。眩暈は残っているし吐き気さえ催していたが、逃げる事だけを考え、走りながら最後のボールを握りしめる。
「ユンゲラーのテレポートで外に出るぞ!」
 ユンゲラーは物理攻撃に弱いから、ハガネールの打撃を食らえば終わりだ。相手と十分離れてから繰り出そうとした矢先、背後から風を切って無数の礫が飛んできた。ハガネールのストーンエッジだ。すかさずラッタがグリーンの背後にぴたりと付いて尻尾で岩を払い落とす。ところが一つ避けそこねた礫がラッタの頬に刺さり、そのままグリーンと衝突する。ふたりはもつれ込みながら地面に倒れ、そのはずみでユンゲラーのボールがこぼれ落ちた。
 グリーンは土まみれの顔を上げる。
「ラッタ!」
 ラッタは遠くへ転がるモンスターボールを追いかけている。そこへハガネールが勢いよく尾を振りかざした。
 ラッタがサッカーボールのように、ぽんと跳ねた。
「ラッタ」
 グリーンの眩暈と吐き気がぴたりと止んだ。
 それでも息苦しさが残るのは、転んだ際に飲み込んだイワヤマトンネルの土が喉につっかえているからだろうか。土で真っ黒になったラッタが、もう一度地面を蹴ってユンゲラーのボールを掴もうとする。その頭上に鉄蛇の身体が降ってきた。ストーンエッジからのたたきつける、というバトルフィールド上ではよく見る流れが今はとてもおぞましい。グリーンは鋭い悲鳴を絞り出した。
「やめろ!」
 ラッタが寸での所で圧迫攻撃をかわし、ボールを前足で蹴ってグリーンの前に落とした。
「お前も早く、こっち来い!」
 ユンゲラーのボールを拾ったグリーンは、ラッタも帰還させようとする。だが、ラッタのモンスターボールのスイッチを何度押しても作動しない。理由はすぐに分かった。背後にやってきたハガネールがラッタの尻尾に噛みつき、そのままずるずると飲み込もうとしている。
「くそっ、噛まれてるとボールに入らねえのか……何だよこれ、欠陥品じゃねえか! こんくらい想定しとけよ!」
 融通の利かないボールへの怒りとラッタの命の危機に、グリーンの身体が冷たく震える。早く助けないと――ラッタは離別を覚悟したような眼差しを浮かべ、ハガネールの口に挟まれたまま、ぐっと悲鳴を堪えている。どこかカメールと重なる姿にグリーンは自らが腹立たしくなった。これ以上、ポケモンに我慢させてどうするんだ。他より劣っていても、ラッタは手放せない大切な手持ち。必ず連れて帰るんだ。ボールを掴み、高らかと叫ぶ。
「お前まで見捨てる訳ねえだろ! ユンゲラー、かなしばり!」
 ボールから召喚されたユンゲラーがハガネールを縛る念を掛け、動きが鈍った隙にグリーンがラッタの元へ走る。ぐったりしたラッタを抱え、ハガネールの牙の隙間から引っ張り上げようとしたが、尾を咥え込んでいるようで身体が抜けない。もたついていると噛み千切られる。グリーンはハガネールの口に腕を突っ込んだ。身動きできない鉄蛇が地響きに似た唸り声を上げて嫌悪を示す。相当怒らせているから「かなしばり」が切れたら自分も終わりだ。それでもラッタを捨てることなんて考えられなかった。
「くそっ、いい加減離せよ! オレのポケモンは餌じゃねえんだよ!」
 リュックから釣竿を引っ張り出してハガネールの口に引っかけ、てこでこじ開けるタイミングでユンゲラーに叫んだ。「ねんりき!」ポケモンの念力とてこの力が同時にかかってハガネールの口が緩みかけた。だが先に釣竿が根負けして真っ二つに折れ、その勢いでグリーンが後ろへ転倒する。ぐったりしたラッタが主を心配するように小さく鳴いた。
「オレは大丈夫だ。待ってろ、もう少しの辛抱だからな。すぐ助けるから」
 そう言って立ち上がろうとしたが、腰を強く打ちつけたのか下半身が裂けそうな激痛が走って膝が上がらない。ハガネールに噛まれたラッタに比べればずっと楽なはずなのに、痛みを抜くように深呼吸を繰り返しても足は少しも動かなかった。
 「ねんりき」で何度もハガネールを攻撃しているユンゲラーが、そろそろ「かなしばり」が切れそうだと主に鳴く。早く立たなければラッタが食われる。カメールに続き、自分の失態でこれ以上仲間を失ってはならないが、歯を食いしばりながら急げ、動け、助けろ、と何度も言い聞かせても酷い痛みばかりが起こり、やがて目尻に涙が滲む。
「もう少し我慢しろよ、絶対助けるから」
 ハガネールとの勝負は逃げても、自分自身には負けたくないのにそれができないのが悔しくてたまらない。せめてユンゲラーの他にあと一匹、手助けしてくれるポケモンがいれば。思い浮かぶのはただ一匹だけ。それでも自分が立ち上がらねばと渾身の力を籠めながら、土まみれの右足を踏みしめる。そこへ水しぶきがぱっと降りかかった。くるぶしを濡らす水滴は心地よく、トンネルの天井から垂れる生ぬるい湧水ではない事はすぐに分かった。グリーンが噛み締めるように顔を上げると、目の前で大きな甲羅が跳躍しながらハガネールの両目に向けて「あわ」を放っている。
「カメール」
 呼ばれたカメールがこちらを向いた。顔は泥だらけで、身体のあちこちにトンネル内を駆けずりまわったような痕跡がある。別れた後にカメールが何をしていたのかすぐに把握できた。グリーンが声を掛けようとした時、目をやられた鉄蛇がたまらずに頭を振った。再会を喜んでいる暇はない。今やるべきことは、ただ一つ。
「カメール、みずてっぽう!」
 グリーンの指示を受けたカメールがハガネールの口にみずてっぽうを噴射してラッタを押し出した。水浸しになったラッタがグリーンの前にころりと転がる。限界まで腕を伸ばして抱きかかえたが、やはり立ち上がることはできなかった。すると身体がふわりと浮いた。カメールが自分とラッタを甲羅に背負い、ユンゲラーの元へ駆け寄りながら、テレポートのサインを出している。地面から離れた途端に、心の底に沈んでいた重りが消えてすべてが楽になった。
 今なら言いそびれていたことを伝えられる。念力の光に包まれながら、グリーンはぽつりと呟いた。
「ごめん……」
 カメールの耳が一度だけ、ぴこんと揺れた。
 
 +++

 最後に回復を終えたのは自分だった。
 テレポートしたイワヤマトンネル前のポケモンセンターはトレーナー向けの医療設備が少ないとのことで、シオンタウン側のセンター付属病院へ搬送され、打撲と診断されて安静入院。病室から出られたのは二日後である。院内のコインランドリーで洗った私服に袖を通し、退院の手続きを済ませると、職員がグリーンのポケモンを返却してくれた。
「はい、ポケモンはみんな元気になっていますよ」
 受付カウンターの上にはポケモン入りのモンスターボールが五個と、空のボールが二個置かれていた。先に手持ちをベルトに装着し、両手に空のボールを持って出口へ向かう。妙に息苦しいのは腰に巻かれたコルセットだけではない。自動ドアを抜けると、病院前の広場でカメールとラッタがグリーンを待っていた。
「よお。やっと退院」
 ラッタはグリーンを見つけると、嬉しそうに声を上げながら駆け寄ろうとする。ところが身体は不安定に左右に揺れ、すぐにバランスを失って転倒した。グリーンは息が止まりそうになったが、すかさず後ろにいたカメールが介助し、ラッタはまた立ち上がる。
「やっぱり、上手く歩けないか」
 ハガネールの攻撃により、ラッタは尻尾を噛み千切られ、右足も骨折した。しばらくはリハビリに専念するしかなく、そうなると一線から退かなければならない。グリーンはその場に腰を下ろすと、息を長く吸い込んでからラッタに告げる。
「姉ちゃんに連絡して、お前を預かってもらうことにしたんだ。これから当分の間、オレんちの留守番だ」
 途端に、ラッタの笑顔が強張った。
 この先も旅に連れて行ってもらえると思っていたのだろう。グリーンもそのつもりだったのに、自らの失態が戦力外という結果を招いてしまったことが無念でたまらない。奥歯をぐっと噛み締め、無理やり顔を引き締めた。
「これは重大任務だぞ。オレんちは勝手に上り込んで姉ちゃんからタウンマップをぶんどってく輩がいるからな、二度目は阻止しないと……」
 また誤魔化そうとしている自分が恥ずかしくなって言葉を止めた。本当に言いたいことを後回しにするのはもうやめよう。
「ごめんな……」
 ラッタを抱き寄せた途端、喉の奥が熱を帯びて声が掠れる。
「本当にごめん。オレが無茶したせいで、こんなことになっちまった。レッドに負け続けてお前らのことを見なかったから……」
 耳元でラッタがきゅい、と咎める様子もなく小さく鳴いた。
 グリーンの濡れた視界にはぼやけた茶色の体毛ばかりが広がり、そこから包み込むような「あわ」の香りが匂い立つ。すると旅の甘い記憶ばかりが蘇り、自分が許された気分になった。
 でも、それでは駄目だ。
 グリーンは故障の程度をまとめた手紙をラッタに持たせると、ボールに戻して目尻に溜まっていた涙を拭い去った。
「ありがとな」
 傍にいたカメールに礼を言う。
「お前が来てくれなきゃ全滅だった。見捨てないでくれて、ありがとう」
 主の素直な態度にカメールは目を丸くしたが、すぐに察して頷いた。相棒はそれだけでは満足せず、次の言葉を望んでいる。新たな覚悟を待っているのだろう。
「なあ、カメール」
 真っ直ぐな眼差しをカメールに向ける。
「これからどんどんレベルの高いトレーナーと戦っていくのに、レッドに負けたくらいでメソメソ落ち込むのはカッコ悪いよな。あいつとはいくらでも再戦のチャンスがあるんだ。三度や四度負けたくらいで……いや、できれば最小限に抑えるべく研究もするけど、それでも難しいなら負けてやるのもいいと思う」
 噛み締めた敗北を飲み込まなければ先には進めない。勿論、すんなりとは受け入れられないだろう。現に、相棒はその答えに驚いて顔を強張らせている。負けてもいいの? と言いたげだ。
「勿論、“今は”、だけどな。オレもお前も、今は気にせず行こうぜ」
 カメールが頷き、また旅をしようとグリーンの手を引く。遠慮がちだった相棒が感情をまっすぐ出してくれる姿が嬉しい。この経験は旅の転機となるだろう。
 今は焦る必要がない。でも、最後にポケモンリーグの一番上で笑うのは自分達だ。

→エピローグ

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