熱に揺らめくフィールドの真ん中で相棒が倒れている。
 この光景は幾度となく見てきた。ポケモンバトルに同じ展開はない、この瞬間は一期一会だと誰かが言っていたが、この場面を前にしてどう弁解するのか聞いてみたい。
 幼馴染に負ける瞬間はいつも同じ場所で選んだ旅立ちのパートナー同士、因縁の一戦。聞こえはいいが、そう表現するには恥ずかしい戦績だ。

 結局、レッドのパートナーには一度も勝てなかった。
 ナーバスになるあまり大失態を犯してしまい、レッドになら勝てなくてもいいと思うようになった。レッドだけなら後悔はないとなるべく気にかけないようにして持ち直し、ついにポケモンリーグの頂点に上り詰めたはずだったのに。
「馬鹿な!」
 本音を叫ぶと、忘れかけていたあの感覚が蘇る。
 リザードンの炎が残っているのに身体が寒さで震え、指先の感覚を失って喉の奥から渇きが押し寄せる。視界に白い粒が瞬き、夜の砂漠に取り残された気分だ。
 ここでも同じ結果になるとは思わなかった。
 ほんの数日前まで、ようやく一番になれた喜びを手持ちポケモン達と分かち合っていたあの時間がこんなに早く終わるなんて思わなかった。明日はボイスチェッカーで流すインタビュー取材が予定されていたし、その次の日は故郷でリハビリ中のラッタを呼んでセキエイリーグのバトルフィールドを見せてやるつもりだった。それなのに――
「本当に終わったのか!」
 もう駄目だ。
 これまで押さえ込んでいた敗戦の屈辱が壁を破って溢れ出す。
「全力をかけたのに負けた……せっかくポケモンリーグの頂点に立てたってのによう、そりゃないぜ……」
 身体からふっと力が抜けて、カメックスに駆け寄ることも出来なかった。
 そんな反応をレッドは初めて見たのか、一匹だけ残ったリザードンと勝利を分かち合いながらもどこか気まずそうで落ち着かない。彼の性格上、過度な慰めの声を掛けることはしないだろう。先ほど負けた瞬間に「いい勝負だった」とぎこちなく微笑んだきり。レッドは元々そういう奴だから今更気にはしない。
 トレーナーは別にして、どうして負けてしまったのだろう。
 一時は迷走していたが、ラッタの故障以降は手持ちポケモンと向き合い、着実に経験を重ねてリーグチャンピオンに上り詰めた。カントーとジョウト地方に属するポケモントレーナーの頂点。この結果があるから、自分のやって来たことは間違っていなかったはずなのに。
 ふいにグリーンが顔を上げると、フィールドの中央で倒れるカメックスと目が合った。リザードンのフレアドライブを受けて気絶していたが、また意識を取り戻したらしい。相棒は逞しい指先だけを小さく動かしながら、起き上ろうともがいている。かれはまだ戦えると思い込んでいる。
 お前はもう負けたんだよ――そうやって肩を叩き、現実を教えることに躊躇する。フィールドから動けない自分もまだこの敗北が受け入れられないのだろう。その気持ちは痛いほどわかる。一度は王者になった自分達が、結局レッドに破れて椅子から転落するなんて信じられない。
 それを強引に分からせたのは、後からやってきた祖父だった。 

「素晴らしい勝負だった。いやいや、レッドは大人になった!」
 祖父は大げさに両手を叩きながらレッドを祝福する。数日前に自分が殿堂入りした時と同じか、それ以上。相変わらず、孫はそっちのけの他人事だ。元々そういう人だから、今更落胆することはない。むしろ溺愛されて「コネでチャンピオンになった」と思われる方が迷惑だ
 祖父はひとしきりレッドを褒め称えた後、こちらに顔を向けた。
 見なくていいよ、と口の中で悪態をつく。
「グリーンよ、なぜ負けたのか分かるか?」
 それは正直、分からない。
 だが頑として首は横に振らなかった。
 すると祖父はフィールドの真ん中に倒れるカメックスと端に座り込む自分を見比べ、言い聞かせるようにはっきりと告げた。
「それはお前が、ポケモンへの信頼と愛情を忘れとるからだ」

 ああ、なるほど。
 そういうことか。
 
 頭がぼんやりする中で納得しかけた時、カメックスと目が合った。王者に相応しい貫録を備えていた相棒が、この時だけ小さなゼニガメに見えた。

+++
 
 チャンピオン専用の古びたロッカールームに初めて立ち入った時、グリーンはここが「王室」だと高揚感に満たされていた。だが王座から退いた今、改めて辺りを見回すと、そこはアイボリーで統一された壁や棚が奥行きを出しているだけの狭く小汚い更衣室だ。四天王最年長のキクコが若い頃にセキエイリーグに所属してから、この辺りの設備は塗装を直す程度で何の変化もないらしい。
 空っぽのハンガーラックの前に置かれた丸椅子に腰を下ろすと、パイプが軋む音が部屋を震わせる。きゅっとぎこちない金属音が心の内側を罵るように引っ掻いた。
 レッドに勝っていれば記者達の話声が響いていたはずだったのに、負けてしまったから予定はすべてキャンセルになった。花や差し入れの段ボールで溢れていたロッカールームは処分を頼んだ三十分で空っぽにされ、グリーンの私物をまとめたボストンバッグが一つ残されているだけだ。
 栄光は砂となって掌から零れ落ち、そして何もなくなった。ついでに色んな感情も流れてくれればよかったのに、それだけは図々しく居座ってグリーンを嘲笑う。
 悔しい。
 最後も負けてしまったことが悔しい。折り合いをつけてチャンピオンまで出世したのに、やはりレッドには敵わなかった。ここでもう一度現実を飲み込んで、永遠に二番目に甘んじなければならないのか。喉に力を籠めると、鋭い刺激が走ってそれを拒もうとする。
「クソ……」
 足元が歪み、顔じゅうから噴き出る雫がリノリウムの床に垂れる。
 手持ちは健闘した。レッドの手持ちを最後の一匹まで追い詰めたものの、根比べでカメックスが先に折れた、ただそれだけ。かれらは持てる全てを出し尽くしたのだ。今まではその内容で納得できたが、今度ばかりはこの結果が受け入れられない。それが衝突して堪えていたものが決壊する。
「チクショウウウ……!!」
 食いしばっていた歯の隙間から嗚咽が漏れる。不器用な呼吸をするたびに喉が震えて体液を撒き散らし、膝の上で握った拳やモンスターボールに降りかかった。回復を終えたばかりのカメックスがグリーンを不安げに仰いでいる。
「お前は悪くねえんだよ……」
 みっともない姿は見せたくなくて、鼻をすすりながら天井を仰いだ。
 『ロッカールーム内、モンスターボール使用禁止』の張り紙があちこちに貼られているにもかかわらず、アイボリーの天井はあちこちが焦げていたり、毒のような染みが残っている。歴代チャンピオンがマナーの悪い輩ばかりだとは思えない。王者とは孤独な存在のはずなのに、この辛気臭い部屋に一人でいるのが耐えられなかったのだろう。そのまま逃げるように部屋を出ればよかったのに、グリーンもそれに倣ってボールのスイッチを押す。ロッカールームがどしんと揺れてカメックスが現れた。相棒はこちらの顔色を窺う神妙な顔つきをしており、ゼニガメだった頃を思い出した。
「ごめんな」
 気を遣わせていることも含めてすぐに謝った。
「お前はよく戦ってくれたよ」
 無理やり笑って視線を靴に落とす。チャンピオンになった翌日に買い替えた本革ブーツは、涙や鼻水に濡れてとても汚い。旅で履き慣れたスニーカーならもう少し目立たなかっただろう。こんな些細なことすら、チャンピオンなど身の丈に合っていなかったのだと思い知らされる気がする。
 次はカメックスにどんな言葉を掛けようか。

 お疲れさま。
 今まで、ありがとう。最後まで戦ってくれてありがとう。

 そう押し通そうと決めて、顔を上げる。すると丸椅子から腰が剥がれた。
 カメックスがグリーンの腕を軽く引いただけなのに、身体はふわりと浮かび上がる。きゅっと床を鳴らす靴音が部屋の鬱屈な空気を取っ払った。
「お前……」
 主を立たせた相棒が、もう一度腕を引く。グリーンが一歩だけ前へ踏み出した。ポケモンリーグの仕組みを知らない相棒は、この敗北で諦めるつもりはないらしい。ロッカールームの外へ出て、次の勝負に挑もうとしている。かれは何度地面に這いつくばろうとも、レッドに勝つまでは戦い続けるつもりだ。グリーンがそうしたいように、ポケモンも同じことを考えている。
 ただ、その顔にはゼニガメだった頃の不安げな面影が僅かに残っていた。これでいいのかと伺いを立てるような面持ちに祖父の助言を思い出した。
「オレもお前も諦めが悪いよな。やり方を見直してまた挑戦しようぜ」
 カメックスの肩を叩いて口角を引き上げる。畏まった顔つきで迫ると余計な負担を強いることになりそうだから、精一杯の作り笑いだ。それを受け止めたカメックスがきゅっと表情を引き締める。相棒は分かってくれている。
 お前を選んでよかった。
 開きかけた口を閉じた。祖父は顔をしかめるかもしれないが、舌先に砂の味が残ったままそんな感謝は言いだせない。この言葉をかけるのはもう少し先にするつもりだ。
 グリーンはカメックスをボールに戻すと、棚に置いたボストンバッグを掴んでロッカールームを出た。

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