第6話:黒い牙のコウモリ・後編

 さざめく竹林の下を紫色のサソリがすり抜けていく。
 ここに住んでいるから逃げる動きには無駄がない。対して、後を追うウインディは密集する竹の間を潜るのがやっとの状態だ。騎乗するナギサに気を遣いながらも、目線より上に倒れる竹の存在をたまに忘れては主の肌を傷付ける。
「痛っ」
 折れた竹の枝がナギサの頬を引っ掻き、ウインディのディーノが心配そうに鳴いた。
「平気、それよりドラピオン……」
 頬を伝う赤い筋を拭いながら顔を上げると、周囲には青竹のさざ波が広がるばかり。追っていたドラピオンの背中は消え去っていた。ナギサは右手に持ったボールを腐葉土の上に叩きつける。これで五度目の捕獲失敗だ。

 セブンブリッジに入社して一ヶ月が経過した。
 ナギサは東厩舎でセブンスマンを育成することになり、ミシマから仕事の引継ぎをしながら新規にポケモンを捕獲するという段階まできたのだが、それが思うように進まない。一昨日からノーマルタイプ以外の気性が荒い野生ポケモンを捕まえてくるようにとミシマに言われ、牧場周辺の森林を捜索しているが取り逃がしてばかりである。
 そろそろポケモンの入ったボールを提出しなければ、あの優しい社長だって落胆するだろう。ナギサはディーノから降り、その背中にもたれ掛った。
「ノーマルポケモンが選択肢から外れるのが痛いよね。この辺りは野生のノーマルが一番多いんだもん」
 元ジムリーダーでベテランブリーダーのヤマベに配慮して、かつて彼が専門としていたノーマルポケモンを東厩舎では育成しない暗黙の了解がある。ジムリーダーは誇れる功績だが、たった三年務めた程度でここまで割を食うのが納得できない。年上とはいえ社長なんだから、ミシマはもっとヤマベに強く言ってもいいはずだ。東西の厩舎でタイプを万遍なく育てましょう、とか。
 その時、竹林の奥からがさごそと音がする。即座に顔を上げると、ジグザグマが横切るのが見えた。ナギサは舌打ちする。
「時間ないのに……」
 東厩舎にいる、既存のセブンスマンの育成の引継ぎは終わっている。
 彼らは皆、ナギサの右腕であるスピアーのモコを認めてそれに従うようになった。一日のルーティンや餌の調合などもほぼ身についている。あとは新規の捕獲とその育成を終えれば一人前だ。早くその段階に進みたいのに、目ぼしいポケモンはなかなか現れないし捕まらない。野生ポケモンをセブンスマンに仕立てるのは時間効率を考えてだが、これならたまにヤマベがやっている、同業の牧場で手が回らないポケモンを引き取ってきた方がまだ早そうだ。だが、あの親父に頭を下げてそれを頼みたくはない。
 ナギサは木漏れ日が揺れる空を仰いだ。
「ボックスにいるポケモンをセブンスマンにするのはどうかな……」
 バトルで出番もなくなってこのまま闘争心を腐らせるくらいなら、セブンスマンとして前線に出た方がポケモンも幸せではないのだろうか。
 だが、捕獲の要領を教えてもらった際に社長は言っていた。
「ナギサさん、これは必ず守ってね。たとえ新規の捕獲が上手くいかなくても、自分が所有するポケモンをセブンスマンに仕立てようとは思わないでください。手持ちが受け入れようが、それだけは絶対にやってはならないよ」
 やけに真剣な顔で何度も念押しされたから、やはり諦めた方がいいのかもしれない。素知らぬ顔で手持ちを馬房に入れたところで、きっと社長には見抜かれる。
 
 また、ディーノが何かに反応してそちらの方角へ首を伸ばした。
「何かいたの」
 薄暗い竹林の奥で黒い影がひらひらと舞っている。そこらの鳥ポケモンならノーマルタイプ持ちだから却下。だが、あの竹の継ぎ目を縫うような飛び方はコウモリだろう。外来種のココロモリ、オンバット、あるいは――目を凝らして分かった。
「ゴルバットだ」
 毒ポケモンは見た目が凶悪で打たれ強く、その悪臭さえ武器になることからセブンスマンに採用されやすい。ナギサはウエストポーチからハンカチを取り出すと、表に頬の血を染み込ませ、裏側にディーノの身体を擦り付けた。竹林に風が抜ける、そのタイミングを見計らってゴルバットの関心を惹こうと試みる。
 血と獣の交じった臭いが届いた時、大きな口を開けたコウモリがこちらを向いた。
「来た」
 狙いは頬から出血したナギサか、それともディーノか。
 ゴルバットは竹の間を器用に潜り抜けながら、こちらに迫る。踊るような鮮やかな動き、鋭い眼光に宿る獲物への執念。鍛え上げれば優秀なセブンスマンになるかもしれない。ナギサは腐葉土に捨てたボールを拾い上げ、ディーノから離れて指示を出す。
「ディーノ、かえんほうしゃ!」
 真正面から迎え撃つディーノがゴルバットに炎を噴く。コウモリは身を翻して上空へと舞い上がり、その翼で竹を真っ二つに切り裂きながらナギサを睨んだ。狙いがこちらに移った。すかさず叫ぶ。
「しんそく!」
 ナギサへ牙を剥くゴルバットへ、ウインディが上顎めがけて体当たりした。コウモリの身体がくの字に曲がり、鈍い音がして落ち葉の上に倒れ込む。今が捕獲のチャンスだ。ナギサはボールを掴んで右腕を振りかぶったが、そこでゴルバットが上の牙から出血したまま動かないことに気が付いた。

+++

「右上の牙の神経、死んじゃってるね」
 ゴルバットの黒ずんだ牙に触れながら、ミシマが結論付けた。
 ポケモンは会社にある回復装置を使ってすっかり元気になったが、上の右側の牙だけは色あせ、歯茎が腫れたままだ。後ろで治療を待っていたナギサは青くなる。
「これは治すのが難しいね。例えば『どくどくのキバ』を使った時に、この歯からは毒が出なくなるよ。膿まないように定期的に薬を付けるしかないな」
 ゴルバットは我慢ならない歯の痛みと慣れない人間を前にがたがたと身体を揺らしていたが、ジュペッタのヨギーにかなしばりをかけられ、自由に動けないまま診察を受けていた。意識が戻った直後に周囲を威嚇し、なおも抵抗を見せようとする、この気概を捨てるには惜しい。ナギサは意を決し、社長に切り出した。
「セブンスマンに育てるのは難しいですか」
 ゴルバットを診ていたミシマが目を丸くする。
「いや、牙を使う技を教えなければいいだけだし、大したハンデではないよ。ただ、これは捕獲の前に言い忘れていた僕が悪いんだけど、そもそもゴルバットって……」
 すると事務所の出入り口でちらちらと様子を窺っていたヤマベが、ナギサの無謀な提案を待っていたかのように割り込んでくる。
「おめえ、こいつが懐いてクロバットになることを知らねえのかよ!? 今日日、トレーナースクールのガキでも分かってる常識だろうが。ホントに四天王を二人も倒したのか?」
 ナギサはむっとしながら言い返す。
「それくらい知ってます。でも、毒タイプはセブンスマンに向いていますし、懐かないように訓練すればいいじゃないですか」
 そもそも捕獲に苦労しているのは、お前に気を遣ってセブンスマンをノーマルポケモン以外から選別する必要があるからだ。ゴルバットを採用できると聞けば、今更逃がす訳にはいかない。だが、ヤマベも退かなかった。
「あのな、懐いて進化するポケモンってのは他のに比べて特別、人間に情が湧きやすいんだよ。自ら進化に働きかけるくらい、敏感に人の感情を察知する。それは訓練でどうにかなるもんじゃない。不愛想なお前に懐かなかったとしても、その反動で警護先のトレーナーになびいて進化するケースだってあるんだ。そしたらどうなるか?」
 彼は勿体ぶるように息を吸い込み、しっかりと告げた。
「二度と帰ってこねえぞ」

 セブンスマンの盗難はよく聞く話だ。
 この会社でも何十件と被害に遭い、返ってきたポケモンはごく僅かだと聞いた。
「かわらずの石を身体に埋め込んだって同じだ。悪知恵の働くトレーナーはそれを取り出して進化させるからな」
 だったら進化させればいい。人の感情を汲み取れるポケモンなら、ずっとセブンスマンに向いているはずだ。好条件が出揃い、ヤマベに対する反骨心も相まって諦めるという選択肢はない。
「それなら私がこのゴルバットをクロバットに進化させ、その上でセブンスマンに育てます。勿論、懐かせないように躾けますから」
 この育成が成功すれば、ブリーダーとしての自信もつく。
 ヤマベに譲ることができるのは捕獲するタイプだけ。折れる気のないナギサに感心したミシマが、ヤマベに微笑みかける。
「ヤマベさんも以前、ミミロップをそんな風に育てられましたよね。もう引退しましたけど、あの子は対応が柔軟で評判が良かったですね。引き取り手の希望者は過去最多だったな」
 なんだ、そっちもなつき進化ポケモンを育成しているじゃないか。自分を棚に上げるヤマベが更に嫌いになった。
 口をもごもごと動かすヤマベに、ミシマが背中を押す。
「任せてみましょうか。育成に時間はかかりますが、最初だし、いいと思いますよ。ただし」
 次に社長はナギサを向く。
「ゴルバットだけに時間をかけるのはNGです。他の牧場で手が回らないセブンスマン候補を引き取ってほしいとの話が来ていますから、そちらも並行して育成してください。勿論、僕も手伝います」
 それでゴルバットを捨てずに済むのなら、いくらでも面倒を見る。ナギサは興奮に煽られるまま「分かりました!」と声を張り、これでヤマベが折れることとなった。
「失敗したらてめえが引き取って世話しろよ!」
 事務所に野太い罵声を轟かせ、ヤマベは床板を踏み鳴らしながら事務所を出ていく。薄汚い作業着の背中に、ありったけの声量をぶつけた。
「はい、勿論です!」
 元ジムリーダーなんかに負けてたまるか。そのミミロップ以上に勇敢で、評価の高いセブンスマンを育てるのだ。ナギサは決心し、ゴルバットを見る。回復装置の上に縛り付けられたままのコウモリは、尚もこちらに唸りながら抵抗する。

+++

 セブンスマン向きのポケモンは、普通のトレーナーならばあっさり手放すだろう粗暴な性格をしていることが多い。
 ゴルバットの捕獲から一週間、ナギサはそれを改めて思い知った。
「クロスポイズン!」
 ゴルバットは命令を無視してエアカッターを起こし、訓練相手のモコに斬りかかろうとする。すかさずモコは両腕を振るい、それを受け流してナギサを見た。叱ってよ、と言いたげだ。
「そうじゃない! これだよ、クロスポイズンは!」
 きつく声を張り上げ、社長に借りたタブレット端末でゴルバットがクロスポイズンを放っている映像を見せる。こうやって技の名を理解させるのが普通なのに、ゴルバットはちっとも覚えようとはせず、やみくもに思いついた技を繰り出すだけだ。
「ちゃんと理解しなきゃ褒美はやらないからな」
 そう言い聞かせて一週間、ポロックをやったのは指で数える程度だ。褒美は日常食より美味い。味を覚えたセブンスマンはそれを貰おうと頑張るのに、ゴルバットは反発してナギサのウエストポーチを狙おうと飛びかかる。すぐにモコが割って入り、主への攻撃を阻止した。
 この馬鹿コウモリめ――舌打ちするナギサを、西の放牧地にいたヤマベが笑う。
「おめえ、その調子じゃクロバットに進化するのは十年以上先だな。まっ、普通のトレーナーはなつき進化にそれくらい時間をかけるもんだけどな」
 普通のトレーナー。なんと癪に障る言葉だ。
 バッジ四、五個止まりの凡人どもと一緒くたにされたくない。ナギサは歯噛みしながら息を吐き、憤りを溜めたままゴルバットに向き直る。
 こいつも普通のポケモンよりずっと手がかかる。それが一般的なセブンスマンの指導で従うのか。接し方を変えよう。厳しく育てた手持ちのように接し、技を引き出してみせるとか。
「エアカッターくらい、そこら辺を飛んでる鳥ポケモンにだってできるんだよ」
 自分が何者であるか、コウモリが分かるはずがない。だが、煽られていることは理解したようだ。顔を歪めたところに、更なる追い打ち。
「毒を使ってみな。モコが手本を見せてやろうか。どくづき!」
 モコは即座に両腕の切っ先から毒を噴射し、それを纏いながらゴルバットに斬りかかった。毒ポケモンへの毒攻撃は挑発に値する。モコの攻撃はゴルバットの、毒タイプが持つ戦闘本能を見事に刺激したらしい。コウモリは皮膜の先にある鉤爪に毒を蓄えると、翼を十字に振るいながらそれをモコへ噴射する。飛散した毒液が辺りの牧草を溶かして点々と染みを作った。
「それがクロスポイズンだ」
 ナギサはポロックを二個重ねてゴルバットの口に投げ入れる。まずは一歩前進か。
 
 次のフェーズに足踏みしている暇はない。
 夕方の訓練を終えたセブンスマン達が厩舎で就寝する中、それと入れ替わりでゴルバットは夜牧に出される。その間、面倒を見るのは事務所の二階に住むミシマの役目だ。
「夜の化膿止め、私が塗ります」
 ゴルバットは町の獣医から処方してもらった塗り薬を一日三回、歯茎に塗布している。日中はナギサが担当し、夜はミシマにお願いしていたがポケモンとの距離を縮めるためにはなるべく長い時間接する必要があった。自ら残業を申し出るナギサにミシマは驚いていたが、すぐに理解してくれた。
「そうだね。ナギサさんがやってくれるのなら、ヨギーの力で縛りつけなくてもいいしね。助かるよ」
 ナギサは目を見張る。
 捕獲から三週間、塗り薬を構えると牙をすっと差し出すようになったあいつが、社長にはまだ反抗しているなんて。
「同時期に貰ってきたボスゴドラやシビルドンは言うことを聞いてくれるようになったんだけど、あの子だけはまだ懐かないんだよ。セブンスマンだからそれでいいんだけどね」
 苦笑するミシマに、ナギサは慌ててフォローを入れる。
「私にも愛想ないですよ」
「元々そういう性格なのかもしれないね。でも、ナギサさんのことは認めてくれているはずだよ」
 やっと言うことを聞くようになり、技も四つ覚えたところでこの評価は嬉しい。
 ナギサは塗り薬を手に、頬を緩ませながら事務所の外に出た。早く帰りたいと気分を逸らせる紺碧の空さえ今日は澄みきっているみたい。
 放牧地を独占しながら舞っていたゴルバットがこちらに気付き、駐車場へと歩くヤマベをするりと横切って近づいてくる。このコウモリは身体が大きい割に羽音は静かだ。気配に気付けなかったヤマベが吃驚の声を上げ、こちらに怒鳴る。
「あぶねえなあ! プリウスの奴、静かすぎるから音を立てて飛ぶように躾けろっ」
 曲がり角から音もなくやってきたハイブリッドカーに驚く歩行者みたいだ。奇妙なあだ名を訂正するようにゴルバットに言う。
「もうちょっとうるさく飛んでくれってさ、はぐろ」
 黒ずんだ牙にちなんで、歯黒。こっそり呼び始めた名前が定着していた。
 要求が理解できないはぐろは、知らんぷりを決め込んだまま薬を塗れと牙を差し出す。何時まで経っても可愛げがない。でも、この態度を見ていると確かに自分を認めている気がした。信頼を重ね、技を磨いていく過程は手持ちポケモンを一から育てていくようでやりがいを感じる。他の牧場から引き取ってきたボスゴドラやシビルドンなども形になってきた。
「この仕事、向いているかも」
 ナギサは思わず呟いた。
 きい、とはぐろが鳴く。肯定してくれたのだろうか。コウモリはこちらをじっと見つめていた。
 
 翌朝、出勤したら放牧地にクロバットがいた――などと都合よく事が運ぶはずもなく、ゴルバットが進化したのはそれから三ヶ月後である。右上の牙は生え変わらず死んだままだったが、隙間を埋めるように他の歯が生えたので支障はない。噛みつき技は使えないが、セブンスマンはその性質上、遠距離攻撃で戦う方が向いている。
「クロスポイズン!」
 その技の名を叫ぶと、はぐろは風を切り、毒液を飛ばしながらモコを蹴散らした。衝撃に圧倒されたモコは宙を回転しながら体勢を立て直すも、槍を構える腕はぐらついている。進化してから更に二ヶ月、磨きに磨いて威力を高めた技は、どんな状態異常を受けてもそのダメージが落ちることはない。
 はぐろの技を披露したナギサは、傍で見ていたミシマにモコやディーノ達との手合わせで取ったデータを提出した。対戦するタイプや天候、状況を変えて戦うこと八百回。クロスポイズンの威力はほぼ一定を保っている。
「残りの技はおどろかす、くろいきり、ちょうおんぱの三つです」
 クロスポイズンに注力しすぎたので、残りはコウモリが繰り出しやすい技を選んだが、こちらも問題ない出来である。ざっと披露するだけで、ミシマは舌を巻く。
「仕上がりいいね。これなら問題なくリーグに出せそうだ。初めてだけど、完璧に近い仕上がりです。耐久テストも凄い数だね。普通の三倍やってる」
 すんなりと認められたのが嬉しかった。目尻を下げながらはぐろを向く。
「やったね、はぐろ」
 はぐろはナギサを一瞥したが、喜びを見せずにつんと澄ましたまま浮遊している。なつき進化ポケモンながら、感情を抑え込むように躾けた結果がこれだ。ずっと傍にいたのに、内心喜んでいるのかどうかさえ分からない。ひゅうひゅうと音を立てて軽快に羽ばたきながら敵襲に備えて押し黙る姿に、身体の内側が引っ掛かれる。それをミシマが手を叩いて称賛した。
「トレーナーに媚びないところも合格」

 あまり嬉しくなかった。
 晴れてクロバットに進化したのに、どうもクロバットらしくない。噛みつき技もなければ静かに飛ぶこともなく、常にクールに構えたままだ。
 ありのままのクロバットならセブンスマン失格なのに、心がざらつくのは手持ちみたいに育てていたからだろうか。自分の気持ちはクロバットに懐いたまま。離れたくなくて、両手が震える。
「いかがですか、ヤマベさん」
 西の放牧地でテストの様子を見ていたヤマベに、ミシマが問う。彼は柵にもたれ掛ったまま顎を撫でた。
「悪かねえな。だが、肝心なのは最後の仕上げだ」
 最後の仕上げ――訝しむナギサに、ヤマベが胸の前で右手を握りしめた。
「後頭部に一発叩き込め。それで技を忘れなかったら、こいつは晴れてセブンスマンだ」
 後頭部を殴打するラビットパンチは、記憶障害や神経に影響を引き起こすとしてボクシングやポケモン同士のバトルでは禁止されているが、人間がポケモンに対してのみ適切に処置すれば、持ち技だけを綺麗さっぱり忘れることが出来る。ナギサも旅をしていた頃に何度も実践したことがあるテクニックだ。
 八百回も繰り返し繰り出してきた技が、その一撃で忘却するかもしれない。身体に戦慄が走る。はぐろと目が合った。コウモリはきゅっと口元を引き結び、ブリーダーの要求に応じる構えを見せている。
 はぐろなら、きっと大丈夫。
 震える右手を固く握りしめ、覚悟を決めて腕を振りかぶった。
「一、二の……」
 ポカン!
 拳から伝わる産毛の感触が恐ろしいほど生々しい。ぱっと右手を離し、はぐろに目を背け、忘れないでと願いながら技を叫んだ。
「クロスポイズン」
 鋭い突風が頬を抜け、一つに結んだナギサの黒髪を揺らしながら牧草地を切り裂く。晴天に映える若草色の視界の中に毒々しい紫色の長い爪痕が浮かんでいた。それはカントー、ジョウト、そしてこの地方で見たどの景色よりも美しかった。
「やった」
 子供みたいに小さく飛び上がって喜んだのは、SPリーグで二人目の四天王に勝利して以来だ。高ぶるままはぐろを見たが、ポケモンはまるで動揺せずに構えている。
 はぐろはセブンスマンになった。
 自分の気持ちだけが、まだそれに追いつけない。
「頑張りなよ」
 あまり多くの声をかけると涙がこぼれそうだったので、すぐにボールに戻して社長に預けた。喉を締める刺激を抑え込み、後ろでテストの順番を待つボスゴドラを振り返る。名残惜しむ背中に社長が声をかけた。
「はぐろが引退したら引き取ってもいいよ」
 ナギサははっとして振り返る。社長が微笑んでいた。
「彼らはセブンスマンとしてずっと控えにいる訳じゃないからね。いずれは誰かの手持ちになるんだよ」
 このまま永遠に使命に生き続ける訳ではないと聞くだけで安心する。
「その時は、最高の歓迎をします」
 その後に、少しは自分に懐いてもらえるように育て直そう。リーグへの再挑戦はそこからにしてもいい。あのクロスポイズンがあれば四天王のヤエガシさえ圧倒できる。期待と思い入れが一層膨らんだ。はぐろが最初の警護を終えて戻ってきたら、自分は既に泣いていると思う。


 はぐろが帰還したのはそれから半年後である。
 落盤事故でトレーナーを守り、右上の翼一枚だけになって戻ってきた。
 あの時は想定していなかった、別の涙がこぼれた。

+++

 あれから気持ちは成長することなく、はぐろの翼と一緒に土の下に埋まったままだ。
「お前は最初にして最高のセブンスマンだったのに」
 はぐろの墓の前で、ナギサはぽつりと本音をこぼした。
 あれだけ入れ込んだセブンスマンをもう一度育て上げる熱意はない。はぐろの死がよぎり、辞めたい気持ちが邪魔をして中の上レベルのポケモンばかり送り出している。
 社会人三年目。キャリアの岐路に立たされる時だ。だから、さっさと辞めてまた旅に出よう。上手くいく保証はどこにもないけど、本気で前を向いて進めばきっと夢は花開く。
「できるかな」
 ナギサは墓に尋ねた。
 はぐろは土の中で、沈黙を貫く。
 お前は逃げているだけだと言ってくれる者は誰もいない。だからまだいけるんじゃないかと期待してしまう。ナギサは長く息を吐いて、墓地を後にした。 


 定時で上がり、いつものように自転車に乗って町へ戻る。
 今日はわだかまりが取れない日だ。スーパーで一人前の安いオードブルとテーブルワインを買って帰ろう。赤ワインの渋みが感じられるのなら、安価で扱いが楽な紙パック容器でいい。そう考えながら町中をゆっくり走っていると、道路脇に停まっている赤いオープンカーのドライバーに声を掛けられた。
「あのー、この近くに美味しいうどん屋があるって聞いたんですけど。ご存知ですか? 病院の近くにあるらしいんですけど、それらしい店が見つからなくて」
 車高を落としたロードスターに乗った派手なスーツ姿の中年は、古いセルシオに乗り続けているヤマベを彷彿とさせ、親切心が湧いてこない。店も知らないので、ナギサは冷たくあしらった。
「知りません。スマホで探してください」
 中年はそれが癇に障ったらしい。舌打ちしながら背を向ける。
「愛想のねえブスだな」
 ブス呼ばわりは慣れているので少しも気にしない。そっちこそサイズの合わないスーツに下品に改造した車、助手席に乗せた派手な若い女の組み合わせが身の丈に合わず痛々しいじゃないか。低くしたシート位置には女のミニスカートを覗こうとする下心が見えて気持ち悪い。睨むナギサの視線を気にせず、男は助手席で待つ女にへらへらと謝罪した。
「ごめんねー、ツバキちゃん。お店、なかなか見つからなくて……ちょっと待ってて」
「いいですよお、テレビで観て美味しそうだから来たいと思っただけだしー」
 黒に近いハーフアップの巻き髪を揺らし、女がさっぱりと笑う。目を引く美貌だが、いかにも水商売といった風の派手な装いにナギサの本能が関わるな、と警鐘を鳴らす。こういう女は昔から苦手だ。
「いやいや、ツバキちゃんのためにちゃんと探すからね」
 男が電話を持って車を離れた時、女と目が合った。
 トレーナーに野良バトルを挑まれる時のような闘志が、身体の中でぱちんと弾ける。

「もしかして、ナギサちゃん?」
 女の華やかな表情がぱっと明るくなった。
 それがあまりに美しいので同性ながら一瞬見惚れてしまったが、何故名前を知っているのか。
「あたしよ、あたしー。ニビ北小のケイコ。三、四年の時、同じクラスだったでしょ?」
 ニビ北小、つまりニビシティ立北小学校はナギサの母校である。久々にその名を聞いたが、同級生の顔と名前なんて綺麗さっぱり忘れている。あの田舎に、これほどの美人はいなかったはずだ。
「覚えてないー? ほら、あたしがケイコウオで、ナギサちゃんがナギサシティなんて男子にからかわれてたじゃん。そん時さ、ナギサちゃんは『馬鹿じゃねーの』ってクールに一蹴してたよね」
 それでようやく思い出した。
 よう、ナギサシティ。シンオウ地方にいそうな名前だな、お前を倒せばリーグに行けるのか?――小学生男子たちのくだらない嘲笑が蘇る。それを冷たくあしらうたび、一緒にからかわれていた女の子が声を上げて笑い、「男子に言い返してくれてありがとう、ナギサちゃん!」と礼を言ってくれた。
 明るく可愛い、クラスでも目立つ女の子グループにいたあの子が、目の前にいるケイコちゃんだ。
 ようやく思い出したナギサに、ケイコが微笑む。当時散々からかわれていたにも関わらず、黒系の艶やかな髪にピンクのアイシャドウ、銀色のハイライトできらきらと輝く表情はケイコウオそのものだ。可愛くて、とても綺麗。
「こんな所で昔のクラスメイトと出会うなんて奇遇ー」
「そ、そうだね……でも、デートの途中だよね、邪魔してごめん……」
 自分で言って、はっとした。歩道の隅で必死に携帯をいじくっている男。同い年なのに、あの冴えない中年と付き合っているのだろうか。乗車時にパンツまで覗こうとする変態なのに? 青ざめるナギサにケイコが笑う。
「デート? 違う違う、これ同伴よ」
 同伴。それって、まさか。
「あたし、今キャバ嬢やってんの」

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