第5話:黒い牙のコウモリ・前編

 会社へと続く林道の途中には舗装されていない小さな分かれ道がある。
 そこへ立ち入ったナギサが轍に沿って五十メートルほど歩いていくと、狭い草むらに突き当たる。短く生え揃った雑草の間に、古びた墓石がぽつぽつと並んでいた。どれも三十センチほどの小さな御影石で、苔生したものには「レンゴクテイオー」や「ゲッタバンバン」、「ヤシキフレイム」など競走馬と思しき名前が刻まれている。これらはギャロップ牧場時代に厩舎で天寿を全うした馬たちの墓である。
 その隅に「はぐろ」と名が刻まれた比較的新しい墓石が横たわっていた。ナギサは厩舎から持ってきたバケツの水でそれを丁寧に磨き上げると、墓石の前にポロックとスプレー菊を一輪添える。
「周りはギャロップばかりで熱そうだね」
 両手を合わせたまま、ぽつりと呟く。
 ひらがなで刻まれた「はぐろ」の短い名は墓地の中で浮いている。
 競走馬の世界には「無事これ名馬」という言葉があるが、それはセブンスマンも同じだ。正しくは「トレーナー共に無事、これ名馬」で、怪我なく現役を全うすれば命を懸けて守ってきた誰かが引き取ってくれる。逆に後遺症の残る故障をしてしまえば誰も面倒は見ない。幸福な引退後のためにナギサはかなり気を払いながら世話をしているし、それはヤマベも同様だ。
 その結果はこの墓地にも反映されている。
 セブンブリッジ管理下のポケモンで現役中に亡くなったのはナギサが育てたクロバットの「はぐろ」だけだった。

+++

 あと一匹だ。
 
 右手はびっしょりと汗に濡れ、握り締めたモコのボールが滑り落ちてしまいそうだった。天井から降り注ぐスポットライトが白いフィールドを眩しく照らしてナギサの戦意を焦げ付かせる。外野は満員の観客がひしめくスタンドにぐるりと囲まれ、熱に浮かれたさざめきの中で、フィールドの反対側に立つ四天王のヤエガシがこちらを睨む。前にせり出しただらしない腹さえ貫禄がある、浅黒い肌の中年男だった。
 四天王を直視しては駄目だ。
 前の二人もそうだった。彼らは後ろの観客を全員味方につけ、威厳だけでこちらを圧倒する。なるべくしてその地位にいるのだと見せつけるから、フィールドに立つ挑戦者は四面楚歌になる。
 私もそこに行きたい。
 お前が立つ高い場所から見下ろしてみたい。そこに広がっているのは、この十二年間の努力が報われる栄光に満ちた景色のはずだ。
 そのために血と汗を流し、身を粉にしてポケモンバトルの腕を磨いてきた。今度こそ高みへのぼる、絶対に勝つ、何が何でもヤエガシに土を付けてやる。勝利への執念がナギサの身体を突き動かした。
「いけ、モコ!」
 サイドスローから最後の一球。蓋が開いた瞬間に指示を飛ばす。
「シザークロス!」
 槍の両腕を構えるモコの前に巨大な島が現れ、場内に落胆の溜め息が吹き荒れた。草タイプを得意とするヤエガシの切り札はドダイトスだ。相性はこちらが有利。大陸ポケモンが盆栽にしか見えなくなった。のそりと動き始めるドダイトスへモコが切りかかり、相手の膝を崩しながら後ろへ回り込もうとする。ところがドダイトスが背負う大樹が行く手を阻み、その僅かな隙を突いて甲羅の隙間から鋭い岩石を発射した。
「ストーンエッジを食らえ」
 動きを止めてから確実に急所を狙う一撃がモコの腹に食い込み、軽々と宙に吹っ飛ばされる。沸き上がる歓声に一瞬負けた気分になったが、モコは必死に首を振って持ち直そうとしている。会場に飲み込まれてはいけない。くるくると回転するモコを狙って、ドダイトスが二発目のストーンエッジを放った。
「ミサイルばりで応戦!」
 体勢を立て直したばかりのモコが、大きく揺れながらミサイルばりを連射して岩石を撃ち落とした。スタンドに嘆息が広がる。それほど負けてほしいのか。煽られるほど闘争心が掻き立てられる。ドダイトスは最初の一撃が効いて、既に息が荒い。それはこちらも同様だが、モコはそんな時「むしのしらせ」を受け取って真の強さを発揮する。その力を利用し、白星を掴むまで――視線をやると、モコが頷いた。
「とどめだ! シザークロス!」
 モコがドダイトスに飛びかかる。硝子細工のように繊細な薄羽根にスポットライトが差し込み、フィールドにステンドグラスの影が広がった。この十二年の間で相棒が最も美しく輝いた瞬間だ。
「くさむすび」
 ドダイトスから放たれた細い蔦がモコの足を引っ張って大きくバランスを崩させた。シザークロスが空を切る。ナギサの頭は真っ白になった。モコは慌てて両腕の槍を構え直す。
「もう一度!」
 ドダイトスは目の前。突進するモコを追い払うようにヤエガシが叫んだ。
「草使いらしく、最後はこれで決めてやらあ! ウッドハンマー!」
 その直後、ナギサは表舞台に続く階段から転げ落ちた。

『勝者、四天王ヤエガシ! 最後の手持ちを見事に守りきりました!』 
 空から実況のアナウンスと観客席からの拍手喝采が降ってきて、スポットライトの中に立つSPリーグ四天王のヤエガシがドダイトスと並んでそれに応える。
 ナギサはその様子を照明が当たらない澱んだ闇の中で眺めていた。
 明暗ははっきりと分かれていた。フィールドに立っていられるドダイトスと、ナギサの足元で気絶したままのスピアー。相性は悪くない。あと一手で、技が届く数秒の差で、最後の四天王戦に進むことが出来たはずなのに。
 この負けを糧に、次は勝とうね。
 目覚めた後、手持ち達にそう声をかけることもできない。これをもって十歳から続けていたトレーナー修行の延長は打ち切られることになっている。負ける覚悟をしていなかったから、これからどうすべきか全く分からない。旅に捧げた人生の半分が無駄になった。
 失敗って、こんなに重たかったっけ。
 誰かに問う間もなく、フィールドに残っていた全ての照明が落とされ、視界に幕が下りた。

+++

「あと少しだったんですねえ」
 カウンターの向こう側でナギサの経歴書に目を落としていたハローワークの職員が呟いた。
 社交辞令だろうが、労をねぎらってくれた人間は彼が初めてだったので、ずっと俯いていたナギサは視線を上げる。施設内の淀んだ空気に馴染んでいるその薄暗い顔を、眼鏡をかけた男性職員が待ち構えていたように睨み付けた。
「今後、旅に出る予定は?」
 旅をリタイアしたトレーナーの就職を支援するこの窓口に相談するたび、必ず聞かれる質問だ。
 神経質そうな男の高圧的な物言いは、捨てきれない夢を否定されているようでうんざりする。ナギサは目を逸らしながら答えた。
「お金が溜まったらまた挑戦しようかと……」
 リーグに敗れた後、真っ先に調べたのは再挑戦に必要な条件だ。
 各地方には旅の再出発を支援する制度があり、殿堂入りを狙えるレベルのポケモンと一定の資金を持っていれば、またジムを回ってリーグに挑戦出来る。
 ナギサは金だけ貯めればよかった。そのために働く必要があり、アルバイトより保障が充実した正社員になる方がいいと思った。それなのに職員は大きな溜め息をついて、はっきりと現実を突きつける。
「こんなことを言うと夢がありませんけど、この地方でリーグに再挑戦して殿堂入りした事例はほぼ皆無です。やっぱり、本気の人は旅をしながらスポンサーを募って資金をかき集め、現役の間にペイトレとして成功します。ナギサさん、そこまで本気が……」
 彼はそこまで話して説教を飲み込み、結論に言い換えた。
「まあはっきり言いますとね、すぐ辞める姿勢で仕事されると困るんですよ、会社としても」
 空洞になっていたナギサの頭の中が厳しい現実で埋め尽くされる。
 いずれは旅トレーナーに復帰したい、そう言うとハローワーク職員の態度がぴりぴりと張りつめる理由がよく分かった。こういう人間は企業側から歓迎されない。

 この施設を利用する半数は旅をリタイアしたトレーナーで、自分のように気持ちを燻らせている者ばかりである。ここへ来るのは十回目だが、いつ訪れても薄暗い施設内に夢破れた人々がひしめき合い、再起が掴めない焦燥と絶望で湿っぽい空気が漂っている。
 成功する者が才能と計画性があり、バイタリティ溢れるトレーナーならば、ここにいるのはパトロンの一人も確保できないポケモンにだけ向き合ってきた無計画な愚か者ばかりなのだろう。自分もそうだ。カントーやジョウト地方の黙っていてもスポンサーがつくプロトレーナーばかり見ているから、自らコネを作りに走るのは反則だと信じて疑わなかった。そういう人脈が旅から離れた際に機能することを知ったのはSPリーグに敗れてからである。
 この居心地の悪い場所から早く抜け出したくて、手当たり次第エントリーを出しているが書類選考を通過することさえ滅多になかった。それはやはり、早くに退職するのが明確な姿勢が影響しているのかもしれない。
 SPリーグ制覇は諦めきれない。トレーナーとしてはまだ完全に失敗した訳じゃない。
 だが、このままウィークリーマンション暮らしを続けていれば資金はあと三ヶ月持つかどうかだ。時間をかけるほど夢は遠のいていく。
 背に腹は代えられず、ナギサは渋々本音を押し込み、俯きながら職員に従うことにした。
「やっぱり、旅は考え直します。お金に余裕がある訳でもないですし……」
「そうでしょう。ポケモンだって維持費が馬鹿にならないですからね。ニビに戻ってやり直すつもりもない?」
 ナギサは口を引き結んだまま頷いた。
 ニビシティに住む両親はナギサが旅に出ている間に離婚し、共に新所帯を持っているのでどちらにも帰りづらかった。向こうから連絡も来ないので、両親も今更ナギサに戻ってきて欲しくないのだろう。

「田舎だと介護福祉系の資格がないと働き口はなかなかねえ……あなたに見合う正社員の求人は少ないですよ」
 これも相談に来るたび言われていた。求人誌は勿論のこと、ハローワークの端末や壁に張り出されている正社員の求人はどれも要資格か学歴で弾かれる。すぐに探すのが嫌になって旅をリタイアしたトレーナー向けの窓口を頼り続けているのだが、その度に程度の低さを嘲られるので嫌気がする。
「職種は選びません」
 早く抜け出したい。ここは地獄だ。
「事務はどうですか。デスクワークの方。パソコン、使えます?」
 パソコンと言えばポケモンセンターの端末くらいしか操作できない。券売機やATMの操作には自信があります、と胸を張っているようなものだ。恥ずかしくなって伏せた顔を横に振った。目線を上げなくても、職員の呆れ顔は容易に想像できる。
「職業訓練を受けてみては? どれも倍率が高いから、抽選になりますけど。今申し込んで来週抽選、翌月からスクールが始まります」
 それも最初から提案されて何度か申し込んでいるが、意欲のなさが影響し抽選漏れが続いている。悠々と訓練を受けている余裕はない。早く仕事を見つけなければ、モコ達に満足な餌もやれなくなる。手持ちの生活水準だけは落としたくなかった。
 私にはポケモンしか残されていないんだ。
 やきもきしていたナギサは意を決し、顔を上げて職員に詰め寄った。
「何か、ポケモンに関わる仕事はないですか。私、それしか取り柄がないんです。何でもいいです」
 半端な経歴でも、ポケモンはナギサの唯一の誇りだ。歯を食いしばって頭を下げると、見かねた職員が再び端末を操作し始める。ポケモン関連の求人は何度も調べて貰っていたが、彼は少し条件を変えて新たな職場を選び出した。

「これなんかどうですか。昨日来たばかりの求人、セブンスマンのブリーダーです」
 職員は端末のディスプレイをナギサに向ける。
 株式会社セブンブリッジ。業務内容はSPリーグにおける警護ポケモンの育成、とある。
 セブンスマン――SPリーグから貸与される、初心者トレーナーを守るポケモンのことだ。ローカルの制度のため、ナギサはこの地方に来た時に初めてその存在を知った。治安の悪いエリアを横切ると、たまにセブンスマンらしきポケモンが奮闘している姿を見かける。
 だが、よく見るとこの求人はブリーダーライセンスが必要だ。怪訝な顔をするナギサに、職員は続ける。
「セブンスマンは野生ポケモンを調教するケースが殆どなので、バッジ八個以上のトレーナーであれば簡単な講習を受けるだけでライセンスが得られます。あなたにとっては楽なハードルでしょう。ですから条件に有資格とあっても、先方と相談すればエントリーできるかもしれません。手取りも悪くないですし社保完備でいいんじゃないんですか。現在、二十名の方がエントリー中です」
 他に条件はSPリーグのバッジ七個以上取得、そして未経験でも可とある。ナギサにとっては比較的条件が緩めの悪くはない求人だ。既にライバルは二十人もいるし、最初から資格が必要だと門前払いされるかもしれないが、藁を掴むように飛びついた。
 職員は傍にあった電話を手に取り、すぐにアポイントを試みる。
「いつもお世話になっております。ハローワークのクサカベです。先日出された求人の件でご担当者様は……ああ、ミシマ取締役、ご本人ですか」
 電話の先にいるのは会社の代表で採用担当のようだ。端末の情報では従業員が三名しかいないようだったから、それも納得である。汗ばむ両手を擦り合わせるナギサを前に、職員は彼女の少ないアピールポイントを次々に並べ立てていった。
「ええ、バッジは八個。四天王三人目で敗退……他に、セキエイリーグのバッジを七個獲得しています。セブンスマンのブリーダーライセンスをお持ちではないのですが、大変意欲があり、これは追って取得しても問題ないかと……」
 求人誌などを使った自力のエントリーではここまで柔軟な対応はできないだろう。有資格の三文字を見て諦めているはずだ。ほっと息を吐くナギサに、職員が受話器を押さえながら尋ねた。
「もしよければ、今日の夕方から面接させてもらいたいとか」
「行きます」
 やっと面接に行ける。断る理由はない。
 職員はセブンブリッジの社長と調整を続けると、電話を切って面接時間を記載した求人票のプリントをナギサの前に差し出した。
「では、履歴書と所有するすべてのバッジ、それと手持ちポケモンを持参してください。服装は平服で構わないとのことです。今の格好で問題ないと思いますよ」
 ナギサは薄いグレーのニットに、黒いチノパン姿の服装を見下ろした。

+++

 国道沿いの林の中に、これほど広い牧場があるとは思わなかった。
 若草色の牧草が森の奥まで広がる敷地の中に、白い木造の事務所が夕日を受けて黄金色に輝いている。穏やかな風に木々がさざめき、二階のベランダにいるフワンテが揺れていた。牧歌的な情景に緊張がほぐれ、ナギサがこの職場に好感を持ったのはそこまでだ。門戸から三歩進んだ時、二つ並んだ放牧地の西側から鼻息荒いザングースが飛んできて、柵を引っ掻きながらナギサに牙を剥く。
 ナギサは咄嗟に腰のベルトに装着した、モコのボールを掴んだ。
 だがザングースは柵を飛び越えず、ぐるると唸り声を上げながら血走った眼でこちらを睨みつけるだけ。まるで番犬だ。戦うつもりはないのだとナギサは悟った。すぐに反対側の牧草地からのんびりとした声がする。
「ふーすけ、いつもご苦労様。その人はお客さんだから吼えなくていいよ」
 厩舎の出入り口から丸い眼鏡をかけた作業着姿の若々しい中年男性が駆けてくる。それにつられて放牧地の奥からドラピオンやレントラー、ガマゲロゲがやって来てナギサを睨んだ。ポケモンにはまるで歓迎されていないらしい。顔を引きつらせるナギサを見て、男性はポケモンを先に対処する。
「君達はまだ外にいて構わないよ。ヨギー、よろしく」
 彼が出てきた厩舎の出入り口から左耳にボタンが付いたジュペッタが顔を出し、キリキリと鳴き声を上げて浮遊しながら攻めかかろうとするポケモン達を元居た場所へ追いやった。どうやら、東側の柵の中にいるポケモン達はあのヨギーと呼ばれたジュペッタに逆らえないらしい。西側はその限りではなく、ザングースは尚も柵にかじりついたままこちらを睨みつけている。
 不思議な上下関係を眺めていると、男性がひらりと柵を飛び越え、軍手を外した右手を差し出した。
「ハローワークから紹介があったナギサさんですよね。はじめまして。代表のミシマです」
 傍で見ると背が高くてがっしりした体格の男性だ。それでも握手を交わした掌は温かいし、こちらへ傾ける笑顔は品がありながら親しみやすい。
 人生で最初に働く職場の上司はこういう人がいいな。ほっとするナギサに、ミシマが苦笑する。
「すみませんね、急に面接の約束を取り付けてしまって。日中はポケモンの世話で忙しいし、最近同業との用事が多くてなかなか時間が取れないんですよ。だから、一刻も早く僕の代わりになるブリーダーさんを見つけたくて」
「あ、いえ……時間は全然、問題ないです」
 ここのところハローワーク通い以外に予定がなかったから、むしろ好都合だ。
 ミシマはジュペッタのヨギーに牧草地を任せると、左手の軍手も外して事務所へ声を張る。
「サチエさん、帰る前にお茶を淹れて貰ってもいいですか」
 奥でおばさんが了解する声がしたのを確認し、こちらへ振り返った。
「ちょっと着替えてきますね。事務の者がお通しします」
 別にそこまでしなくても、とナギサは目を丸くしたが、確かに明るいグレーの作業着は土や毒らしき紫色の染みで汚れている。軽快な足取りで事務所へ向かうミシマを見送り、何となく西側の牧草地へ目をやるとペルシアンを引き連れた男と目が合った。ミシマより年上だ。お互い控え目に会釈して、ナギサは事務所に招かれる。

 紺色の麻のシャツに明るいブルージーンズに着替えた社長は、のどかな牧場と相まってオーガニックカフェのマスターに見えた。応接スペースで向い合せになるや、ミシマは感心したように微笑んだ。
「僕より二回りくらい下なのかな。若いのに素晴らしい、セキエイリーグでバッジを七個獲得し、SPリーグでも四天王二人目まで突破したなんて」
 「四天王三人目で敗退」より「二人目突破」の方が、まだチャンスは残されているみたいで聞こえがいい。面接にも関わらず、ナギサの頬が緩んだ。
「ど、どうもありがとうございます……あの、これ、履歴書です」
 おずおずと差し出した履歴書は名前と賞罰欄しか目に留まらない、ほぼ白紙である。
 十歳から旅に出てバッジ獲得のためにポケモンバトルに明け暮れたが、地方リーグの挑戦にも失敗した今、そこには資格も学歴もない、十二年の時間を棒に振った間抜けの成果が浮き彫りになっていた。
 ナギサの小学校中退の学歴を見て、ミシマが尋ねる。
「十歳から旅をされていらっしゃると。十二年の間に手持ちの構成は変わっていませんか」
「いえ、相棒だけ固定で毎年四、五匹ほど捕獲して育成し、スターティングメンバーを入れ替えていました。今は十五匹抱えています。持ってきたのは六匹ですが……」
 必要なのは手持ちだけでいいと聞いていたが、これならボックスからすべて引き出してくれば良かった。焦るナギサを落ち着かせるように、ミシマが穏やかに申し出る。
「それで結構ですよ。見せていただいても? ボールで構いません」
 二つ返事で了承し、トートバッグからボールを次々に取り出してミシマに手渡した。モコのボールは最初に目に留まったが、彼に見せたのは最後である。それにミシマが関心を示した。

「そのスピアーが相棒かな」
 どうして分かったのだろう。
 ぎょっとするナギサに、ミシマが微笑む。
「これだけ、ボールが十年以上前の旧式だからね。それに、一番大事なポケモンって最後に渡しませんか。僕はそうなんだけど」
「そうです。モコと言います。とても賢く穏やかで、私の手持ちのリーダーです。他のメンバーからもとても信頼されていて、新入りの精神面でのケアを任せることがあります」
「それは素晴らしい。君、セブンスマンのお目付け役に向いてるよ」
 ミシマはボールの中に入ったモコを覗き込みながら、白い歯を見せた。採用を期待させるような言動にナギサはそわそわと浮足立つ。今日は手ごたえを感じずにはいられない。
 ミシマはもう一度、履歴書へ目を戻した。見ているのは出身の小学校のようだ。
「ご出身はカントー地方のニビシティのようですが、向こうには帰らずこちらで生活されているんですね」
「はい。こっちの方が合っているみたいで……」
 嘘をついた。
 ここは不便な田舎だが、今更ニビには帰れないので仕方なく留まっているだけだ。騙されたミシマの笑顔を見ると辛い。
「僕も若い頃はヤマブキシティで働いていて、あの喧騒に疲れてUターンした人間なんだけど、田舎はゆったりしてていいよね。この町なんか、特に住みやすいと思いますよ」
 ウィークリーマンションはリーグ所在地の市内に借りているが、セブンブリッジのある町を勧めるのは、つまり。
「ナギサさんさえよろしければ、この会社で一緒に働きませんか」
 蛍光灯の光がぱちぱちと弾けて、リーグで受けたスポットライトのようにナギサの顔を照らしだす。期待していたが、いざ社長に断言されると現実が咀嚼できずに頭の中でつっかえる。
「あなたの経歴、育成方法、そして何よりこのスピアー。この子、とても気に入りました。セブンスマンの監視役としては、面接した中で断トツです。ナギサさんはセブンスマンのブリーダーに向いていると思いますよ。ライセンスの取得は後でも間に合うし、どうかな?」
 リーグに敗れてから散々貶されてきた自分がようやく認められ、もうこの職場で働くことしか考えられなくなった。他にももっといい求人があるんじゃないかとか、そこまで気を回す余裕はない。
 明日からあの地獄のハローワークに通わなくていいんだ。白紙に近い履歴書をいくつもの企業に見せなくてもいいんだ。もう、負けなくてもいいんだ。
 それでも、あまりにすんなり内定がもらえたので、その反動で急に疑心暗鬼になった。
「あの、履歴書とポケモンくらいしか見て貰っていませんけど、本当に私でいいんですか……」

 ミシマはきょとんと目を丸くする。
「もっと面接らしいことをした方がいいって?」
 いや、馬鹿にしたつもりはないのだが。慌てふためくナギサを差し置いて、「そうだなー」と何やら質問を練り始めている。失敗した、と真っ青になった。今から専門的な質問や、社会情勢への意見などを聞かれても対応できない。おたおたしている間にミシマは前髪を後ろへ撫でつけるようにかき上げると、居住まいを正してこちらに尋ねた。
「それではナギサさん。最後に一つ、伺いましょう。あなたにとって、ポケモンとは?」
 なに、その質問。
 思いがけない問いかけに眩暈を覚えて後ろへ倒れそうになった。これなら疑わない方がよかった。
「と、と、友だ……」
 友達、と呼べるほど気軽な仲ではないし馴れ合いもしない。
「いや、仲……」
 仲間なんてヤンキーみたいで暑苦しい。もごもごと口を動かし、目を白黒させているうちにミシマがさっぱりと笑い飛ばした。
「難しいよねえ、ごめんね! いつも傍にいるから、なかなかすぐには出てこないよねえ。いいよいいよ、ちゃんと採用ですから」
「あ、ありがとうございます」
 脇の下に冷たい汗がじんわり染みて、余計な口出しをするのはもうやめようと心に誓った。
 だが、自分にはポケモンしか残っていないにも関わらず、この質問に答えられないのは情けない。もごもごと口を動かしていると、ミシマが話を付け足した。
「ちなみに僕にとってポケモンとは、心から信頼を寄せられる大切な存在です。覚えていてくれると嬉しいな」
 この業種の人らしい回答だと思った。
 きっと、それを念頭に置きながらセブンスマンを育成しているのだろう。この人のために仕事を頑張ろうと意欲が湧いてくる。夢はしばらく後回しだ。
「今後とも、よろしくお願いします」
 ナギサは精一杯、頭を下げた。

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