第4話:昼下がりの訪問者

 セブンスマンをリーグに送り出す日は毎月第二、第四の木曜日と決まっていた。
 その日は放牧まで済ませた後、リーグに送り出せるポケモンをボールに入れ、報告書を添えてミシマに提出することになっている。
 この月の第四木曜にナギサが提出したのは、ボスゴドラとシビルドンの二匹だけだった。
「ご苦労様です」
 ミシマはナギサに微笑むと、丸眼鏡のつるを少しだけ持ち上げ、ボスゴドラの報告書に目を移した。いつもと変わらない社長の仕草だ。それなのに胸の奥が焦げ付く感じがするのは、「厩舎を埋めるくらい育てていいよ」と言われたのに、思うように育成が進まず、いつもと変わらない数のポケモンを提出したからだろうか。
 先にチェックを終えたヤマベのノーマルポケモンは七匹で、プラスチックの籠にまとめられていた。かたや、こちらは片手で足りる。ここ十日ほどはトマルに仕事を紹介していたとしても、情けない数だ。
「ボスゴドラは前の警護が良い経験になったのか、傷が増えてより逞しくなったよね。次も期待できそうだ」
 ミシマは報告書だけ眺めながらも、ボスゴドラの腕前が上がっている事実を知っている。日中はあまり会社に居ないが、夜間の給水や餌やり、つまり「水当番」は彼の担当なので、飼育されているポケモンは日頃からよくチェックしているらしい。彼も元ブリーダーだから見る目はある。
「シビルドンも放牧慣れしているから、水辺以外でも問題なく動けるようになったね。さすがです」
 ボールを開くことなく報告書に社長印が押され、ボスゴドラとシビルドンがミシマのチェックを通過した。彼がナギサの育てたポケモンをリーグ派遣前に見なくなったのは昨年からだ。社長に実力を認められたのだと思う反面、やはりどこか不安なので、自分の前で確認してほしいとも思う。

「ところで、新入りのエアームドくんの育成はどう? なかなか利口なポケモンだけど」
 もやもやと曇り始めた顔をミシマに覗き込まれ、ナギサははっと我に返る。
「はい、とても。まあ、順調です」
 まあ、の間にはあまりセブンスマン向きではない性格を選んでしまった後ろめたさがあった。元ブリーダーである社長はそれもしっかり見抜いている。
「良い子だよね。一人前になるにはもう少しかな。今は人との距離を取りすぎるところが気になるね」
 不安点を突かれて焦りを飲み込む。
「何とかします」
「それだけ直せば問題ないしね。良いポケモンを獲ってきたね」
 社長が認めてくれたから、あのエアームドの選定は失敗じゃない。欠点を改善すれば、セブンスマンに仕立てることが可能だ。社長は自信を付けてくれるのが上手い。目を掛けてくれることに悪い気がしなくて、いつまでもこの職場に居座ってしまう自分がいる。

「社長」
 出入り口の扉が開いて、作業着姿のヤマベが顔を出した。
「これから捕獲に行って来るんで。夕方まで空けます」
 暇を見つけては捕獲に出向くナギサと違い、ヤマベのそれは決まっていた。彼はセブンスマンをリーグに提出した日の午後に、必ず新たなポケモンを探しに行く。その時にナギサに留守番を頼むのだ。
「西側、頼んだ。『ふー』だけ連れてく」
「分かりました」
 ナギサも捕獲に出る際はヤマベに東厩舎の留守を任せるのでお互い様だ。扱いが面倒なふーすけだけはいつも彼に同行するので、それだけは助かっている。
「いってらっしゃい」
 社長はヤマベを見送って、ナギサを振り向いた。
「僕もこれから支度して、リーグに向かうから。サチエさんとお留守番、よろしくお願いします」
「分かりました」
 リーグにセブンスマンを提出する昼前はいつもこの流れだ。
 ヤマベが捕獲に出て、背広に着替えたミシマがリーグへ向かう。ナギサはお喋りな事務員と二人きりになるのが嫌で、会話を避けるべくすぐに外へ出ようとしたが、敵は飴が入った大きな缶を差し出し行く手を阻む。
「牧場の見張り、頑張ってねー。ほら、好きなのとって」
 サチエはカントー地方のセキチクシティにあるパルパークでお土産として購入したクッキーの空き缶に飴を詰め、自席の脇に置いている。
「いただきます」
 ナギサはミントキャンディを一つつまんでそそくさと出入り口へ逃げようとする。だが案の定、詮索に捕まった。
「ねえ、ヤマさんって捕獲に出る時、いつもふーすけを連れていくのは何故かしらね。もう何年もリーグに出していないけど、あの子も一応、セブンスマンでしょ」
 確かにあのザングースはセブンスマンのボールで管理されているが、ナギサの入社当時から牧場に居座り続けている。それを今まで疑問に感じなかったナギサは関心を示さないまま首を横に振った。
「私も知りません」
 素っ気ない態度で会話を断ち切ろうとしても、サチエはめげずに食いついてくる。
「ところで、ふーすけの名前の由来を知ってる? あれ、あたしが付けたのよ。ヤマさんってセブンスマンを変なあだ名で呼ぶ癖があるじゃない」
「ありますね」
 東厩舎にいるスカタンクのあだ名は「マフラー」だ。そう呼ばれるたび、ジムリーダー時代から乗っているボロのセルシオと一緒にするな、と喉を出かかる罵倒を飲み込んでいる。
「でね、ふーすけの最初のあだ名、何だと思う?」
 サチエは声のトーンを一気に引き上げた。ナギサは低い声で仕方なく返事する。
「分かんないです」
「フレディよ、フレディ! いくらなんでも酷いと思わない!?」
「あー、センス最悪ですね」
 そこだけ心から同意しておいた。
「ね、そうでしょう。悪意はないんだけどね、あんまりだから『ふーすけ』にしてあげたのよ」
「いいと思います」
 ナギサはミントキャンディを口に放り込み、肯定しながら事務所を出る。この話を聞くのは三回目だ。いい加減、知らないふりをするのもつらい。
 出入り口を飛び出すと清涼感のあるミントと木々の香りが鼻先で混ざり合ってナギサの鬱屈を外へ押しやった。事務所の二階のベランダでは、フワンテの浮雲がゆるやかに風になびいている。

 林道へ続く会社の門口から誰かがやって来るのが見えた。トマルではない。こげ茶色の髪を頬の横で切りそろえた、少し大人びた少女だった。来客か、それとも従業員の家族だろうか。ナギサは目を細めて、その少女の様相がはっきりと認識できるまで動かなかった。
 年齢は十二〜五歳くらいだろうか。白いTシャツとデニムのショートパンツ姿からは肉付きのいい蜂蜜色の四肢が剥き出しになっており、子供ながらに背伸びした艶っぽさがあった。少女趣味の男なら喜んで振り返るだろう。
 少女はナギサの一メートル前で立ち止まると、挨拶もなくぶしつけに問いかける。
「ここにセブンスマンのシビルドンはいる?」
「いますけど」
 張り合うようにナギサも愛想なく頷いた。眉間に皺を寄せながら少女が詰め寄る。
「そいつ、出して。育てたブリーダーでもいい」
「ブリーダーは私だけど」
「あんたのせいで……!」
 少女がナギサのスウェットのカットソーに掴みかかろうとしたので、東西の放牧地に放されていたセブンスマン達が柵の前に駆け寄って一斉に吼えた。数秒遅れてスピアーのモコが間に割って入り、主を守るのは自分だとその立場をアピールしながら盾になる。瞬く間の劣勢に、少女の顔色が青くなった。
「何、こいつらあたしを殺そうとしてるの」
 彼女はセブンスマンを見回し、覚悟を決めて恐怖を飲み込む。
「それでもいいよ。こんな汚れた身体、生きているのがみっともないくらいだもの」
 芝居がかった回りくどい口調だ。これは夢じゃないか、とナギサは錯覚した。自らの立場に酔いしれる悲劇のヒロインが当てつけのように殴り掛かってきているのかもしれない。現実に引き戻すように冷静な説明をした。
「セブンスマンは最初に威嚇するんです。あなたが私を殴らない限り、これ以上動きません」
「そうだった。あの時も、シビルドンはあたしを守ってくれなかった」
 トマルより要領を得ない子供だ。ナギサは顔を歪ませながら聞き返した。
「何のこと?」
 モコの向こう側で同じように苛立っている少女は大きく息を吸い込み、高らかに叫びを上げた。
「あんたが育てたシビルドンが動かなかったお陰で、あたしは男どもに乱暴されたってことだよ!」
 ナギサの思考がそこで硬直し、たちまち指の先まで血の気が引いた。
 すぐには呑み込めず、喉の辺りが痺れるように痛くなる。生意気で大人びていて、ティーン特有の色気さえ感じるこの少女が、自分の育てたシビルドンの不手際により女の尊厳をずだずたに引き裂かれたなんて。悪い夢のままであってほしいと願ったが、少女はモコを隔てて食って掛かる。
「もう人生が滅茶苦茶……どうしてくれんの! 責任取ってくれない!?」
 何故だ。何故、そんなことに。
 自分がシビルドンを適当に育成したから彼女を守れなかったのか。あのポケモンは二度の警護を担当しており、厩舎内では中堅だ。これから三度目の仕事に出ようとしている。社長だって太鼓判を押してくれた。ナギサはそこで湧いた疑問をそのまま口にする。
「いや、でも、リーグから返却された時はそんな報告、受けてなかった……」
 問題があれば報告書に上がってくるはずだ。持ち直しかけたナギサの理性に少女が畳み掛ける。
「だから大人って嫌いなの! 何でもかんでもそうやって誤魔化そうとしてさ! 謝ってよ、シビルドンの責任とって謝って! それがブリーダーでしょ」
 リーグに出した後の経過はブリーダーに見えないから、少女の言い分は疑いきれず、真っ向から突っぱねる自信がない。それくらい自分の仕事に対する覚悟は薄っぺらいのだ。改めて思い知ったナギサは愕然となり、膝が震える。
 どうしよう。とりあえず、謝ればいいのか。それで許してくれるのなら、いくらでも頭を下げてやる。それでこの悪夢から解放されるのなら。
 その後に報告しなかったリーグを恨み、素知らぬ顔をして警護に向かうシビルドンを憎み、ゴーサインを出した社長に辞表を叩きつけてやる。
 踏み固められた土の通路に両手をついて背中を丸めた。モコがこちらを向く。常に崩れることがない表情は、今見つめられると「おや」としての立場が揺らぐ。呆れているのかもしれない。でも、ほんの数分の辛抱だ。頭を下げれば解決する。
「ナギサさん、顔を上げて」
 額を擦り付ける前に後ろから社長に呼ばれた。
 振り向くと、支度を終えて背広に着替えたミシマが出入り口前の段差の上に立っていた。視線は二階のベランダへと逃げる。フワンテの浮雲はいなかった。
「代表のミシマです。お話は私が伺います」
 ミシマは上着の裏ポケットから名刺入れを取りながら歩み寄ると、一枚抜いて少女の前に差し出した。モコの薄羽根越しに、彼女がやや狼狽えるような顔つきになったのが見える。
「お名前は?」
 ミシマが笑顔を傾ける。少女は視線を逸らしながら渋々名前を告げた。
「サクラコ」
「サクラコさんですか。はじめまして。立ち話は疲れるでしょうから、事務所へどうぞ」
 彼は恭しく頭を下げながら、流れるような動作でサクラコを事務所に導いていく。ちっとも口答えしない子供にナギサは地面に爪を立てながら拳を握りしめた。引き攣る部下の顔を社長は腰をかがめて覗き込む。
「ナギサさんも入って。セブンスマンの監視はモコに頼める?」
 断りきれない、とても親切な笑顔だ。素直に従ったサクラコの心境も分かる気がした。

 パーティションで区切られた応接スペースに通されたサクラコにサチエがお茶を出した。事務所の淀んだ空気に緑茶の柔らかな香りが混ざり合って天井へ立ち上る。
 サチエはその場所から十数歩離れた自席に引っ込むと、しっかりと聞き耳を立てながら事務仕事を再開する。膝の土汚れをはたき、後からやってきたナギサはその後ろにあるヤマベのデスクに腰を下ろした。オフィスチェアが軋むだけで、室内の雰囲気もぎこちなく歪む。手持ち無沙汰が耐えられず、傍に置いてあったノーマルポケモンの専門誌を手に取った。表紙のセンリだけはこの室内で、唯一誇らしげな輝きを放っている。
「僕は男なので話しづらいとは思いますが」
 応接スペースでサクラコの向かいに座るミシマはそう前置きし、穏やかな口ぶりで話を続ける。
「この会社とセブンスマンの責任者でもあります。シビルドンが返却された時、旅先でトラブルはなかったと報告を受けていました。それに誤りがあるなら、問題をはっきりさせなければなりません。リーグが被害を隠していたとすれば大事ですし、シビルドンに問題があれば僕の会社で責任を取った上で、再発を防がなければならない。あなたの後に続くトレーナーを守るためにね。だから、少しだけ協力していただけますか」
 責任を請け負うものとしての立場を明示し、ミシマはサクラコに協力を仰いだ。それを聞くと、シビルドンを育成したナギサはいくらか気が楽になる。もし問題があっても、やはりそれは自分だけの責任ではない。
 そしてサクラコも、感情に任せて怒鳴り散らすことができなくなった。膝の上で組んだ指先をぱたぱたと上下させながら、黙りこくって視線を落とす。
 さっきの勢いはどこへ行ったんだ。ナギサは唇の端を噛み締めた。三分待って、ミシマが尋ねる。
「僕が嫌なら女性職員に話していただいても構わないですよ」
 ナギサとサチエの肩が控えめに跳ね上がる。サクラコはパーティションを一瞥し、不満げにかぶりを振った。
「あんたの方がマシ」
「そうですか。話しやすい人達なんだけどな」
 ミシマは苦笑するが、サクラコはまだ警戒を解いていない。そこでポケットからボールを取り出し、その場にジュペッタを呼び出した。その左耳には錆びたボタンが付いている。
「僕の手持ちのジュペッタです。名前はヨギー。テディベアだった頃の名残で、左耳にボタンが付いているんですよ。痛くはないようです。ピアスみたいだよね」
 ジュペッタのヨギーはサクラコの肘掛けに飛び移って、にっかりと微笑んだ。愛くるしい表情に、彼女の頬が緩む。
「その子はとても優しいんだ。君の傍にいるね」
 可愛い、と呟いてサクラコはヨギーの膝の上に引き寄せる。いくらか緊張をほぐしたところで、ミシマは話を本筋に戻した。

「ところで、一人で抗議に来るなんて行動力がありますね。この件で、リーグには相談を?」
「こっちが先」
 サクラコがヨギーを抱きしめながら短く答える。
 衝立越しに聞いていたナギサは引っ掛かりを覚えた。未成年なのに、親が出てこないのは何故だろう。彼女は話題を逸らすように、セブンスマンに憎しみを擦り付ける。
「シビルドンが守ってくれなかったから、あたしはおじさん達に……」
「そうだね。この場合だと、セブンスマンを恨んでしまうのも仕方がないのかもしれませんね」
 社長の肯定にまた喉の辺りがひりひりと痛くなった。
 どうしてシビルドンが動かなかったのか、とにかくそれが知りたい。
「あたしがされるがままになっているところを、そいつは助けてくれなかった。ボールの中で、ぼーっと眺めててさ……」
 少し想像するだけでも吐き気がする。
 外に放牧しているセブンスマン達は、サクラコがナギサに掴みかかろうとした瞬間に怒鳴りを上げた。それくらい躾けられているのに、何故シビルドンは彼女を守らなかったのか。
 お前の失態が、私のミスになるんだぞ。肌が粟立ち、歯が小刻みに震えていた。悠々と構えている雑誌の表紙のセンリが憎い。この人くらい完璧な人生を送れたら、こんな場面に縁はなかっただろう。
「守ってくれるなんて嘘っぱち。何が『セブンスマンがいれば旅も安心、安全!』よ」
 サクラコはパーティションに貼られたセブンスマンの推進ポスターを引き合いに出しながら声を荒げる。ミシマがすかさず口を挟んだ。
「それは犯罪だな」
 真面目な眼差しがサクラコの隙間に入りこむ。 
「警察には届けましたか?」
 少女はヨギーの頭に顎を埋めながら、苦々しく吐き捨てた。
「誰も信用できない。大人はみんなクズだもん……」
「耳が痛いな」
 ミシマは大げさに肩をすくめてみせた後、両手を膝の腕で結んでゆっくりと口を開いた。
「だけど僕も人の親です。君の女性としての尊厳を蔑ろにされた事実は他人事とは思えないよ。相応の対処をすべく、協力させていただきたい。知り合いの警察関係者に信頼できる人がいるから、そこにも連絡しても?」
 サクラコの皺のない顔が歪んだ。
「そしたら親にばれるじゃん」
 その一言は、どんよりと淀んでいた事務所の空気に変化をもたらした。引っかかりを覚えた大人達の視線に気付かないまま、サクラコは尚もシビルドンの罪を追求しようとする。
「ねえ、なんでシビルドンは守ってくれなかったの? あたし、その時スマホの遠隔操作でボールを動かしたのよ。でも、あいつは出てこなかった」
 ミシマは神妙な面持ちで首を傾げた。
「信号を妨害する端末でも使ったのかな。まさか相手はカントー地方を牛耳っているポケモンマフィアとか……それなら尚更、警察に報告にしなければならないよ。その組織は、そこらのヤクザ連中より凶悪だと聞く。この地方にも活動の幅を広げていれば大変だ」
 パーティションの反対側でこの深刻な台詞だけを聞いていると、昼間放送しているアクション映画みたいに大袈裟だ。警察関係者が敵組織を語るワンシーンそっくり。ナギサが呆れる一方で、サクラコは事の大きさを自覚して焦り始める。
「いや、ただの、サラリーマン。おじさんみたいに、スーツ着てただけ」
「そういう輩は変装していると聞いたことがあるよ。スーツはまあ、基本じゃないかな」
 サクラコの顔がさらに青くなった。不思議そうに顔を覗き込むヨギーの視線が焦燥を駆り立てる。
「じゃあ、五万もくれたのはそういう理由……」
 彼女ははっとして口を噤んだ。
 五万。ナギサはそれが何を意味するのか分からずに聞き流していたが、後ろに座るサチエと、サクラコと対面するミシマはすぐに理解したようだ。

「あの、サクラコさん。とても口には出しにくい話で、あなたのお気持ちはよく分かるんですが……」
 ミシマは眼鏡の位置を正すと、その綻びを逃がさずに割って入った。
「互いの了解を得た交渉ならば、セブンスマンは介入しないんですよ。相手の男は罪に問える年齢ではあるけれど、ポケモンはそれを認識できないから、あなたが嫌がってないと判断すれば動きません」
 それでナギサも、サクラコが売春をしていたことを理解する。旅をするポケモントレーナーの中には、そういうことをして小遣いを稼ぐ者もいると聞いた。特にライセンス権利を得られる十歳ごろだとロリコンを相手に大金を得ることも難しくなく、味をしめて援助交際を繰り返し、旬を過ぎた頃には風俗嬢にまで落ちているケースも少なくはないという。
 ミスに怯えていたナギサの身体が怒りで震え始める。
 こいつ、売春の責任を声なきポケモンに擦り付けようとしていたのか。
「ただの『売り』だっていうの。だから大人は!」
 わめくサクラコを社長が制した。
「そうだね。だから、問題をうやむやにせず、しっかりと調査しましょう。君の話を聞く限り、今回のケースでは弊社だけに問題があるとは一概には考えにくい」
 赤子のように駄々をこねればセブンブリッジが謝罪し、相応の対応をしてくれるはずだ、と思い込んでいたサクラコはそこで折れた。ここの社長は出入り口で会ったブリーダーとは違い、非をはっきりさせなければ全面的に頭を下げてくれることはない。四個目のバッジを持つジムのリーダーにも力押しが通用せず、こんな風に負けたっけ。思い出すと急に自分が惨めになり、熱を帯びた目元が潤む。
「じゃあ、誰が責任取ってくれるの……」
 ヨギーの古布に似た頭の上にぽつぽつと涙の雨が降る。こみ上げてくる悔恨と吐き気を噛み締めながら、サクラコは嗚咽を漏らした。

「おじさん達にお金を貰って寝たのはあたしが悪いけど……このお腹にいる子はどうすればいいの。おじさんとは連絡がつかないし、こんなこと親には言えない。もう、何をしていいのか分かんないよ……」
 彼女は途方に暮れた挙句、当時一番頼れる存在だったセブンスマンにその怒りを向けただけなのだろう。ミシマがボックスティッシュをテーブルの上に置くと、ヨギーが念力で二枚引き抜いてサクラコの目尻を拭おうとする。ぼろぼろに泣くサクラコが落ち着くのを待ってから、彼は口を開いた。
「僕でよければ親御さんに事情を話しますよ。なるべく事を荒立てないようにね」
 サクラコは涙と鼻水とメイクが混ざり合った顔のまま、脅えるように眉を下げた。どうしても親には知られたくないらしい。ミシマもつられて困り顔をする。
「気持ちは分かるけど……そこは大人を頼ってほしいな。これは君だけの問題じゃないんだよ。僕はセブンスマンほど強くはないけど、説得は得意だよ。勿論、ヨギーも連れて行こう」
 彼は背筋を伸ばしながら、穏やかに微笑みかけた。
 どの道、十三歳くらいの彼女が大人の手助けなくしてこの事実を隠し通すのは困難だ。このまま事務所を飛び出して逃げるより、優しく接してくれたミシマに協力してもらえれば事はいくらかスムーズに解決するかもしれない。サクラコはようやく冷静に判断して、頭を下げた。
「迷惑をかけて、すみませんでした」

 ミシマはスラックスのポケットから車のキーを取り出すと、事務作業が止まったままのサチエを呼ぶ。
「サチエさん、彼女を僕の車に案内してあげてくれないかな。ご自宅まで送っていくから」
 サチエは素早く立ち上がると、膝の上に乗せていたブランケットを掴んでサクラコの元へ飛んでいく。
「これ、あげるわ」
 有無を言わさずサクラコの腹にそれを押し付け、給湯スペースに置いていたインスタントのしょうが湯を一掴み持ってくる。
「お腹を冷やすのは絶対、駄目。しょうが湯も持ってって」
 少女の肩を抱き、ヨギーを引き連れ、万全の態勢で駐車場へと向かう姿はこれから出産に立ち会う産婆のようだ。外に出る寸前、サクラコはヤマベの席に座っていたナギサをちらりと見て、控えめに会釈した。
 あれだけ騒ぎ立てたのに、釈然としない謝罪だ。ナギサはむっとしたが、あまり追及して体調を崩されてはこちらが悪者になってしまう。怒りを鎮めるべく、またセンリの表紙を見た。
 この揺るぎ無い風格を前にすると、子供の言いがかりに腹を立てていた自分が馬鹿馬鹿しくなる。仕事に戻ろう。深呼吸して席を立った時、パーティションの向こうで飲みかけのお茶を片付けている社長と目が合った。
「リーグに遅れる旨を連絡しないと」
 ミシマはやれやれ、と息を吐いて腰を上げる。社長は背が高い。仕切り一枚隔てたところでこちらを見下ろしながら、頬を緩めて優しく咎めた。
「ナギサさん。さっきのような状況で、安易に謝罪するのはよくないよ。状況を把握していないのに、非を認めたことになるからね。会社へのクレームは僕に投げてくれて構わないよ」
 叱責がナギサの耳にきんきんと響き渡り、ひどい頭痛が押し寄せてくる。自分は土下座でその場をやり過ごし、サクラコ同様、周囲に責任を押し付けようとした。過ちを思い返すだけで身体が重くなる。
「社長はシビルドンが失態したとは思わなかったんですか」
「勿論」
 社長は迷わず頷いた。
「あの子はキャリアも長いし、技のぶれもない。ナギサさんの育成の賜物です。自信を持って次の警護にも出せますよ」
 その期待はシビルドンを信じていなかったナギサに追い打ちを掛ける。社長に会釈して、逃げるように事務所を出た。

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 会社の帰りに町の外れにある峠に立ち寄った。
 広い路肩を選んでディーノから降り、林の入り口でエアームドをボールから呼び出す。東厩舎の新入りはディーノを前に大人しく身体を丸めながら、両目でちらちらと周囲を窺っていた。
「山に帰りな」
 ナギサは右手を振りながら、短く命じた。エアームドの瞳孔が大きく開く。
「やっぱりあんたはセブンスマンに向いてないと思う。まだ会社にいる以上、適当な仕事をしてちゃ駄目なんだ。あの女の子は自業自得だけど、お前の甘えがトレーナーの被害に直結したら困る」
 今日みたいなトラブルに巻き込まれるのは御免だ。誰もかれもに迷惑をかけて、土下座したって何も解決しない。新たなミスを生まないためにも、育成に不安があるポケモンは切った方がいいだろう。エアームドも自分のエゴに振り回されるよりよほどいい。
 ナギサはエアームドに背を向け、ディーノに跨ろうとする。
 鐘を鳴らすような鳴き声が峠に響いた。
 振り返ると、すぐ後ろにエアームドが居る。離れたくない、と言わんばかりの表情だが、何とかスキンシップを堪えていた。じゃれつきながら同情を誘うポケモンは多いが、セブンスマンに染まりつつあるエアームドはそれをしなかった。
 そこでナギサはようやく、己の失敗に駆られてとても愚かなことをしていることに気が付いた。
 ポケモンは感謝の手紙みたいに、簡単には切り捨てられない。
 最初に担当したクロバットの「はぐろ」だって、諦めずに育て上げたじゃないか――ナギサはぐっと奥歯を噛み締め、エアームドに告げる。
「明日から厳しく当たるから覚悟しなよ」
 エアームドは嬉しそうにきゅるる、と鳴いた。

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