第2話:フワンテがいる日

 晴れた日は会社へ続く国道沿いの林から清々しい香りが立ち上る。
 ナギサは自転車をこぎながらその清涼感を蓄えるためにたっぷりと息を吸い込んだ。あと十分もすれば会社について、悪臭漂う厩舎の仕事が待っている。林道の奥にある職場が近付くにつれ、徐々に気分は曇っていく。 
 腰を浮かせて緩やかな上り勾配を進んでいくと、リーグ所在地と隣町を往復している路線バスが横切って、十数メートル先のバス停で乗客を一人吐き出した。「牧場前」は会社の最寄りのバス停で、ここで降りる人間はナギサが勤務する株式会社セブンブリッジの関係者しかいない。
 明るいグレーの背広を着た痩せ型の若い青年は、昨日出会ったSPリーグの広報だ。彼は後ろからやってくるナギサの姿に目を留め、愛くるしい笑顔で挨拶した。
「おはようございます、ナギサさん。随分とお早い出勤ですね」
 それは本来、ナギサが言うべき台詞である。ブリーダーの出勤は早く、まだ朝の六時過ぎだ。驚いていると、彼は勝手にしゃべり始めた。
「実は昨日リーグに帰って報告したら、先方にアポも取らずに動くなんてと怒られちゃいまして……今日は確実にミシマ社長にお会いしようと、早起きして家から直行したんです。ブリーダーさん達のお仕事も拝見させていただきたいですし」
 ナギサはこの青年が愛想はいいが、どうも要領が悪いことを思い出した。
 だが、彼の名前が浮かばない。取引先の人間に関心がないため、次の日には忘れてしまう。今着ているスーツの色と相まって、チラーミィに似た印象を持ったことまでは記憶しているのだが。
「そうですか。大変ですね」
 ポケモンに似た名前だったような。孵化したばかりのような、あの弱い手持ち。そう、
「イ、トマルさん」
 徐々に声量を高めていくと、また彼の表情が明るくなった。嬉しそうに微笑みながら、上着の裏ポケットからモンスターボールを二つ取り出して得意げに胸を張る。
「そう! イトマル、ミジュマル……そして、トマルです!」
 押せばすぐ倒れそうなポケモンがトマルの両端で笑っていた。お世辞を忘れた素直な感想がナギサの口からこぼれる。
「それをやりたいがためにポケモンを育てていないんですか」
「うお、厳しいですね。さすがブリーダーさんは違うな」
 渾身の自己紹介が空振りし、トマルは悲しそうに眉尻を下げた。そういった配慮は苦手で、咄嗟に対応できない。ナギサは改めて自分なりのフォローを入れた。
「いや、昨日みたいにトレーナーのカモにされるのは困るんじゃないですか。イトマルもミジュマルも、育てやすいポケモンですよ」
「そうなんですか。今度育成のコツ、教えてくださいよー。仰る通り、僕はよく捕まるんですよ。あんまり絡まれるから、賞金用の財布を用意しているくらいで」
 安物の財布を掲げて自嘲する彼が理解できなかった。
 負ける前提で生きるのは恥ずかしくないのだろうか。トレーナーから転職して気づいたが、こういう意識の低い人間は少なくない。むしろ世の中のマジョリティである。ナギサは会話を続けるのが億劫になった。

 国道から脇道に入り、舗装されている林道を少し進むといつもの職場へ到着した。朝日が牧場の真ん中にある白い事務所を眩く照らす。ナギサはその中で揺れている、昨日なかったものへ目を向けた。
「ミシマ、いますね」
 ミシマは彼女が勤務する、この株式会社セブンブリッジの社長である。
「えっ、何故分かるんですか? 車?」
 トマルが敷地の端にある駐車場へ目をやったので、目的の方向を指差した。
「二階のベランダに浮かんでいるフワンテ。ミシマが在宅の時はあのポケモンをそこに置いておくんです」
 きらきらと輝く白いベランダの手すりに、紫色の風船ポケモンが揺れていた。それがこの会社における、社長在席の目印である。フワンテは涼しげな朝の風を受け、空を仰ぎながらゆったりと過ごしていた。その姿から、社長は「浮雲」と呼んでいる。
「なーるほど」
 トマルはわざとらしく手を叩き、ベランダで揺れるフワンテを見上げたまま事務所へ歩く。そんな隙だらけの姿を見て、西の放牧地から飛んできたザングースが柵を引っ掻きながら威嚇した。
「ひえっ、ザングース」
 針山のように毛を逆立て、牙を剥きながらこちらに吼える獣にトマルが腰を抜かす。来客の誰もが経験するセブンブリッジの洗礼である。スラックスの尻を土で汚すトマルを横目に、ナギサはいつもの調子で軽く挨拶した。
「おはよ、ふーすけ」
 ふーすけは相手が職員でも態度を変えず、ぐるると唸りながら柵を掻き毟っている。それを飛び越えて喉元を切り裂こうとしないのは、このポケモンが相応の訓練を受けているからだろう。セブンスマンはなるべく人に危害は加えない。だが、いつもこれでは鬱陶しい。西厩舎からようやくヤマベが出てきたので、ナギサは忌々しげに声を高めて彼に挨拶する。

「おはようございます」
 ヤマベは血の気が荒いザングースをボールに戻すと、若い男女を冷やかした。
「おー、結婚相手でも連れて来たのか。お前、色気ねえから貰い手がいないと心配してたんだ」
「違います」
 即座に否定してもだらしなく歪んでいる口元に嫌悪する。セクハラだろうが、と心中で吐き捨てながらトマルを紹介した。
「リーグ広報のトマルさんです。社長に会いに来たとか。昨日もいましたよ」
 トマルは慌てて腰を上げると、背広に付いた土を払いながら愛嬌のある笑顔を向けた。
「ああ、事務のおばちゃんから聞いたよ。新卒のイケメンが挨拶ついでにポケモン返しに来たって。ちゃんとした担当が来てくれないと困るんだけど、ま、後で連絡すりゃいいか」
 取引先の新入社員だからか、偏屈なヤマベも対応も柔らかい。ナギサは内心軽蔑しつつ、トマルに彼を紹介した。
「隣の厩舎を担当しているブリーダーのヤマベです。元々はジョウト地方でジムリーダーをやっていたそうですよ」
「えっ、ジョウト地方で!?」
 予想通りの反応だ。ふーすけに脅かされ、委縮していたトマルの表情がみるみる花開いた。トレーナーのランクは社会的地位に紐付いており、しがない中年男さえたった三年のジムリーダーの経歴を持っていれば一般人からは崇拝される。
「だからそっちの厩舎ではノーマルタイプしか育てません」
 皮肉まじりにそう付け加えた。ヤマベは当時専門としていたノーマルポケモン以外を育てない。その皺寄せは全て自分にきているが、トマルはそれに気付くはずもなく素直に感心しきりだ。
「凄いじゃないですか、ジョウト地方は国内強豪リーグの一つ、セキエイリーグの管轄ですよね」
「ホウエン地方のリーダーにセンリって奴がいるだろ? それ、うちのジムでトレーナーしてたんだ」
 ヤマベは鼻高々に弟子を自慢し、颯爽と仕事へ戻っていく。トマルは礼儀も忘れてはしゃいだ。
「まじっすか、すげー! センリさんってホウエンの超有名人じゃないですか。しかもお子さんはホウエンリーグの殿堂入りトレーナーらしいですね」
「眉唾ですけどね」
 ヤマベがジョウト地方のアサギシティでジムリーダーを三年務めていたのは確かだが、その弟子がセンリだったという確かな情報はない。ネットニュースやウィキペディア、コンビニで立ち読みした雑誌に掲載されていたセンリのインタビュー記事のいずれにもヤマベの記述はなかった。弟子なら少しは恩を感じて師を引き合いに出してもいいはずだ。記事を読む限りでは人良さそうな性格だが、案外不義理なのか、ヤマベが話を盛っているのか。ナギサは後者だと考えている。
 それでもトマルはヤマベの薄汚れた作業着の背中を有り難そうに眺めるばかり。
「いや、でもジョウトのジムリーダーって凄いですよ。国内強豪リーグと言えばセキエイ、ホウエン、シンオウの三つじゃないですか。他にうちのSPリーグとかオレンジリーグなんてのもありますけど、それよりずっと劣りますし」

 時に一般人は残酷な現実を浮き彫りにする。
 リーグが独立してまだ十数年と浅いこの地方ではトレーナー文化が全体的に未熟である。セキエイリーグではバッジ七個止まりだったナギサがSPリーグにおいてジムを制覇し、四天王の三人目まで進むことが出来たのはこれが大きい。SPリーグ上位のトレーナーの多くはセキエイリーグで通用せず、カントーやジョウトから流れてきた自分のような外様ばかりだ。
「一昨年から参加権を獲得した、ポケモン・ワールド・トーナメントも初戦敗退がずっと続いているんですよねえ。同じジムリーダーやチャンピオンなのに、どうしてこうも格差があるんでしょうね。僕にはよく分かりません。待遇面ではトレーナーが所属のジムやリーグにシート代を払うケースが多いシンオウとそう変わらないのに」
 シンオウ地方や外国のイッシュ地方では、トレーナー自身がジムやリーグに資金を持ちこんで運営に関わるケースがある。そういったトレーナーは副業などをしてスポンサーを獲得していることが多い。いわゆる「ペイトレーナー」だ。
 レーシングドライバーに似たその制度をこの地方でも採用しているが、まだ歴史が浅いのでトレーナーが動かずともスポンサーに手を挙げてくれる企業は少なくない。
「今年のチャンピオンズトーナメントでも初戦に大敗して、リーグは肩を落としていますよ。変な話ですけど、外様では限界があるんじゃないかと言う人もいます。まあ、ウチも発足して十年以上経ちますし、そろそろ地元出身の強いトレーナーが出てきてもいい頃なんですけどね。外様だと支援に難色を示す地元企業が出てきていることをリーグは不安視しているみたいです」
 そんなこと、王者になってから考えればいい。手が届きそうな地位にナギサの肌が粟立つ。
 バッジ八個相当のトレーナーが所有するポケモンをいくつも育成している今の自分なら、きっと四人目の四天王だって倒せるし、セキエイリーグに挑戦できる最後のバッジさえ獲得できるはずだ。あの時届かなかった「あと一歩」を「新たな旅立ちの一歩」に変えるべきだと、夢見る自分が背中を押そうとしてくれる。
 でも、また失敗したら?
 この職を手放し、リーグに挑んで破れたら、また敗者の吹き溜まりのハローワークに通いながら条件に見合う僅かな求人を漁る日々が待っている。
 ナギサの足は事務所へ動く。タイムカードを打刻して、不満が募る仕事を始めようとする。
 
+++

「おはようございます」
 事務所の入り口を開けると、四十代くらいの丸眼鏡をかけた背の高い男が待ちかねたように微笑んでいた。細身で筋肉質な身体に纏うシンプルな服装と、前髪を七三に分けたツーブロックの髪型は知的で清潔感のある印象を与える。丸い眼鏡越しの笑顔も親しみを湧かせた。
「代表のミシマです。はじめまして」
「お会いできて光栄です。リーグ広報のトマルです」
 トマルがネクタイを正してそちらへ飛んで行った後、ナギサは社長に会釈しながら入口の脇にあるタイムカードに出勤時間を記録した。サチエは九時出勤のためまだ居ない。そうなるとお茶出しは自分の仕事である。地味なトートバッグから手回り品をまとめたウエストポーチを取り出して腰に装着し、部屋の奥にある衝立で隠された給湯スペースへ向かった。
「お茶よろしくね、ナギサさん。ポットにお湯あるよ」
 社長が衝立の反対側にある応接スペースから微笑みかける。
「分かりました」
 チラーミィが早く来なければこんな雑用はなかったのに。ポットのお湯を急須に注ぎながら、ナギサは眉間に皺を寄せた。社長は応接スペースにトマルを案内し、昨日の不在を詫びた。
「昨日は留守にしていて申し訳ない。私、昼間は同業との会合なんかで空けていることが多いんですよ」
 裕福な親の金で立ち上げた会社を興すため、何かと付き合いが多い毎日だという。ヤマベは陰で「ドラ息子」と揶揄することもあるが、人は良いからナギサは社長に悪い印象は持っていなかった。
「君の話は事務のサチエさんから聞きましたよ。セブンスマンを他の地方にアピールしたいとか。新人さんなのに大役を任されたね」
 急須を二つの湯飲みへ交互に注ぐ手が止まる。
 それで昨日、セブンスマンの返却に来たリーグ職員が広報だったことを理解した。普段ならリーグの「警護ポケモン管理課」のセブンブリッジ担当職員の役割である。彼らは一、二週間に一度、役目を終えたセブンスマンをまとめて持参し、ミシマやヤマベと話し込んで帰っていく。ヤマベはその時間が重要だと思っているから先ほどトマルに苦言を呈したが、それを別部署の新人職員が顔を出すついでに任せる辺り、先方は軽視していることが窺える。彼らからすれば、この従業員四名の小さな会社は替えのきく下請けに過ぎないのだろう。
 ところがトマルはその辺の事情を知らないのか、社長の世辞を言葉通りに受け取って誇らしげだ。
「入社してすぐ、こんな大きな仕事を請け負えて嬉しいです。セブンブリッジさんの下で、ぜひ勉強させていただき、SPリーグの一層の発展に努めたいと思います!」
「頼もしいねえ。そうしてくれると助かるよ。できる限りの協力はしますから、気軽に見に来てください。私も夕方になればここにいますので」
「助かります。ミシマ社長は事務所の二階にご家族とお住まいなんですね。昨日お会いした事務の方が奥様……」
 事務所奥の階段を見るトマルの視線を遮るように、ミシマが指輪のない左手を振って否定する。
「いや、彼女は隣町から来てもらっているただのパートさんですよ。嫁には好き勝手やっているうちに捨てられまして。バツ一つのやもめ暮らしですけど、ポケモンが居るから賑やかですよ」
 中年男は皆、既婚者だと思い込んでいるなんて浅はかだ。ナギサは温かなお茶を運びながら、顔を強張らせるトマルに冷たい視線をやった。いきなり無礼を働いて、生きている心地がしないだろう。するとミシマは気にすることなく穏やかに微笑んだ。
「子供もたまに遊びに来るんですよ。君と年が近いかな……シンオウにいて、考古学をやっているんですけどね。バトルもそこそこ強くて、ルカリオなんか育てていたり……」
「それってまさか」
 トマルの表情がまたミーハーに染まる。
「残念、学生の息子です」
 待ってました、とばかりにミシマが歯を見せた。
「シロナさんだと思いました? 引っかかったね。あの人くらい成功していたら、会社の宣伝もお願いしたいところだけど」
 場を和ませる社長の鉄板ネタだ。失言で凍り付いていたトマルの表情は既に緩みきっている。
 ナギサもこれに引っかかったことがあるが、結婚の失敗を笑い話に変えられる社長の神経は理解できなかった。ドラ息子ならではの余裕だろうか。そう思いながら、テーブルを挟んで一人掛けのソファに座るミシマとトマルの前に湯呑を置いた。
「そうだ、ナギサさん。彼に仕事の内容を紹介してもらえるかな」
 ミシマは待ち構えていたようにナギサの顔を覗き込む。予想外の展開に目を丸くした。
「私がですか」
「私が、です」
 ミシマが品の良い笑顔で頷く。
「どの辺りから……」
 待ち構えていた日々のスケジュールが崩れ、何をすべきなのか、すぐに整理できなかった。
「一日のルーティンとか、それこそポケモンの捕獲から紹介してもいいかもね。厩舎を埋めるくらい捕まえてくれて構わないよ。ナギサさんなら大丈夫」
 角が立たない言葉を選んでいるが、もう少しポケモンを増やしてくれないと会社が回らないとも取れる発言に身が竦んだ。この地方から旅立つトレーナーは年々増えているのに、ナギサが新規に育成するポケモンの数は入社した頃から変わらない。一月に一、二匹だけ。ブリーダー十五年選手のヤマベは月に五、六匹は育てている。
 そろそろ辞めようと思っていても、三年目のキャリアでこれはまずい。
「お金のことは気にしなくて構わないよ。セブンスマンは税金もあまりかからないし、自治体から功労金が出るからね」
 コスト面を気にかけたことはないが、そう言われると断ることも出来なくなった。面倒を見きれない訳ではない。興味津々で二人のやり取りを見ているトマルに焦燥は悟られたくなかったので、余裕を装いながら彼を厩舎へ案内する。
「じゃ、東厩舎へどうぞ。エプロンと長靴をお貸ししますが、次からは汚れても構わない服装で来た方がいいですよ」
 いつか元いた世界に戻れるはずだ。そう言い聞かせながら同じ作業を繰り返し、三年になろうとしていた。ナギサは長靴に履き替え、ゴムエプロンを付けて事務所東側のドアを開く。視界に丸二年居座り続けた自分の職場が広がった。
 
 薄暗い舎内から吐き気を催す悪臭が鼻を刺し、後ろにいたトマルが顔を歪める。それでも外面を気にして耐えている方だ。事務のサチエはここを訪れるたびに「臭いわねー」と本音を響かせる。
「毒ポケモンが居ると臭いがひどくて。だからヤマベの厩舎を見学された方がいいと思うんですけど」
 向こうだってノーマルポケモン特有の獣臭に満ちているが、ここよりずっとましだ。引き出しから箱入りのマスクを分けてやったが、トマルはそれを素早く装着しながらも引き下がらない。
「や、これも、仕事のうちです。毒ポケモンってセブンスマン向きらしいですね。見た目が怖くて臭いで牽制しやすいって聞きました」
「そうですね。セブンスマンに選ばれるのは強面で弱点が比較的少ないポケモンです。大柄の子も向いています」
 ノーマルタイプ以外からそれを選んでくるのは苦労する。昨日も空いた時間に林道をうろついていたが、見つかるのは臆病なポケモンに臆病な人間ばかりだ。ナギサはこっそりトマルを睨みつつ、木製のストッカーから餌の入った麻袋を引っ張り出して台車に乗せた。タイプ別にブレンドした餌は一袋あたり三十キロ近くあり、その上げ下ろしだけで腰が千切れそうになる。
「手伝いましょうか」
 トマルは口だけ差し伸べた。手を出されると面倒だ。
「見てるだけで結構です。朝、出勤したら餌をあげて外へ出します」
 ナギサはつれなく首を振ると、黒いウエストポーチの中からモンスターボールを掴み、スイッチを押してその場にスピアーを繰り出した。舎内に重苦しい羽音が広がると、寝起きのポケモン達の身体がきゅっと引き締まった。ボスゴドラにスカタンク、シビルドン。相性問わずスピアーの前に押し黙る彼らを見て、トマルが目を見張る。
「私の手持ちで、この厩舎のボスです。名前はモコ。ポケモンにも上下関係があり、それを築くために手持ちを利用します。これは普通のトレーナーも同様です。多くは右腕となるポケモンがボス格になって他のメンバーの統率をとります。リーダーがいなければチームはまとまりませんから」
 頂点はトレーナーだが、手持ちメンバー内では切り札ポケモンがまとめ役を担うのが常。モコを引き連れながら餌箱に飼料を入れていくと、全てに行き渡るまで格下らは「待て」の状態を続けていた。餌を入れ終え、モコにポロックをやったのを合図にセブンスマン達はようやく食事にありつける。
「ご存じのとおり、セブンスマンはバスケのシックスマン同様、あくまで控え選手です。それも助っ人的な立ち位置の。警護の際、トレーナーの手持ちのコミュニティに馴染まないようにするためには、厩舎の上下関係が絶対だと教え込む必要があります」
 こんな当たり前のこと、ポケモンリーグの人間に説明するまでもない。ナギサは自嘲気味に口元を歪ませたが、トマルはそれを知らなかったらしく、大袈裟に掌を叩いて感心していた。
「ああ、なるほど。シックスマンが由来なんですね」
 警護ポケモンの呼び名は堅苦しいので、発足直後にトレーナー間で広まった愛称がすぐに定着した経緯を知らないのだろうか。ナギサは呆れた。
「常識ですけど」
「トレーナーを守ってくれるヒーローみたいな存在だから、そういう名前にしたのかと思ってました。スーパーマン的な……でも、どちらの意味にもとれますよね。プロモーションに使えるかもしれないな」
 トマルはへらへらと笑って悪びれるところがない。
 こんな広報をよこすなんて、リーグはセブンスマンを広めるつもりがあるのかとナギサは首を捻った。説明は徐々に雑になっていく。
「夜行性のポケモンがいたりすると、夜のうちに外へ出して朝方厩舎へ入れることもありますが、今は不在なのでその紹介は省きます」
「ゴーストやネズミ、コウモリ系のポケモンですね。奥に専用の部屋がありますけど、貸し出しているんですか?」
 トマルが空っぽになった奥の暗い部屋を覗き込む。
「今は育てていません」
 そこに入るポケモンはもう捕獲するのさえ億劫だ。この話は続けたくないのに、トマルは興味を示したまま。
「へえ。夜牧のポケモンってどんな生活をしていたんですか」
「それはまたの機会でいいですか。今はいないので」
 刺々しく突っぱねて、反論を遮るように厩舎の窓を開けていく。林から流れる穏やかな風が舎内に満ちていた悪臭を外へ押し流し、ようやく呼吸が楽になった。鬱屈した気分だけは晴れることはないのだが。
「餌を食べている間に厩舎の空気を入れ替え、終わったらポケモンを外へ出します。吼えられるから隅にいた方が良いですよ」
 そうやってトマルを脅して隅へ追いやり、食事を終えたポケモン達をモコを使って放牧地へと追い立てていく。すぐに西厩舎のふーすけとの怒鳴り合いが聞こえてきたがいちいち仲裁している暇はない。
「あとは掃除をして餌を調合し、午後から捕獲や訓練を実施します」
 ポケモン達が去った後の部屋を掃除し、糞を片付けて洗い場から引っ張ってきたホースで水を撒く。湿気にスカタンクの残り香が混じると皮膚に臭いが張りついてむせ返るようだったが、専用の洗剤を散らしてデッキブラシでこするとやがてそれも和らいだ。毒ポケモンとその他のタイプを同時に飼育する場合は、感染症に気を払わねばならず手間も増える。
 本当は、毒タイプなんて育てたくなかった。
 これだけ負担がかかるのに、貸し料は他のタイプより二割上乗せされるだけだ。それでは給料にも響かない。ヤマベのように一つのタイプだけを育成できればどんなに楽だろう。だが現状は、セブンスマン向きのポケモンの捕獲さえ苦労して、タイプをえり好みしている余裕などなかった。一時間かけて厩舎の掃除を終わらせると、作業場でひっそり見守っていたトマルが拍手を送ってくれた。
「ナギサさん、手際が良いですね。女性なのに重労働をさらっとこなしているなんて、さすがプロは違うな」
 腰掛みたいな職場なのに、プロ呼ばわりされると居心地が悪くなる。そういう称賛を言葉通りに受け取っていくと足元が固まって、辞められなくなる気がするのだ。人の良い社長、悪くない給料に残業が少ない職場。臭い厩舎や鬱陶しいヤマベやサチエに我慢すれば、ブリーダー生活は惰性で続いていく。
 だから、こういった好意は昨日の手紙のようにすぐに忘れた方がましだ。さらりと流しながら放牧地へ出ると、その思い上がりを第三者によって叩き潰された。
 
「おい、発注の量を間違えたな?」
 柵の向こうから来たヤマベの怒声が、ナギサの耳朶を打つ。一瞬困惑したが、出入り口に停車する飼料業者のトラックと、その横に並ぶコンテナを積んだ台車を見て状況を理解した。昨日頼まれた餌の発注。流れ作業でいつもと同じ量を頼んでしまったが、昨日はリーグからポケモンが返却されたので多めに注文しておく必要があったのだ。
「一昨日と同じ量で発注かけたな。昨日ポケモンが戻って来たんだから、当然数も増えるだろうが!」
 ヤマベが柵の外からこちらを怒鳴りつけ、ふーすけがつられて咆哮した。二度も怒られているようで胸の奥が酸っぱくなる。
「すみません、言われなかったから……」
 いや、今回はほぼこちらの過失だ。ヤマベの顔が歪む前に訂正した。
「失念していました。すみません」
「まあお前のとこはボスゴドラ一匹だからそれで足りるだろうけどよ。こっちは五匹戻ってきた。餌が足りねえよ」
 彼はそこからくどくどと、自らの優位性を誇示しながらの説教を始める。お前は一匹、こっちは五匹。やけに強調するのが嫌で仕方がない。伏し目がちに視線を逸らし、反省はやがて口先のみとなる。
「すみません」
「もう三年目、新人じゃねえんだから状況判断をしっかりしろ。ジムリーダーならとっくにクビだ」
 三年で解雇された元ジムリーダーがそれを引き合いに出すと余計に不満だった。その上、飼料業者やトマルを前に公開説教を食らったことは傷口に塩を塗り込む屈辱である。わざわざ人前で怒鳴りつけることないじゃない。ヤマベは当てつけのように業者の元へ走り、大仰に予定を確認する。
「すまないけど追加で持ってこれる? 昼過ぎまでに。駄目なら取りに行くから」
 ヤマベと馴染みの業者は二つ折りの携帯を開きながら首を捻る。
「あるかなあ。ヤマさんとこ、よく食べる上に種類も細けえからな」
「そりゃ同じブリーダーでも、カタログポケモンとセブンスマンじゃ餌の量も大違いさ」
 ブリーダーの業種も様々だ。セブンスマン専門の会社もあれば、はじめの一匹となる手持ちをカタログにまとめて客に選ばせる「カタログポケモン」に特化しているところ、孵化だけを請け負う業者もいる。その中で最も手間がかかるのはセブンスマンだろう。ナギサはそれを疑わない。
 携帯から本社へ連絡していた中年の業者が指先で輪っかを作って通話を切った。
「在庫、あるってさ。だけど他にも寄るとこがあるから、再配送は時間ぎりぎりになりそうだ」
「分かった、飯食ったらそっち行くよ。助かるよ」
 ヤマベは業者にヤニで黄ばんだ歯を見せ、台車を押しながらこちらへ歩んでくる。トラブルを収束させた安堵の表情にナギサの胸の隅がずきりと痛んだ。
「おい、餌を取って来るから昼からおれの厩舎も見てろ。このメシは使っていいぞ。追加分をこっち側の夕飯に充てるから」
「すみません」
 先ほどと同じ言葉しか使えなかったが、今度こそ申し訳なく思っている。
「でも、まあ発注書を確認してなかったおれも悪いな」
 そうやって先に非を認められると、ヤマベを嫌悪して過ちを省みなかった自分が情けなくなった。
 ヤマベにだって落ち度はある、だからこの失敗だって完全に自分の責任ではない、そう思い込みたかっただけ。

 さあ、辞めるなら今だ。
 誰にも迷惑を掛けないトレーナー旅の方がずっと気楽で結果も出せる。今なら、きっと。
 餌を運び入れようと厩舎の方へ身体を向けた時、居心地悪そうにしているトマルと目が合った。社長には悪いが、今日はもう仕事を紹介できる気分ではない。
「午後からの捕獲はなくなりました。また後日」
 ですよね、と引き攣り笑いを浮かべながら彼はそそくさと厩舎を後にする。ところが、何かを思い出してまたこちらを振り返った。不穏な動きをボスゴドラやシビルドンに睨まれながら、震える足でこちらへやって来る。
「ナギサさん、これ」
 スラックスのポケットから差し出されたのは、プリンアラモードの写真が印刷されたクーポン券である。
「今朝はコンビニで朝食を買ってバスの中で食べてきたんです。で、今、コンビニで六百円買うごとにクジが引けるんですよ。それで僕、当てちゃいました。プリンアラモード引換券!」
 回りくどい自慢に苛立ちが再燃する。
「何が言いたいんですか」
「差し上げます、これ」
 軍手をはめたナギサの掌に気前よくそれを乗せ、トマルは心からの励ましを添えた。
「元気出してください。落ち込んだ時はスイーツですよ。また明後日来ますんで、お仕事教えてくださいね」
 ミスした傷口に塩をもみ込まれ、クリームまで塗りたくられるとは思わなかった。甘いものは嫌いだ。いくらでも食べられて、気がついたら胸焼けしている。それなのにトマルは親切を押し付けたまま厩舎を出ていった。
 これも捨ててやる。
 しかしクーポンに記載された税込三百五十円の価格を見て、それは思い留まった。この値段のデザートを貰えるのなら、好意に甘えてみてもいいかもしれない。

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