第1話:セブンスマン

 もしもあなたが営業マンで、隣の町に徒歩で出向かなければならないときは、ジャケットを脱ぎそれでビジネスバッグを包んでおくべきだ。さもなくばモラルのないポケモントレーナーのカモになるだろう。「武器となる葱」がなければ潔く財布を開き、タクシー代を惜しんだことを後悔するしかない。
 トマルは随分前に社内で読んだビジネス雑誌の一文を思い出した。「出先でトレーナーに遭遇した際の対処方法」の見出しに飛びついて記事を読み込んだつもりなのに、覚えているのはそれだけである。今、まさにあの知識が必要なシーンに直面しているというのに。
 運動になるしサボれるからと徒歩で向かった隣町の国道脇。
 草木が生い茂るその場所はちょっとした広場になっていて、ポケモントレーナー達によるバトルが日常的に行われているのか地面はあちこち削れていた。
 そして今も、目の前には一回り下の少年トレーナーがこちらを居丈高に睨んでいる。傍には頬袋に電気を溜め込んだピカチュウがいて、トレーナーそっくりの顔つきの悪さだ。愛玩用にも人気の愛くるしい種であるはずなのに、その魅力はすっかり失われている。ポケモンを生かすも殺すもトレーナー次第で、それはバトルの才能に見放されたトマルも同じである。
「目が合ったらポケモンバトル、それがトレーナーの暗黙の了解だろ?」
 脅迫をもっともらしい挑戦に仕立て上げる少年に、トマルはペット同然のポケモンが入ったモンスターボールを二つ示した。右にイトマル、左にミジュマル。バトル経験が皆無に近い彼らは、きょとんとした表情でボール越しに主を仰いでいる。
「だから、僕はトレーナーじゃないってさっきから何度も言ってるよね。この子達はペット。旅やバトルはもうリタイアしたし……取引先へ急がなくちゃいけないから、もう解放してくれないかな?」
 そうやって命乞いすれば大抵のトレーナーは見逃してくれるのだが、この少年はまだ慈悲を知らないようだ。
「ふーん、バッジいくつ」
 そうやって見下すようにランクを尋ねる。
 これを言ってしまえば立場は明確になってしまう。アマチュアトレーナーの評価基準にして彼らのアイデンティティ、それがジムバッジの獲得数だ。トマルは視線を逸らしながら仕方なくそれを口にする。
「カントーのジムを周って二個」
 どの地方でも、与えられる旅修業の期間いっぱいにポケモンの育成に打ち込めば、「ヤドンがポケモンを操っても」最低二個はバッジが獲得できると言われている。旅の終わりが近付けば、一部のジムリーダーが空気を読んで負けてくれるからである。
 つまりバッジ二個はトレーナーとしては最下層のレベルであり、これを口にするのがトマルは嫌だった。案の定、少年は腹を抱えて笑いながら大人のプライドを踏みにじる。
「よっわー! おれ、四個」
 もう何百回とぶつけられた台詞がトマルの心をちくりと刺して、すっと痛みが消えていった。とっくにポケモンバトルの才能に見切りをつけている彼にとって、それは比較的些細な問題である。
「凄いね。僕なんかじゃ勝負にすらならないや。君にはこんな僕よりずっと強い、名前も声も知らないあいつらが待っているよ! じゃ!」
 少しも不満を出さない快活な笑顔で侮辱をはねのけ、大人の余裕を見せつけながら身を翻す。もし彼がバッジ五個以上を獲得した、それなりに実力のあるトレーナーならばそこでモンスターボールを手にするかもしれないが、弱さを自覚しているだけに無理な意地を見せることはなく、優先すべきは仕事である。ところが少年はその背中を挑発と捉えたらしい。
「ピカチュウ、十万ボルト!」
 周囲が瞬き、電気ネズミの尾から放たれた電撃がトマルの影を切り裂いた。彼はもんどりうって倒れ込み、草むらの上にビジネスバッグの中身や手土産の菓子折りがひっくり返る。それを急いで掻き集めながら、トマルは後ろに喚き散らした。
「いくらなんでも、トレーナーを狙うのは反則だよ!」
「バッジを二個持ってたら十分だ。おれと勝負して、負けたらそのお菓子と金を置いてけ」
 少年はハロウィンの脅し文句のように、悪びれることなく吐き捨てる。相手が格下と見るや、傲慢になるケースは少なくない。そんなトレーナーを見慣れているトマルは携帯を掌の中にこそこそと引き寄せながら、手持ちのモンスターボールを掴んだ。
「通報した方が早いな。イトマル、いつものやつ頼む」
 右手で携帯のロックを解除しながら、左手でモンスターボールを投げ放つ。何度も恐喝の被害に遭って磨かれた身のこなしは誰よりも鮮やかだ。蓋が開いた瞬間、イトマルが腹の中に溜めていた蜘蛛の糸をピカチュウ目掛けて吐き出した。
「いとをはく!」
 丈夫な糸がピカチュウの四肢に絡みつき、動きを鈍らせる。その間に手早く通報して警察の到着までやり過ごすのがこれまでのやり方だが、今回の相手は子供故にかそれを素直にバトルの合図だと受け取った。
「よっしゃ、バトルスタートってことで。ピカチュウ、放電!」
 ピカチュウが拘束を免れた尾から雷を解き放ち、イトマルと携帯端末を一撃で戦闘不能にする。残る手持ちは相性が悪い水タイプのミジュマルのみ。トマルの命綱は蜘蛛の糸のようにあっさりと切れてしまった。
 彼は再び、職場から取引先までの移動に徒歩を選んだことを後悔した。昼下がりの田舎の国道は車の往来も少なく、稀にやってきても法定速度を二、三十キロもオーバーしたスピードで通り過ぎていく。道路脇での野良バトルはドライバーにとって日常風景のようなものだから、誰一人トマルの危機に気付かない。これに巻き込まれたくないから、歩行者の行き来はもっと少ない。今だって歩道にいるのは反対側にたった一人だ。
 そこでトマルは顔を上げた。
 ようやく見つけた救世主は、一つ結びのひっつめ髪を揺らしながら灰色の薄いスウェットにジーンズ姿で向かいの歩道を歩く、年の近そうな若い女性である。化粧っけのない横顔が、彼には光り輝く女神に見えた。トマルは腰を浮かせながら声を張り上げる。
「そこのお姉さん、どうか助けてください! ポケモントレーナーに絡まれて殺されそうなんですう!」
 女性が黒いスニーカーを履いた足を止めてこちらを振り返った。
 奥二重の小粒な瞳がこちらを冷たく睨みつける。彼女は爪先の延長線上にいるトマルの顔を見た後、その周囲に散乱する荷物に目を移し、素っ気なく助言した。
「セブンスマンを使えばいいじゃないですか」
 トマルはきょとんとした顔をする。何を言われたのか、すぐに理解できなかった。すると彼女は煩わしげに二の句で指示した。
「その青と黄色のボール」
 視線が示す先にあったのは、鞄から転がり落ちた標識のような配色のモンスターボールだ。その中にはこの地方で初心者トレーナーを護衛する役目を担うポケモンが収まっている。確かに本来ならこのような場面で用いるべき存在だが、トマルにはそれが念頭になかった。
「あっ、これは取引先に返却するボールで、勝手に使うのは……」
 また別の問題を起こすかもしれない。そんな臆病な姿に呆れた女性がうんざりと息を吐いた。
「じゃあ、お金を払って負けを宣言するしかないですね。サラリーマンの賞金相場は五千円。いいカモだ」
「使います」
 トマルは反射的に青と黄色のボールを掴み、血の気の荒いピカチュウ目掛けて放り投げる。
「ごめんなさい、セブンブリッジさん!」
 ポケモンの管理会社には後で理由を説明して謝ろう。帰社すれば始末書を書かされるかもしれない。それでもあの生意気な子供に五千円の小遣いをやるよりはいくらかましだ。
 トマルとピカチュウの間でボールが開く。穏やかな林に咆哮を轟かせ、辺りに土ぼこりを撒き散らしながら、彼らの目の前に鋼の岩山がそそり立つ。鋼鉄の頭から太陽へと伸びる二本の長い角は磨き上げられた大太刀のようだった。
「ボスゴドラ」
 鋼の恐竜の登場にその場の空気が一変した。
 トマルはぽかんとボスゴドラを見上げたまま石と化し、少年とピカチュウは青ざめたまま息を呑む。二メートル半を超える巨躯はそれだけで相手を圧倒する存在感があり、鉄鋼の皮膚に刻まれた数多の傷がそれを一層際立たせる。彼らの傷は名誉の勲章で、これが多いほど力があるとされていた。
 この威圧感だけで既に流れはトマルに向いている。ボスゴドラが守るべきトレーナーを一瞥した。それでトマルは我に返る。
「あの、技は」
 このポケモンは一体どんな技を覚えているのだろう。後ろを振り返ると、女性が車道を横切りってこちらへやってくる。近くで見ると、つれない言動にぴったりの痩せ型でシャープな雰囲気があった。薄化粧を施しただけの顔は美人ともいえない地味な印象で、トマルの意識はすぐにボスゴドラへと戻っていく。
「黙っていれば勝手に戦います」
 彼女がそう言うと、ボスゴドラの関節が軋んで鋼の大山が動き始める。その外見に反し、動作にはピカチュウが攻め入る隙がない。女性は続ける。
「セブンスマンはまず相手を威嚇します」
 ボスゴドラはすっと息を吸い込み、こちらの様子を窺うピカチュウ向けて吼えたける。地の底から揺さぶりを駆けるような重低音は草木を薙ぎ払い、電気ネズミに恐怖心を植え付けた。本能に訴えかけられると膝が崩れ、ピカチュウはトレーナーの元へ転がるように逃げ帰る。少年は紫に変色した唇を震わせながら、仕方なくピカチュウをボールに帰還させた。
 その姿を見た女性が、薄い唇の端を緩ませる。
「セブンスマンはバッジ八個のトレーナーが所有するポケモンに相当します。チンピラのカツアゲ程度、訳無いですよ」
 見下ろすような眼差しに少年のつまらない矜持が引っ掛かれた。
「くっそ、それならマッスグマで!」
 ピカチュウと入れ替えるように、ベルトに装着したモンスターボールを弾き飛ばした。現れたのはピカチュウと同じくらい小柄な突進ポケモンだ。得意とする直線走りはあっという間に時速百キロを叩き出す。
「捨て身タックル!」
「それでも退かなければ牽制攻撃」
 だが、ボスゴドラはサーキットのタイヤバリアよりずっと頑丈で容赦ない。突進を仕掛けるマッスグマをアイアンヘッドで豪快に薙ぎ払った。女性は具体的な技の指示を口にしていない。ポケモンは自らの意志で戦い、そして立ち位置は常にトマルの前だ。頼もしいボディガードの活躍にトマルが舌を巻く一方で、少年は折れかけた闘争心を引きずったままである。身を起こそうとしたマッスグマへの指示を阻むように女性が鋭く警告した。
「まだ戦うつもりなら、容赦しないから。セブンスマンは三手目で戦闘不能にする」
 ボスゴドラが鋭い鉤爪をポケモンへ構える。これ以上の抵抗を見せても結果は変わらない。少年の敗北だ。彼の手持ちの中に、ボスゴドラに敵うポケモンなどいなかった。唇を噛み締める少年の焦りを見透かすように、女性は言う。
「トレーナー修行の猶予は二年しかないんだよ。弱い者いじめをしてる間に終わっちゃうよ、君の冒険」
 その一言で、意地っ張りな少年の表情がみるみる崩れ始める。
 彼らの目標はポケモンリーグの頂、つまりチャンピオンだが、それを目指すために与えられた期限は長いようで短い。二年の間に延長が認められる結果を出せなければ、将来を案じて学校生活に逆戻りだ。少年のタイムリミットは残り半年、しかしバッジ四個という現状に焦燥を感じていたのだった。
「ごめんなさい……最近ずっと負けてて、悔しかったんです」
 本音に混じって、目尻からぽろぽろと涙が零れる。トマルはその姿を見て携帯をショートさせられたことさえ許そうとしたが、女性は徹底して素っ気ない。
「次やったら通報されて人生ごと棒に振るからね。気をつけなよ」
 見逃してやるが同情はしない、と言わんばかりだ。トマルはこっそりと背筋を伸ばした。
 
 少年がその場を去ったところで、女性が一つ結びの長い黒髪を揺らしながら不満そうに振り返る。 
「ボスゴドラをボールに戻してください」
 冷たい視線がトマルの後ろに立つボスゴドラへと移る。鉄鎧の戦士を背に安心感に浸っていた彼は、途端にその表情を強張らせた。
「でも、このポケモンに守ってもらいながら隣町へ向かった方が安全じゃ」
 隣町まではまだ二キロほど離れており、似た被害に遭わないとも限らない。そんな心配を彼女はばっさりと切り捨てた。
「セブンスマンの連れ歩きは禁止されています。この地方の人じゃないですよね」
 ローカルルールもあいまいなトマルの態度に、女性は苛立ちを覗かせている。心なしか背中を守ってくれていたボスゴドラの呆れた視線も感じたので、彼は慌ててジャケットの裏から名刺入れを取り出し、一枚引き抜いて女性の前に差し出した。
「実は春からこの地方へ来たばかりの新人で……僕、こういう者です」
 名刺に描かれたモンスターボールのロゴが目に留まった途端、彼女の目の色が一変する。
「SP(サウスウエスタン・ポケモン)リーグの広報さん」
「トマルと申します。話は研修でも聞いていたんですが、凄いですねえセブンスマンって。ボスゴドラなんて生で見るの初めてですよ、めちゃくちゃ格好よかった! まさにボディガードですよねえ。お姫様だっこ、サービスしてくれない?」
 トマルは映画の主題歌を口ずさみながらボスゴドラを仰ぎ見る。傷だらけの鋼の顎に間抜けな男の笑顔が横に引き伸ばされて映りこんでいたが、ポケモンは無表情を決め込んだままだ。
「セブンスマンは懐きません」
 彼女はトマルの上着のポケットに突っ込まれていた青と黄色のモンスターボールを掠め取ると、岩山のように押し黙ったままのボスゴドラをようやくその中へ帰還させた。
「彼らの使命はトレーナーの警護です。役目を終えても、すぐに次の手に渡る。私情を挟むべきではありません」
 そう語る表情はどこか愁いを帯びていたが、トマルはそれを見落とし、ただ素直に感心するばかり。
「うちの職員よりセブンスマンにお詳しいですね」
「それを仕事にしていますし、このボスゴドラをセブンスマンに育てたのは私ですから」
 彼女は涼しげに答えながら、当然とばかりにボスゴドラのボールをベルトに装着する。トマルに返さず、そのまま持ち帰ってしまうらしい。それが許される組織はただ一つ。彼は目を見開いた。
「もしかして株式会社セブンブリッジの」
「そこでブリーダーをしているナギサです。名刺は切らしています」
 愛想がないまま、突き放すように彼女は自己紹介する。世間知らずな自分に呆れているのか、それともこういう性格なのか。距離感を掴みかねている焦りを、トマルは引きつり笑いで誤魔化した。
「ちょうど御社へお伺いするところでした」

+++

 株式会社セブンブリッジは町の郊外にある、競走馬用の牧場跡地を借りた警護ポケモン専門のブリーダー会社である。林の中に開いた広い土地には柵で囲まれた二つの放牧地と厩舎が並んでおり、その間には両エリアを繋ぐように白い木造の事務所が建っていた。
 一見すれば緑豊かな自然の中に佇むのどかな牧場だが、ギャロップを競走馬として飼育していた名残で耐火性に優れており、設備の一つ一つが頑丈な造りをしている。それは屈強な警護ポケモンの育成にも適していた。
 ナギサはトマルに事務所の場所を教えると、彼に付き添うことなく担当の東厩舎に戻った。金属の重い引き戸を開けると、ブレンドされたポケモンの獣臭が彼女を出迎える。厩舎は中央の通路を挟んで左右に十匹ずつ、計二十匹を個室で管理できるようになっていた。奥の四室は夜行性のポケモン向けに改造されており、そこだけ光が入らず薄暗い。
「ただいま」
 ナギサは手前の部屋にいたシビルドンとスカタンクに声をかけた。ポケモンも愛想なく頭を少しだけ動かし、一応の返事をする。舎内にいるポケモンは現在、彼らだけだ。
 厩舎の出入り口の脇には古びたシステムデスクが置かれており、そこがナギサの自席兼作業場だった。舎内はポケモンの臭いがきつく、勤続三年目となる今でも三十分座っているのが限界だ。毒ポケモンが戻っているとそれも耐えられない。今もスカタンクの吐瀉物が発酵したような臭いが鼻につく。ナギサは引き出しにしまっていた箱入りの使い捨てマスクを一枚装着し、トマルから提出された報告書に目を落とす。
 そこにはポケモンリーグから戻ってきたボスゴドラの結果報告が書かれていた。一年七ヶ月前から初心者トレーナーを警護したのち、返却。派遣先でトラブルを起こしたことはなく、健康状態には異常なし、とある。
「私の厩舎では二番目に長い護衛記録だ」
 厩舎に漂う不愉快な毒の臭いが和らいだ気がした。
「うちの担当さん変わったの? 嬉しいわあ、若くてイケメンで!」
 事務所へ繋がるアルミドアの向こうから、サチエのきんきん声が響いてきた。
 サチエは四十五歳のパート事務員である。手持ちのバクオングが辟易するほどお喋りで、その上声も甲高いから、ナギサはあえて事務所に自分のデスクを置かなかった。彼女の中身がない話を聞き続けるくらいなら、毒タイプの悪臭を吸ってでも一人になった方がましだ。
「ありがとうございます。こんなに美味しいお茶やお菓子を出してくださった上に、ポケモンの回復まで。至れり尽くせり、嬉しいです」
 あのリーグ広報の爽やかで調子のいい声がする。
 見た目の印象は文句なしの、清潔感のある青年だった。新卒らしいから、自分より二歳下だ。あの小動物のようなアーモンド型の目で微笑まれると、サチエのような軽率なおばさんはたちまち懐柔されてしまうことだろう。彼女は上機嫌な声のトーンを少し落とした。
「せっかく来てもらったところ悪いんだけど、社長は夕方まで戻らないのよー。六時過ぎくらいになるかしら。事務所の上に住んでいるんだけど、昼間は空けていることが多くってねえ。明日なら朝からいると思うわ」
「そうですか。セブンスマンを返却したついでにお会いしたかったんですけど……また明日、出直しますね」
 最初にアポイントをとればいいのに。バトルも仕事も要領が悪そうな人だ。
 二人の実のないやり取りを耳にしていると徐々に苛立ちを覚えたので、ナギサは小さく息を吐き、ボールを掴んで外へ出る。

 放牧地へ出た途端、湿った草むらと林の香りがナギサの鼻先からスカタンクの臭いを追いやった。空は間もなく雨が落ちてきそうな重い曇り空だ。ナギサは手にしていたボールの開閉スイッチを押し、ボスゴドラをその場に繰り出した。
 鉄鎧ポケモンが地面を踏みしめ現れると、ナギサの足元からずしんと重い衝撃が走る。彼女は微動だにせず、鉄の山をじっと仰いだ。リーグから警護を終えたポケモンが返却されると、ブリーダー自身もメディカルチェックを行う必要がある。戦闘態勢ではないボスゴドラは先ほどよりずっと縮んで見えた。
「そいつ、新入りか」
 湿った風に乗って、西側の放牧地から声がした。
 薄汚れた作業着を着た中背の男だ。年は五十代半ばといったところで、広い額の下に並んだ小さく鋭い双眸が何気ない言葉を尖らせる。
 彼は西厩舎を担当する先輩ブリーダーのヤマベだ。どうやらボスゴドラを新しく育成したポケモンだと思い込んでいるらしい。
「二年近く出向していましたよ」
 呆れた口調で返すと、ヤマベは視線を曇り空へ逸らした。そこに答えは書かれていない。代わりに彼の後ろから全身の毛を逆立てたザングースが飛んできて、柵越しにこちらを威嚇する。
「『ふーすけ』は覚えてるみたい」
 ザングースのふーすけはヤマベが管理する西厩舎のポケモンで、いつもこちらに放牧されているポケモンを脅かしてくる。ボスゴドラも金属を擦り合わせるような唸り声で応戦した。
「居たな、そういや」
 ヤマベは納得したように呟くと、鼻息荒いふーすけを青と黄色のボールに戻して西厩舎へ踵を返す。その際、ナギサに仕事を押し付けた。
「明日着で餌の発注入れとけよ」
 彼の背中をムーランドやバッフロン、ケンタロスが追いかけていく。分かったようなふりをしていたが、ヤマベはボスゴドラの存在を忘れていたはずだ。ナギサは確信し、軽蔑の視線で見送った。
「それじゃ、また明日お伺いしますねー!」
 ヤマベと入れ替わるように事務所の正面口の扉が開いて、トマルが飛び出してきた。彼は背広を軽く翻すと、事務所にいるサチエに丁寧にお辞儀する。
 チラーミィみたいな人だな、とナギサは思った。狙ったような愛嬌があって、ピンチになればその場を上手くやりすごす。その真逆である自分には苦手なタイプだ。なるべく視線を合わせないよう、ボスゴドラへ顔を向けたはずなのに鋼の身体に映りこむ彼の姿がだんだんと大きくなって、後ろから呼び止められた。
「ナギサさん、ちょうどいいところに。リーグから頼まれていたものを忘れていました」
 トマルはその小さな顔に満面の笑みを張りつけたまま、ごそごそとビジネスバッグの中を引っ掻き回している。どうやら先に用件だけが浮かんだ勢いで話しかけてきたらしい。肝心の品をどこへしまったのかは忘れたらしく、やがて書類やファイルを取り出し始めた。やはり手際が悪い。うんざりするナギサの前に目的の茶封筒が出てきたのはそれから二分後である。
「これ、ボスゴドラがついたトレーナーさんからのお手紙だそうです。どうしても渡して欲しいと」
 長三の封筒の表には「ブリーダーさんへ」という短い宛名が書かれていた。字が汚い小学生の男の子が精いっぱい頑張ったような角ばった書体。ナギサは後で読もうと思っていたのだが、トマルが興味津々にこちらを見ているので、仕方なく封を切って中を確認した。写真が一枚と、ルーズリーフに書かれた手紙が二枚。感謝状だった。

 僕のセブンスマンを育ててくれたブリーダーさんへ。
 セブンスマン、ありがとうございました。僕の旅はバッジ三個で終わってしまったけれど、いつもいつでも僕を守ってくれたボスゴドラにはとても感謝しています。ボスゴドラは僕の大切な友達です。いつも「セブン」と呼んでいました。この前、僕が洞くつのガケから落ちたときも、すぐに助けてくれたのは「セブン」でした。骨折してしまったけど、僕は死なずにすみました。しばらくリハビリに時間はかかるらしいけど、ケガが治ったら毎日きちんと学校へ行って、ブリーダーになれるよう勉強をがんばります。そして僕も「セブン」のようなセブンスマンを育てたいです。カツアキより。

 手紙の二枚目はボスゴドラと思しき手描きのイラストで、写真は親が撮影したらしいポケモンセンターの前でボスゴドラと松葉杖をついた少年が並んでいるツーショットだ。十歳になってすぐに家を飛び出し、夢を見るだけの旅に満足したような笑顔と最後までガードの仕事を全うしたボスゴドラの仏頂面がアンバランスだが味わい深い。写真を見たトマルは目頭を熱くした。
「素敵じゃないですか。ブリーダー冥利に尽きますね」
「そうですね」
 ナギサの口元も自然と緩んだ。
 それを見て、トマルは同調してくれたのだと思ったらしい。曇り空の上から引っ張り出した太陽のような笑顔で自信たっぷり胸を張り、その立場をアピールする。
「もし返信を希望されるようでしたら、僕が手紙を預かります。責任をもってその子にお届けしますからね」 
「どうも」
 短く礼を言って、ボスゴドラの確認に戻った。
 敷地の門を抜けるトマルに背を向け、戻ってきたセブンスマンの状態を見る。ボスゴドラにとって名誉である、身体の傷は倍以上に増えていた。四肢の動きはスムーズで、いくつか技をやらせてみたが、その精度は落ちていない。トレーナーを守る機会は多かったらしく、二年近くの間に腕前は上がっていた。
「はい、オッケー。次もよろしく」
 ナギサは厩舎の入り口を開けてボスゴドラを中へ招き入れる。
 すぐにスカタンクの悪臭が鼻を突いたが、ボールに閉じ込めておくよりストレスがかからないし、これに慣れるのもセブンスマンの訓練の一つだ。耐性がつけば毒ポケモンに対応しやすい。
 ナギサはボスゴドラを個室に入れて柵を下ろした後、脇に挟んでいた例の封筒を右手に戻した。心からの感謝をこめた、自分宛ての手紙。親指に力を入れて、真ん中から引き裂き、四つ切りにして毒物処理機の中へ放り込む。毒ポケモンの排泄物を安全に処理するタンク型の機械は小さく音を立てて紙ふぶきを飲み込み、すぐに静かになった。
「期限ぎりぎりまでセブンスマンを頼るなんて、よほどの下手くそだったんだね」
 押し付けがましい感謝を糧に働いていると、この仕事を辞められなくなってしまう。こんな職場に長く居座るつもりはない。いずれ処分する紙切れなら、すぐに捨てた方が後腐れがない。
 ナギサは作業場へ歩み、古いオフィスチェアに腰を下ろすと、デスクの上に置いたままの報告書にブリーダーによるメディカルチェック完了の判を押した。ヤマベに頼まれた餌の発注書と併せて、まとめて事務所へ持っていこう。がたつく引き出しを開けて新規の発注書を探そうとした時、奥にしまっていた黒いスエードの収納ケースが目についたので机の上に取り出した。長さ二十センチの平らなケースが二つ。一つ目にはカントー及びジョウト地方のジムで付与されるバッジが合わせて七個並んでいた。もう一つのケースには、この地方のジムで獲得できるバッジが八個、蛍光灯の光を受けて誇らしげにナギサの顔を照らす。
「バトルもできない奴がブリーダーになれる訳ないじゃない。バッジ三個と一緒にしないでよ」
 ジムバッジの数こそがポケモントレーナーのアイデンティティだ。だから、自分はこの世においてそれなりに価値のある人間で、チャンピオンになれる素質を備えている。旅を辞めた今でもそう信じ、職場への不満を募らせるたびに王者への可能性が頭をよぎる。こんな仕事をしている場合じゃないのだけれど。ナギサはケースの蓋を閉じ、引き出しに戻した。

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