プロローグ

「すっげー。百点満点なんて初めて見た」
 軽率な称賛が筆記試験後の余韻をかき消した。
 アシヤは最高得点が記載されている受験票兼ポケモントレーナーライセンス申請書から顔を上げ、後ろに並ぶ受験者を睨むと、自分よりずっと若い十歳なりたての少年がだらしなく口を歪めて笑っていた。悪びれない態度にたちまち嫌悪感を抱く。いかにも頭の悪そうな男子小学生、といった風だ。
「おれなんてボーダーぎりぎりの七十点だし。でも、同じ試験合格者だけど」
 少年は自ら恥を掲げてケラケラと笑う。
 その受験票に記された筆記試験の結果は七十点で、隣にアシヤと同じ合格の判が押されていた。この地方でポケモントレーナーになるためには、十歳以上になってから免許センターに赴き、筆記試験で七十点以上を取ればいい。
 センター内の「写真撮影室」では駅の改札に似た三か所の窓口に、試験を通過しライセンス権利を得た人々がそれぞれ三十人ずつ、そわそわと受付を待っていた。間もなく始まるトレーナーカード用の写真撮影を終えれば、ここにいる全員は晴れてポケモントレーナーだ。
 明日から学校が長期休暇に入るためか、今日は十歳になったばかりと思しき少年少女が多い。大学生の頃、アルバイトをしていた学習塾のようだとアシヤは思った。その中で二十三歳の自分は浮いている。
「アシヤ……葦? いーなー、植物の名前が入ってて。にーちゃん、プロになれそう」
 後ろの少年は尚も遠慮なくアシヤの申請書を覗き込む。達筆な文字で記されたその名に目を輝かせ、また勝手にしゃべり始めた。
「ジムリーダーとか、四天王、チャンピオンみたいに葉っぱの名を取った人はプロになれる確率が高いって言うじゃん。でもおれの親は『オーくんフィーバー』に乗っかるのが嫌で、ふつーの名前をつけちゃったんだ。カツアキってさ。ひどくない? ワタルとか、ダイゴがよかったのに」
 子供に植物由来の名をつけることを「オーくんフィーバー」と呼ぶ。
 元々は数十年前に流行したポケモン研究の第一人者オーキド・ユキナリや今や伝説的存在の名トレーナー、キクコやヤナギ、ゲンジらにあやかった命名ブームが語源だが、その名を受け継いだ次世代以降のトレーナーにも成功例が多くみられるため、草木の名を授けるのが定番化した今もこの古臭い「オーくんフィーバー」という言葉だけが残り続けているのだ。
 アシヤの名も、親に言わせれば「しなやかに成長するように」との由来らしいが、つまるところオーくんフィーバーにあやかっている。
 いつかはチャンピオンに、との欲をもって植物から名を授ける。それなのに両親はトレーナーライセンスの取得すら今の今まで許してくれなかった。同級生が次々と旅に出る中、自分は一浪して地元の大学に入り、卒業まで待たされた。
「たまたまだ。植物由来の人間なんて掃いて捨てるほどそこらじゅうにいて、成功したトレーナーはその中のほんの一握りだ」
 突き放すように吐き捨てると、その剣幕に驚いた少年がきゅっと身体を強張らせる。前に並んでいた十歳くらいの少女が気分が悪いとばかりにこちらを睨んだ。身体を向けた拍子に握りしめていた申請書の名前が見える。サクラコ。
「そんなのわかんねーじゃん。おれはカツアキだけど、絶対ポケモンマスターになってやるんだ。どんな冒険が待っているのか、楽しみ!」
 少年が威勢よく振りかざす、根拠のない自信がアシヤには目障りだった。
 夢ばかり見て計画性もなく旅に出る子供は二年の修行期間のうちに結果が出せず、地元へ戻って来るのが関の山だ。この少年も学習塾でよく見かけた生徒のように、「あの時のバトル、どっちが勝ったか覚えてる?」なんて笑い合いながら話をする平々凡々な日常に身を落とすことになるだろう。
 猶予はたったの二年。
 がむしゃらに消化しては彼らと同じ道をたどることになる。この写真撮影を待つ一分一秒だって無駄にはしたくないのに。アシヤは歯噛みしながら申請書の端をぱち、ぱちと指で弾いた。退屈する後ろのカツアキ少年が、聞こえよがしに独り言を呟く。
「セブンスマンは何が貰えるんだろ。かっこいいポケモンがいいな」
 セブンスマン――アシヤの視線が申請書の下部へと滑る。
 申請書の一番下の枠内に、職員が記載する「警護ポケモン」の欄があった。この地方では旅に出る初心者トレーナーを護衛する目的で、リーグから一匹のポケモンを貸与する仕組みが十年ほど前から導入されている。経験の浅いうちに凶暴な野生ポケモンや強盗目的のトレーナーと遭遇した際に、警護ポケモンを使ってその場を凌ぐのだ。巷で広まった愛称が定着し、彼らは「セブンスマン」と呼ばれている。バスケットボールの有用な控え選手、シックスマンに由来するらしい。
 元々はタンバシティより南西部にあるこの地方が、ジョウト地方から独立したポケモンリーグ「サウスウエスタン・ポケモンリーグ」、略称「SPリーグ」を立ち上げた際にPR目的で始まったのだという。成果は年々上がっているらしく、窓口横にもそれを宣伝するポスターが貼られてあった。
 若葉トレーナーを守る、第七の手持ち「セブンスマン」を利用しましょう!――地元アイドルが頑強なハガネールと並んで笑顔でこちらに呼びかけていた。
 最初に七番目の手持ちを受け取るなど、アシヤには違和感しかない。これの手続きをするために、旅のリミットがまた五分ほど削られることになる。彼は奥歯を擦り合わせながら申請書を爪の先で何度も弾いた。旅に出る権利を得られる、十歳の頃にライセンスを取得していればセブンスマンが付与されることはなく、その時間は省かれたはずだ。
「あとは写真撮って、セブンスマンを貰って帰るだけ。出発前に一度、家に戻るから……大丈夫だよ母ちゃん、セブンスマンがいれば安全だし。何が当たるんだろ! 去年兄ちゃんが貰ったムーランドとかいいよな!」
 後ろのカツアキ少年の話し相手は気がつけばアシヤから電話に変わっていた。会話の内容と声の調子から、相手は母親だろう。
 セブンスマンがいれば旅も安心、安全!――別の広報ポスターもそう謳っていた。当時はそのポケモンが居なかったことでアシヤの同級生は旅先で五名が命を落とし、七名が障害が残る怪我を負って戻ってきたことを思い出す。そう考えれば、アシヤの旅立ちはいくらか恵まれているのかもしれない。
「それではこれから写真撮影を行います。トレーナーカードを受け取ってすぐ出発される方は、カード受取カウンター奥の受付で簡単な面談を行った後、必ず警護ポケモンを受け取っていただくようお願いします」
 その場にアナウンスが流れ、受付のシャッターが次々と開いて担当職員が顔を出す。待ちの間に緩みかけていた子供たちの顔が、皆一様にきゅっと引き締まった。
 ここから受付、写真撮影、トレーナーカードとセブンスマンの受け取りを経て凡庸なルーキーたちが誕生する。この瞬間から周りは皆、敵だ。アシヤの瞳の奥に赤黒い炎が灯る。直後に災害が襲い、自分以外が死んでも彼らを憐れむことはないだろう。
「すぐにフレンドリィショップへ行き、ボールを購入してポケモンを捕獲しなければ……」
 スマートフォンの地図アプリで店舗までの最短ルートを確認しながら受付の順番を待つ。前は三人。間もなくだ。時間は一秒たりとも無駄にはできない。
 ふいに、後ろから背中をつつかれた。あの少年だ。
「ねえ、セブンスマンを貰ったら見せ合いっこしようよ!」
「他のガキとやれ」
 前を向いたままきっぱりと拒絶した。反応が返ってくる前に受付に呼ばれたので、そちらへ急ぐ。
「次の方」
 カウンターに申請書を差し出すと、名前を確認した職員が撮影装置の前へアシヤを促した。次々にルーキーを出荷する流れ作業だ。彼は淡々とそれに従っているつもりだったが、カメラの上に貼られていた小さな鏡には余裕のなさと旅立ちへの興奮が隠しきれていない。角ばった輪郭に彫りの深い整った目鼻立ち。黒々とした両目はカメラの奥にある次の受付を見据えている。
 ぱちり、と短いシャッター音が耳を通り抜けた。トレーナーの門出を祝福する、唯一の拍手にも思えた。
「はい、撮影終了です。申請書を持って奥のカウンターでカードを受け取り、そのまま出発される際は警護……」
 担当職員が決まり文句を言い終える前に席を立ち、目と鼻の先にあるカウンターへと早足で急ぐ。アシヤの周りには同じように撮影を終えた子供たちがカードを手に入れるべく我先にと駆け出し、次々に職員から注意されていた。
 学校の廊下と同じだと思うなよ、ガキどもめ。アシヤは鼻を鳴らし、申請書を押し付けるように受付職員へ手渡した。それと交換で渡されたのは、プラスチック製のICカードである。先ほど撮影した顔写真の隣に名前とトレーナーIDが記載されていた。
「こちらがトレーナーカードになります。お間違いがないか確認の上、警護ポケモンをお受け取りの際はあちらへどうぞ」
 職員が示す先に三つに仕切られた受付が目に入ったので、アシヤはすぐにそちらへ急いだ。最後は簡易面談があるので、もたついていてはまた並ぶ羽目になってしまう。カードを貰った喜びを噛み締め、連れ立ってやってきた友人らと見せ合ったり記念撮影をする子供たちを押しのけるように先へ進み、列が出来る前に空いた受付へ飛び込んだ。

「ライセンス取得、おめでとうございます」
 若い女職員がアシヤを事務的に祝いながら、チェックシートを差し出そうとする。彼は先回りして事前に調べていたチェック項目を捲し立てた。
「無宗教、ポケモンアレルギーなし、前科なし、持病や服用中の薬なし……その他問題ありません。種類は何でも結構です」
 セブンスマンはトレーナーのプロフィールを考慮した上で選ばれるという。手早く記入したチェックシートを突き返された女職員は苦笑いしながら次の書類を差し出した。こちらは重要事項の説明が伴うため、彼女は口を挟ませぬよう力強い調子で文面を読み上げる。
「分かりました。警護ポケモンの貸与は四個目のジムバッジ取得までです。バッジ獲得後にリーグから連絡が入りますので、最寄りのポケモンセンターで手続きしてポケモンをご返却ください。三個以下でも二年の修業期間を過ぎて旅を終える際にはお戻しいただきます。いかなる理由でも警護ポケモンの返却に応じない場合は法により罰せられ、ライセンス剥奪の可能性もございます。同意書をご確認の上、サインをお願いします」
 強くなったらポケモンを返せばいいだけ。
 元々セブンスマンに頼る想定をしていないアシヤは迷いなく書類の下部にサインを書き入れた。この仕組みが発足する以前の世代だから、セブンスマンに一切の興味が湧かないのだ。それより重要なのは一番最初に捕獲するポケモン。この近辺に生息する野生種を調べ尽くし、ケンタロスが最適だと導き出した。
 視界の中にケンタロスがさっと飛び込んでくる。瞳孔が開いた。
「警護ポケモンの詳細はこちらのパンフレットをご確認ください」
 セブンスマンに関する冊子の表紙だった。勇ましいケンタロスはチープな装丁の中でひときわ浮いている。アシヤは苛立ちを露わにしながら次を急かした。
「分かりました。では、僕のセブンスマンをください」
 その印象的な顔は皺を寄せるだけで相手を脅かす。向いでデスクトップ端末を操作する職員が肩を震わせた。それでアシヤは慌て過ぎたことを省みる。
「早く旅に出たいので」
 急造したひきつり笑いで真意を押し付けると、職員も青い顔のまま苦笑する。キーボードの端を指の腹で何度も叩き、端末の応答を急かしているようだった。
「そうですよね。警護ポケモンは専用のボックスから無作為に選ばれる仕組みですので、少しお時間が……」
 その時、カウンターに置かれた平らな外部端末からボールが現れ、「あっ、出てきました」と職員の表情がぱっと明るくなった。青と黄色でカラーリングされた個性的なボールはセブンスマン専用のものだ。彼女は両手でボールを包み込むと、安堵の笑顔でアシヤの前に差し出した。
「はい、こちらになります。それでは安全で、良い旅路を」

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