第12話:#めざせチャンピオン

 市内のターミナル駅周辺はこの地方で最も栄えており、ここだけカントーの中心都市のひとつ、タマムシシティと遜色がない。トレンド最先端のカフェやダイニングがひしめき合い、行き交う人々も舞台に立った演者のように自信に満ちている。
 その中の一つのカフェで案内を待つナギサは明らかに他と浮いていた。襟がよれたボーダーのスウェットに着古したファストブランドのジーンズ姿はシンプルな装いだが安っぽさが拭えず、ナチュラルで開放的なアローラ風カフェには不釣り合いだ。
「私が同席しなくてもよくない?」
 ナギサは横へずれる気配がない順番待ちの椅子で不満を溢した。思わず腰を浮かすと、隣に座るケイコが引き止める。
「ダメ。ここは本職のブリーダーがポケモンを見極めてくれないと」
 ケイコは耳の下で結んだサイドテールを揺らしながら、いつもよりアイメイクの薄い目でこちらを睨んだ。季節を少し先取りしたふわふわの白いニットにグレーの膝丈タイトスカート姿はぼんやりして、いつもの自信に満ちた印象がない。それでナギサは余計に不安を覚えた。
「SNSでポケモン交換を募るなんて勇気あり過ぎだよ……」
 SNSで募集した見ず知らずのトレーナーとポケモン交換をするから、同席して相手ポケモンのスペックを見て――ケイコからその依頼がきたのは二週間前のことだ。
 インターネット上でそういったやり取りが行われていることは、SNSに縁のないナギサでも知っている。月に一度はニュース番組が事件として紹介するからだ。つい最近も、ネット上で持ちかけられたトレードにて、かわらずのいしを持たせたゴーストを出してからかった隠し撮りが大炎上、当事者は住所や勤務先まで晒されて村八分になったというニュースを見た。セブンブリッジでも時折この件が話題に上がっており、皆の意見は一致する。見知らぬトレーナーとの交換なんて信じられない――
 だが、ケイコは違うらしい。
「そーお? 皆、結構やってるよ」
 彼女はスマートフォンからSNSを立ち上げ、ナギサに画面を見せた。
 うちのサイドンのドリー♂と強いリザードン(性別問わず)を交換してくれる方を探しています! 賢くて体が丈夫な子希望。お気軽にスペック(両親含む)をリプしてください――タレントポケモンかと見紛うほど美しく加工されたサイドンの写真の隣に、そんな文字が添えられていた。末尾には「#ポケモン交換」「#サイドン」「#リザさま希望」「#イケメンポケモン部」「#ギャルトレ」「#めざせチャンピオン」などのハッシュタグがじゃらじゃらと繋がっている。これがどう作用するのかはナギサには分からない。
「これでなかなか良いポケモンが手に入るんだよねー。リーグ前に控えを充実させておこうと思って」
 のんびりした横顔に危機感は微塵もない。ナギサはあえて苦言を呈した。
「出会い目的の輩もいるんじゃないの? 何かあったらどうするの」
「優しい。心配してくれるの?」
 すっきりと口角を上げるケイコはあまりにも美しく、思わず息を呑んだ。彼女はあっけらかんと笑い飛ばす。
「その時はポケモンで返り討ちにすればいいだけ。でもポケモンの質はすぐに分からないから、ナギサちゃんに見てもらいたいんだ。ブリーダーの友達がいて良かったー」
 また都合よく利用して。
 ナギサはむっとする顔を事前に渡されたメニューで隠した。そうしないと、満更ではないことがケイコにばれてしまう。彼女はナギサにつられるようにメニューを眺めながら、最初のページの写真を見せた。
「席についたら何食べる? ここはマラサダが名物だよ」
「マラサダってクリーム入りの揚げドーナツでしょ? もたれるからいいや……グランブルマウンテンのホットとバニラアイスかな」
 するとケイコはあたしもそれにする、と同調してメニューを閉じた。
 メニューが決まると手持ち無沙汰になって話題に困る。次は何を話そうか、と考えているとスマートフォンを持った男が画面とケイコを見比べながらこちらへ近づいて来た。中肉中背の中年で、シャワーを浴びた直後に服を着たような慌ただしい清潔感を醸している。
「あのー、失礼ですがあなたが“つばき”ちゃん?」
 男はケイコを見つめながら、こっそりSNSの画面を彼女に向けた。
「そーでーす! そちらは“よっぴー”さん?」
 ケイコの声音がワントーン上がり、表情がぱっと華やいだ。仕事の顔だ、とナギサは身を縮める。
「そうそう。SNSでトレードを申し込んだ……予想通りの美人さんだなあ!」
 初対面ながら馴れ馴れしい態度と、ケイコを舐めるように眺める男にナギサは一目で嫌悪感を抱いた。ケイコが「ありがとう」と微笑み、こちらのスウェットを少し引っ張って自分の存在をアピールする。  
「あ、この子はあたしの友達です。ブリーダーだから来て貰っちゃった」
 ナギサは男の表情が一瞬歪んだのを見逃さなかった。理由は分かる。
「そうなんだー。これから遅めのランチでもどうかな、と思ったんだけど」
「ランチ? ここのカフェで待ち合わせてお茶飲みながら交換って約束したじゃないですかあ」
 ケイコが笑顔を張り付けたまま男の下心を排除しようとする。しかし彼は退かない。 
「そうだけどさあ、いざ来てみたらおじさんにはキツいなあ、こういう店。別の店に行こうよ。大人の行きつけを教えてあげるからさ」
 ケイコが目線をこちらに動かした。
 流れは相手に向いている。危なくなったらポケモンで対処すればいい――とはいえ、そこまでのリスクを冒してまでトレードに応じる必要はあるのだろうか。
「ここでさっさと交換しちゃえば?」
 そう提案すると、ケイコの後ろにいた男が眉間に皺を寄せる。獲物を逃がしたくないのか、分かりやすい態度だ。一応、自分はケイコの友人なのだから少しは取り繕えばいいのに。
「うん、それがいい。リザードンは忘れてませんよね、よっぴーさん?」
 ケイコが髪を揺らしながら振り向くと、男は素早く笑顔に切り替えて「うんうん、持って来たよお」とウエストポーチからモンスターボールを取り出した。手を伸ばす彼女に、お預けとばかりに男は大げさに腕を上げて後退する。
「でもさ、僕は急いでないしお腹ペコペコなんだけど。それにポケモンのこと、つばきちゃんと語り合いたいなあ」
 意地でもカフェの待機列からケイコを離したい男に、ナギサを始め他の客も白々しい目を向けている。それでも彼にはケイコしか見えていないのか必死の様相だ。
 呆れたナギサは椅子から立ち上がると、列から外れて右手を差し出した。
「私もこの後用事があるんで、ポケモンを確認したら帰るね。ヨッシーさんでしたっけ? リザードンを見せてください」
「えーっと、いや、別に、君も来ていいよ?」
 男はもごもごと口を動かしながら後退する。今更何を煮え切らないでいるのか。ナギサは睨みながらその提案を突っぱねた。
「結構です。初対面のおじさんと食事したくないんで。あなたもそうでしょ?」
 外見で態度を変えられるのは慣れているが、やはりここまで露骨では腹が立つ。明らかに狼狽する男に「見せて」と強めの口調で追い打ちをかけると、彼は手汗で濡れたモンスターボールを投げてよこした。表面を拭うように開閉スイッチを押すと、その場にリザードンが咆哮しながら現れる。遠巻きに見ていたカフェ待機列の客がひいっと悲鳴を上げたので、ケイコも仕方なく腰を上げて店の裏手に回ることにした。
 ナギサは移動しながらリザードンの外見を確認する。
 一見したところは並のトレーナーが育てたリザードン、といった風だ。
「ふーん。肌艶はまあまあかな……」
 ぽつりと感想を呟くと、男が居丈高に反発する。
「何様だ、お前。目上に偉そうに」
 人目がなくなったことで強く出たのだろう。しかしその言葉に説得力はない。
「ブリーダーですよ。セブンスマン専門の」
 ナギサはさらりと返し、リザードンを仰いだ。
「かえんほうしゃ、できる?」
「できる。当たり前だろ!」
 リザードンが反応する前に男が返す。
 ならば、と目配せしたがリザードンは口をもごもごと動かしながら行き交う人や電光看板をきょろきょろと見渡し、落ち着かない様子だ。集中力に欠ける姿はポケモンバトル向きとは言い難い。よくここまで進化させたものだ、と感心したナギサはあることを思いついて懐からスマートフォンを取り出した。
 調教に使用している動画サイトを立ち上げ、バシャーモがかえんほうしゃを放つ姿を掲げて見せる。実際の調教では同じ種の映像を見せるが、ここではあえて別のポケモンを選んだ。
「かえんほうしゃはこういう技。やってみて」
 するとリザードンは頷き、もぞもぞと身体を震わせながらバシャーモに姿を変えてかえんほうしゃを空に放った。誇らしげに胸を張るバシャーモを見て、ケイコの声音が二段階下がる。
「メタモンじゃん」
 冷ややかな指摘に男は狼狽え、弁解を練る余裕もなく、ナギサを詰る。
「ブスのくせに調子に乗りやがって」
 小学生みたいな罵倒にナギサは噴き出しそうになった。
 いい年して若い女に執着し、稚拙な罠を仕掛けた上にこれくらいしか言えないのか。呆れていると、傍にいたケイコが重々しい口調で男に食って掛かった。
「おい、おっさん。あたしを騙した上に、友達まで侮辱すんじゃねえ」
 そちらの反応に驚いた。右手にモンスターボールを握りしめ、奥歯を鳴らしながら男を睨むケイコはニドキングのような形相をしていて普段の可愛らしさは微塵もない。凄まれた相手もこれにたじろぎ、捨て台詞を吐いて逃げ去った。
「ヤレなきゃどうでもいいよ!」

 男の背中が小さくなるにつれてケイコの横顔もぼんやりと曖昧になっていく。彼女はナギサに振り向いて息を吐いた。
「……今日は失敗だわ」
 先ほどの威勢が消え去り、落ち込んでいるように見える。いつもは自信に溢れているのに、こんな彼女は珍しい。ナギサはしばらく言葉を探った後、元来た道を指さした。
「さっきのカフェで気分転換する?」
「また並ぶの怠いしなー」
 そう言いながらも、ケイコはだらだらとそちらへ歩き出した。通りの角を曲がったところで、開店したばかりのちょっと洒落た立ち飲み屋の男性店員が行く手を塞ぐ。
「お姉さん達、時間つぶしに一杯どう? うちの店の花になってよ」
 ケイコの表情がふわりと明るくなった。
 それは男に向けた笑顔だが、
「飲もう」
 と、こちらに微笑みかける眼差しは柔らかい。
 ナギサはほっとしたようにケイコの後を追う。店内は縦長のカウンターが設置されていて、奥には男性二人組の先客がジョッキを片手に談笑していたが、ケイコを見て視線が釘付けになった。
 外からよく見えるよう手前の席に通されると、おしぼりとメニューが前に置かれ、先ほどの男性店員がこっそりと囁く。
「お姉さん達、可愛いからお通しサービスするね」
 それには一応ナギサも含まれていたが、彼の視線はケイコだけに向いている。美人は得だ。呆れたように生ビールをジョッキで二人分注文した。入店の流れを終えると、ケイコが小さく息を吐いた。
「自分を利用すると時々あるんだよねえ。ああいうトラブル」
「美人も大変だね」
 その言葉に嫌味はない。自分にはない武器を褒めたつもりだった。
 すぐに中ジョッキが運ばれてきた後、サービスのお通しも置かれた。小鉢に解凍したばかりの枝豆がたったの四個。ケイコはそれを潰すようにつまんで口へ運び、生ビールで流し込んだ。
「チャンピオンになって、ああいう男を全員、見返してやるんだから」
 ケイコがこちらに微笑んだ。
 目標に向かってひたむきな姿を前にすると、応援してる、と素直に言えなかった。
 最近、本職への意欲は前向きだ。やりがいを感じている。けれど、ナギサの根底に残るチャンピオンの夢は潰えていない。アシヤの反響を受け、この地方に求められていないことが分かっているとしても、チャンスが巡ってくることがあればやはり王座に腰を下ろしたい。身体に注がれるアルコールがその気持ちを少しだけ浮き上がらせる。
「強いトレーナーは格好いいからね」
 ナギサが遠まわしに言うと、ケイコはビールを飲み干しながら目を輝かせる。
「だよね。ニビに居た頃、四天王のカンナは憧れだった。古いセキスピではいつもカンナの手持ちを使ってチャンピオンを倒してた。その影響であたしの相棒はラプラスなんだ。カンナは美人で強くて、そして媚びない」
 ケイコは語勢を強めながら最後に残った枝豆を指で潰した。その横顔は先ほど男に凄んだ時と似ているが、脆さもあり、以前セブンブリッジに乗りこんで来たサクラコと重なってしまいそうな気もする。
「タニマチや男に頼らなくても、自分の実力だけで戦っているのは羨ましいわ。中途半端な実力しかない女は、心だけは売らないようにしながら男に寄り掛かって這い上がるしかなくて……」
 確証もなくチャンピオンを目指していたナギサだが、ケイコも似た部分があるのだろう。酒が口から本音を滑らせた。
「それでも、たまに落ち込むけどね」
 ケイコが自分と近い人間だと分かり、ナギサは少しだけ安心した。それで背中を押せるかと言えば別の話だが、自分がリーグに敗退したことで味わった屈辱を期待することもない。気持ちが整理できないまま酒で誤魔化していると、ケイコが飲み干したジョッキを目の前に置いて、こちらの顔を不満そうに覗き込んだ。
「こういう時は励まして欲しいんですけどー」
「あ、ご……ごめん」
 言葉に詰まりながら視線を逸らすと、ケイコはさっぱりと笑いながら注文した串焼きを一かじりする。
「なんてね。飲みに誘ってくれただけ有り難いし、リザードンに化けたメタモンを見抜いたのはさすがだったよ。そう言えば聞いてなかったけどさ、ナギサちゃんってどうしてこんな田舎でブリーダーしてんの?」

 ついに聞かれた。
 頭の中で、きいんと鋭い音がした。耳から耳へ電撃が駆け抜ける。
「それは……」
 ペースを上げて飲んでいたはずなのに、あっという間に喉が渇く。
 もう一度酒を入れると、迷う間もなく唇が動いた。
「SPリーグで負けたから」
 頭では嘘を言うつもりだったのに、口は事実を吐き出した。ケイコが目を丸くする。心臓がばくばくと高鳴り、身体が熱を帯びて今までケイコの前で抑えていたものを解放する。そう、これはきっと酒のせいだ。
「修業はそこでおしまい。生活のためにセブンスマンのブリーダーになっただけ。この体たらくじゃニビには戻れない」
 自棄になりながら言い放つと、ケイコはふうんと目を細めながら肩をすくめる。
「なるほど、だからあたしのことを応援できない訳ね。意外と性格悪っ。大人しいだけかよ」
 身体のあちこちがかっと熱くなる。ナギサはすかさず反発した。
「あんたにだけは言われたくない」
 予想もしない反応だったのか、ケイコは吃驚した顔で硬直する。
 だが、これはアルコールが悪いのだ。きっと自分は酔っている。だから、腹立ちまぎれに鬱憤をぶちまけた。
「小学生の時から男子の盾にされてきたこと、まだ根に持ってるから。男子に言い返していたのはあんたを守るためでもなんでもないよ。それなのに奴らは調子に乗ってエスカレートするし、あんたは何もしない。普通に嫌だった」
「はあ? だったらそう言ってくれればいいじゃん! そしたら一緒に反撃したのに。あたしはナギサがかばってくれたことがすごく嬉しかったんだからね」
 目を見開いて詰め寄る姿に他意は感じられない。今度はナギサが口を噤んだ。
 そこは素直に頼ってくれていたなんて。
「そ、そうなんだ……」
 ナギサは自分を恥じた。すると急に冷静になり、バリヤーが切れたポケモン同様、店員や奥の客が向ける冷ややかな視線が突き刺さる。逃げるようにジョッキを握ると、思い直したケイコが白い歯を見せた。
「でもあたしもナギサに頼り過ぎてたな。そこは謝るよ。ごめん」
 すぐに彼女は目を寄せながらしっかりと付け加えた。
「でも不満があるならはっきり言ってほしい。そっちの方が気が楽」
 そう言われても――ナギサは一瞬遠慮したが、既に肩の力は抜けて今はケイコに気後れすることもない。意を決して、溜めこんでいた不満を吐き出す。
「じゃあさ、もうお洒落な店には行きたくないんだけど。落ち着かないし、店に相応しい服も持ってない。そのために買いに行くつもりもないから」
 これだけ言えれば満足だ。すっきりとしたナギサの顔を見て、「次はあんたが店選んでよ」とケイコも笑う。彼女も女子の固定観念にとらわれた客を相手する店は苦手らしい。なんとなく和解して、いくつかの料理をつまんだ後に、ケイコがまたリーグのことを尋ねた。
「ところで、リーグはどこで負けたの?」
「三人目のヤエガシ……データはあげないよ。自分で調べて」
 今度はよどみなく答えられた。つれない態度にケイコが呆れる。
「リーグへ導くセブンスマンのブリーダーがそれ言うのー?」
「ポケモンをリーグに預けるたびに思うよ。早くトレーナーと一緒に戻って来いって。仕事と本音は別。ケイコちゃんもそうでしょ」
 まあね。と、ケイコは歯を見せながら口角を持ち上げた。セブンスマンに望むのはトレーナーの警護のみ。ポケモンリーグ側は鍛え抜いた護衛と手持ちメンバーが互いに高め合いながらリーグ挑戦へのモチベーションを上げることも期待しているらしいが、個人的にはもっての外だ。干渉するなと怒鳴りたい。
「チャンスがあればまたリーグに挑戦したいの?」
 ケイコが突きつけるように尋ねた。
「分からない」
 うん、と素直に答えたかった。
「つい最近までそう思ってたけど。今はそうでもない。アシヤを見たからかな。この地方で求められているのはああいうチャンピオンなのかもね」
 勿論、素直には祝福できないが。するとケイコが声を荒げる。
「ばっかじゃないの。関係ないし。それなら最初から地元民限定でリーグを開催しろって話でしょ」
 これからリーグに挑むカントー出身の彼女を前に、この愚痴は悪手だった。さすがに憤慨する彼女を前に、ナギサは慌てて話を逸らす。
「それとスポンサー集めが煩わしい。どこから手を付けていいのか……ケイコちゃんくらい容姿に恵まれていれば楽なんだろうけどさ」
「そんなの、今いる会社に頼めばいいじゃん。それを狙って所属してる訳じゃないんだ?」
 セブンブリッジは腰掛程度にしか考えていなかったが――それも手段としては有りだ。しかし、会社は少しの利益は出しているようだがとてもトレーナーを支援できるような規模ではない。スポンサーを依頼するなど図々しい。しかしケイコは大真面目に、はっきりとナギサの背中を押す。
「真面目に仕事していれば助けてくれるよ。まだ他のトレーナーを応援できないくらい悔しいんなら諦めんなよ。あんたは一度リーグで負けた分、データや場の空気を掴んでいるからあたしよりアドバンテージはあるじゃない」
 それをアドバンテージと呼ぶのなら、リーグの再戦率は今よりもっと高くてもいいはずだ。現実は皆、資金や時間との折り合いがつかずに諦めている。ケイコの励ましは絵空事で現実味がない。それでも腰のあたりが軽くなったのは何故だろう。ようやく誰かにリーグ挑戦を肯定してもらったからだろうか。しかし、その相手がこれからリーグに挑むケイコとは。
「あたしはあんたほど心が狭くないから応援するよ。ライバル、欲しかったんだよね」
 肩をすくめるケイコにナギサは思わず頬を緩ませた。
 二人でそれぞれ酒を飲み干した後、ケイコの手元に置いていたスマートフォンがメッセージを通知する。ホーム画面の通知ウィンドウを見て、彼女は「そろそろお勘定にしよっか」と顔を上げた。誰かに呼ばれたらしい。立ち飲み屋で長居しても仕方ないので、ナギサもカウンターから身を離す。空へ浮かび上がりそうなほど気分は軽やかだ。ナギサはふと思い立って、飲み台の半分と一緒にアドバイスを差し出した。
「リザードンなら郊外の竹藪とかを探してみなよ。持て余して捨てていくトレーナーが少なくないから」
「ありがと。やっぱり足で稼ぐのが一番だね。今度の休みに探してみる」
 勘定を払い終えたケイコが笑顔で店から出ていく。
 華奢な背中は逞しく、男に媚を売って成り上がる姿が惜しく思えた。そんなことをしなくても、彼女はカンナみたいに輝いている。ナギサはそれをそのまま伝えた。
「ケイコちゃんなら男に頼らなくても平気だよ。スポンサーも付くよ」
 ケイコがこちらを振り返る。ちょっと大げさな笑顔をしていた。
「そっか。そのうち、ね」
 それだけ言って、彼女とは店の前で別れた。数メートル先でタクシーを拾い、駅とは逆の方向へ行く姿を見送った後、ナギサは夜の営業に備えようとする街並みを歩き出した。雑踏の埃っぽい臭いに混じる串焼きの煙がまだ少し物足りない胃袋を刺激する。どこかで焼き鳥の詰め合わせを買って晩酌しようと決めた。


 
「この辺で降ります」
 暮れた空にそびえるタワーマンションが眼前に迫るのに気付いて、ケイコは少し早めに運転手に告げた。タクシーが道路脇へ停車した途端、彼女はシートの間に置かれたキャッシュトレイにお札を一枚乗せて外に出る。日に日に開発が進むこの一画は駅前とはまた異なる街並みで、ヤマブキシティの住宅街のように都会を気取っていた。
 特に一つ奥の通りにあるタワーマンションは市内でも屈指の高級住居だ。“彼”が言うには高層階の分譲価格は億越えで、賃貸エリアも家賃は月八十万ほど。ケイコは鏡で前髪を直した後、そこのエントランスへ入って上層階の部屋番号を入力し、インターフォンを鳴らした。
「ツバキです」
 カメラに向かって源氏名を告げながら、柔らかに微笑む。
「入って」
 スピーカーが短く答え、エントランスのドアが開いた。中の共有スペースは高級ホテルのロビーのような造りで、受付に居たコンシェルジュがケイコに会釈する。彼女はそれを無視してエレベーターに乗り込み、目的階のボタンを押した。空へ引っ張られるような重圧が肩にかかる中、壁に貼られた鏡で全身を確認した。そこにはとびきり可愛らしい無表情の娼婦が映っている。ニットの襟ぐりを引っ張って肌露出を増やし、前髪を整えて外に出る。突き当りの部屋のインターフォンを鳴らすとしばらく待ってドアから色黒の青年が顔を出した。紺色の夜空に溶け込む肌に鋭い瞳が星のように輝いている。
「こんなに早く来てくれるとはね」
 青年がケイコにお利口さん、と言いたげな眼差しを向けた。
「だってアシヤくんのお願いだもん」
 ケイコは彼が求める笑顔を甘ったるい声と共に返した。
「君が一番、献身的だ」
 名を呼ばれた青年、アシヤはポケモンと触れ合うような手つきでケイコの頭を撫でまわすと、そのまま肩を抱いて部屋の中へ招き入れた。

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