第13話:ザングースは育てない

「それじゃ、捕獲に行ってきますんで」
 ヤマベは最小限の荷物を詰めたアウトドアベストを着て席を立ち、奥で書類をまとめる社長にいつものように予定を告げた。
 毎月第二、第四の木曜に決まって言う台詞だ。リーグへ出向するセブンスマンの欠員を補うため、この日に捕獲作業を行うのはヤマベのルーティンだった。いつものように予定を告げていつものように捕獲用のポケモンを連れていく。青と黄色で配色された、標識みたいなセブンスマン用ボールをひとつポケットに入れ、反対側に自分の手持ちのボールを二個。すると、ミシマが腰を浮かせてこちらに尋ねた。
「ヤマベさん」
 次に何を聞かれるのかは分かっている。先延ばしにしているあの件だ。ヤマベはポケットに入れたセブスマン用のボールを握りしめ、またはぐらかそうと社長を振り返る。
「今日はリーグでふーすけの引き取り候補の方との面談もあるんですよ」
 社長が釘を刺すように言った。
「やっぱり、いつかは人の手に渡る必要があるんですよ。これ以上は引き延ばせません」
「今日中に判断します」
 結果がどうであれ、いつものルーティンが今日で終わる。ヤマベは深呼吸して事務所を出た。

+++

 はがねポケモンを殴る時、ナギサは少し前に言われたヤマベの言葉を思い出す。
 おれはノーマルタイプしか育てない訳ではない――大口叩いておいて何だ。あれから結局、育てているのはノーマルばかりだ。自分はそれ以外を捕獲し、育成の最終テストではがねタイプをぶん殴って拳を痛めねばならないというのに。
「はい、合格です」
 ポカン、と殴った後に技を忘れず『はがねのつばさ』を繰り出したエアームドに対し、ミシマが合格を出した。
「おめでとう。君はセブンスマンになりました。これから新人トレーナーの警護をよろしく頼むよ」
 エアームドは興奮を抑えながらツンと顔を上向けた。それでも尻尾だけは嬉しそうに跳ねているが、この程度は仕方がない。まずは窃盗率が低い十歳の子供とマッチさせるよう社長がリーグと調整し、経験を積ませるつもりだという。ナギサは擦り剥けた甲を消毒しながら、傍でエアームドを見送るハッサムに視線を向けた。後から入った彼はまだ「忘れない技」をマスターしていない。しかし呑み込みが早いので、近々送り出すことが出来るだろう。
「子分に先越されたな。どっかのザングースみたいにはならないでね」
 ナギサは西側の牧草地を見た。守り番のふーすけは不在だ。
 社長が上着を羽織りながらその理由を説明する。
「ヤマベさんはいつも通り捕獲に出ています。僕もこれからリーグへ行くから、お留守番よろしくね、ナギサさん」
「分かりました」
 今日はパートのサチエが休みだ。休むための理由を告げる必要はないのに、わざわざ学校の三者面談があると説明していた。彼女が居ないことで久しぶりに静かな昼食を満喫できるため、コンビニでいつもより百円高い弁当を買って出勤した。サチエがいるとやれ女の癖にコンビニ飯はよくないから自炊しろだの、早く結婚しろだのお節介が煩い。それが終われば知りたくもない噂話ばかりが続く。

「今日は静かで快適だ」
 社長の車が出発する音を聞いた後、 ナギサは事務所にある応接スペースのテーブルにお湯を入れたカップみそ汁とレンジで温めたコンビニ弁当を並べ、向かいのソファにモコを呼び出した。狭く静かな室内では巨大蜂の羽音もよく響くが、サチエに比べればずっとましだ。モコの前に餌を置いて、「いただきます」と手を合わせた。
「次こそザングースを捕獲しようと思うんだよね」
 生温い幕の内弁当を食べながら、ナギサはモコに尋ねる。ほとんど本気で言ったのに、モコは口を動かしながらに首を傾げた。いいんじゃない、と生返事で話を流しているように見えた。
「そいつを捕まえてふーすけより早くリーグに送り出せば、ヤマベさんのお節介もなくなる」
 そしてノーマル専門の元ジムリーダーに勝てる――トレーナー時代の闘争心が芽を出した。ザングースはヤマベの鼻を明かすためにかねてから捕獲しようと思っていたところだ。今度こそ捕まえて調教しよう。そうして実績を重ねていけばいつかスポンサーも見つかるかもしれない。リーグへの挑戦を諦めるな、と背中を押してくれたケイコの言葉を思い出す。
 その時、事務所の出入り口がノックもなく開き、獣臭い放牧地の空気が入り込んできた。
 びっくりしたナギサは箸を放り投げてそちらを振り返り、モコが天井高く飛び上がる。出入り口からずかずかと入って来たのは壮年の男だ。
「邪魔するよ。車がひとつもないけど、皆出払っているのかい?」
 半分白髪のがっしりした身体つきには見覚えがある。「あなたは……」と、名前を出しかけたナギサを男が遮った。
「お、君かあ! 怪我、治ったのか。心配したんだよ、竹やぶに血まみれで倒れててさあ」
「そ、その節はありがとうございました、ヤシキ会長……」
 慌てて頭を下げる。その勢いと緊張で、胃に入れたおかずが逆流しそうだった。
 彼はミシマの父でこの会社の会長であるヤシキだ。普段はジョウト地方のアサギシティで貿易会社を営んでおり、ここにやってくることは少ない。会長とはこれまで挨拶程度の面識しかなかったナギサだが、先日大きな接点が出来た。ストライクに襲われて倒れていたナギサを会長が助けてくれたのである。
「お茶、淹れますね。どうぞ座ってください」
 ナギサは食べかけの弁当を片付けようと立ち上がったが、すかさず会長に阻まれた。
「お昼だった? すまんね、皆居ないならすぐ帰るから茶なんて構わないよ。弁当食っててよ。それと、これは皆で食べてくれ」
 会長は煎餅が入った紙袋をテーブルの隅に置いた。よく社内で配られている銘柄だ。ナギサは弁当を持ったままぼそぼそと礼を言って、立ちっぱなしの会長と向かい合うように反対側のソファに腰を下ろした。傍にいたモコをボールに戻し、社長の行先を教える。
「あの、社長はリーグへ行って夕方まで戻りません」
「ああ、せがれはいいんだよ。ちゃんとやってるのは分かるから、ついでに見に来る感じ。ここに来る目的はね、ヤマさん」
 ぴかぴかの白い歯を見せる会長の笑顔にヤマベとの仲の良さが窺える。
「ヤマベさんは第二、第四の木曜の午後はポケモンの捕獲に出ていて居ないんですよ。夕方までには戻ると思うんですけど……」
「なるほど、リーグへ出した分を捕まえるのか」
 会長は年は取っているがまだ現役ということもあり、頭の回転が速い。すぐに事情を理解し、そして外の変化に気付いた。
「ってことはだ。ついにあのザングースが復帰したのか? 外に居なかったよな」
 あまり嬉しそうに尋ねるので、ナギサは少しだけ訂正に躊躇した。
「いえ、あいつは捕獲の付き添いです。手持ちではないようですけど……」
 会長の表情がたちまち曇る。
 自分は何も悪くないのに気まずくなった。
「ふーん、まだ諦めてないんだなあ。あいつがリーグから戻ってきて十年は経っているだろう」
「私はその時、会社に居なかったので……あのザングースはそんなに居座っているんですね」
 ナギサは硬くなりかけたご飯をかきこんだ。
 ふーすけがセブンスマンとして出向し、戻って十年も飼い殺しされていたことは初耳だ。話のタネにしたがっていたサチエが聞いて喜ぶだろう。わざわざ話すこともないのだが。
「あのザングースはヤマさんが最初にリーグに出した警護ポケモンのうちのひとつなのさ。あの時、警護向けのノーマルポケモンを三十匹も揃えた時はさすがジムリーダーだと感動したね。ベテランのブリーダーだって、十匹用意するのが限界なんだと」
 その苦労はよく知っている。ナギサは白飯の上に乗っていた小梅を奥歯で噛み締めた。
「ま、そうですね……調教が大変だし」
「そうだろう。だが、あのザングースだけはすぐに戻ってきた。出向して半年くらいだったかな」
「早いですね。それって……」
 二年猶予のある旅をたったの半年で切り上げる理由は限られている。多くはトレーナー本人か親族のトラブルが原因となるが――
「ザングースがトレーナーを守れなかったんだよ」
 会長が言った理由はナギサの予想とは違っていた。

+++

 遠くに浮かぶ空の下、竹林がさらさらと風に揺れる音がする。
 周囲にはそれだけが響いていた。
 ヤマベは落ち葉で埋もれた地面の上にしゃがみ込みながら、周囲の茂みを注意深く伺った。傍につくザングースのふーすけも、ゆっくり周りを見渡しながら外敵の襲来に備えている。落ち着き払う姿にヤマベはひとまず安心した。最後までこの態度でいられたらテストは合格だ。ふーすけはセブンスマンに返り咲ける。
「その調子だ。門番で現役を終えたくないだろう」
 ヤマベがふーすけに囁くと、かれはこちらを一瞥して、また周囲を窺うことにした。
 もう十年以上の付き合いだが、その横顔は何を望んでいるのかさっぱり分からない。けれども、ふーすけもセブンスマンに復帰できることを願っているはずだ。闘争心溢れるポケモンがいつまでも牧場で燻り続けることを由とする訳がない。
「奴を克服して再来週の木曜にリーグへ行くぞ」
 そうすればかつての失敗を乗り越えられる。
 ヤマベはベストのポケットからまだら模様のポロックを取り出し、少し離れた所へ撒いていった。ポロックはブレンドを重ねた特製で、ふーすけの血と体毛も混ざっている。放たれる臭いは強く、ここまで来る間もそれに惹かれた野生のポケモンが飛び出してきたほどだ。これだけやればターゲットは確実に飛びつく。
 穏やかな風が竹林を吹き抜けてく。
 頭の上で木々がざわめき、足元の茂みも不穏に動いた。ふーすけが全身の毛を逆立てながらポロックを撒いた方を向く。
 来た。
 ヤマベは高ぶる興奮を抑えながら顔を上げた。
 目の前の草木が激しく揺れて、五匹のハブネークの群れが現れた。ターゲットのお出ましだ――ヤマベは乾いた唇を舐める。横を向くと、ふーすけは目の色が変わり、がちがちと歯を鳴らしながら湯気を吐いていた。先ほどの冷静さは失われていた。

+++

「ザングースはハブネークを前にすると後先考えずに戦い始める性質があるだろう。あれが警護でも出てしまってね。最初はリングマとの戦いで負傷したトレーナーを守るためにボールから出てきたらしいんだが、そいつを倒した後にハブネークの群れと鉢合わせたらしい。警護を放棄して戦いを始めてしまったんだと」
 ヤシキ会長はがっかりした表情で息を吐いた。
 ザングースはハブネークとの因縁が体の細胞にまで刻み込まれていると言われるほど仲が悪い。ヤマベはそれを取り払えないままふーすけをリーグへ出してしまい、そして現在まで克服できていないのだろう。
「でも、リーグへ出す前にテストしたんですよね? ヤマベさんがその性質を見落とすとは思えない」
「そりゃもう、念入りに確認したさ。フィールドテストで何度もハブネークと戦わせ、ザングースは終始冷静だった。さすがジムリーダーだと称賛されていた……が、群れとの遭遇は再現が難しく、そこを見落としていたんだよな」
 慢心があだになったのか。
 かつてクロバットのはぐろをセブンスマンに仕立て上げる際に、ヤマベにひどく怒られたことを思い出した。なつき進化ポケモンは人間に対して特別情が湧きやすく、それは訓練でどうにかなるものではない――あれはこの経験に基づく言動だろうか。
「それで、警護していたトレーナーはどうなったんですか?」
「木の幹の間にうずくまっている所を、通りかかった他のトレーナーに救助されたそうだ。リングマに切られた傷は深く、全治一か月。我々は何度も見舞いに行ったが、家族によって面会は拒絶された。リーグと折半で慰謝料を払って和解したが、一度も謝罪は出来ないまま。そしてヤマさんはザングースを諦めきれず、何年もテストを繰り返している」
 苦しげに語るヤシキをよそに、ナギサは軽蔑と親近感を覚えた。
「どんなノーマルポケモンでもセブンスマンにしたいんだろうな。元ジムリーダーのプライドかね」
 会長の推測に小さく頷く。
 それはリーダー時代に購入したというぼろのセルシオに乗り続け、来客に過去を自慢する姿からも納得できる。
「私はね、ヤマさんがアサギのジムリーダーになった時に彼の後援会を立ち上げた支援者なんだよ。二人ともこの地方の出だからね、ついに同郷のリーダーが現れたことが嬉しかったなあ……だが、ジムリーダーは続けるのが難しい。チョウジジムのヤナギさんほどの人間なんて早々いるもんじゃない。ヤマさんと私の夢は三年で終わっちまって、ブリーダー業を斡旋したのがこの会社の始まりだ。でも、あの人はまだどこかでジムを諦めきれない部分があるんだろうな」
 ヤシキ会長はヤマベのことをあまり人に話してこなかったのだろう、その後も旧知の関係について語り始めた。馬主をしていた牧場が廃業したのでそれを買い取り、放浪息子を社長にしてジムリーダーを引退したヤマベのためにこの会社を立ち上げたとか、最初は合わせて三十五匹のセブンスマンをリーグに送り出したとか、ちなみに馬主時代に一番早かった馬は自分の名を冠したヤシキフレイムだとか――この辺りでナギサは会長の話にすっかり興味を失っていた。適当に相槌を打ちながら弁当の残りを平らげ、ヤマベについて想いを馳せる。
 あの人は過去の失敗を乗り越えられるだろうか。もし、今回も駄目だったら?
 
+++
 
「ジムリーダー辞めて、これからどうすんだい」
 白木の一枚板を使ったカウンターに並んで座っていたヤシキさんがこちらに尋ねる。こうしてアサギで上等なお茶を飲むのも今夜で終わりだ。飲めない酒の代わりに振る舞われたほうじ茶の味を忘れないように噛み締めながら、進路を答えた。
「故郷(くに)に帰って、トラックにでも乗ろうかなって。受験を控えた子供が二人いるんでね」
 ジムリーダー時代はそれなりの報酬を貰っていたが、このさき働かずに家族を養えるほどの蓄えはない。けれども、今更どんな仕事が出来るだろう。若い頃から現在まで、ポケモンバトルだけで食ってきた。それを知るヤシキさんが反対する。
「ポケモンバトルの腕は抜群なのに、ハンドル握るだけか? 勿体無いよ」
 その眼差しが直視できず、苦笑しながら嘘を言った。
「もうバトルは懲りました」
 できることならこの世界に残りたい。
 ジムリーダーというカントー・ジョウト合わせてたった十六しかない枠をかけた争いは想像以上の熾烈を極めた。プレッシャーにさらされる毎日で、嘔吐や血尿が止まらない日もあった。嫁や子供には迷惑をかけたことだろう。だが、解雇された今は解放感はない。後任のリーダーに蹴り落とされた屈辱がまだ消えない。気を紛らわせようと刺身を口にする横でヤシキさんが尋ねた。
「それなら育てる方はどうだ? いい仕事があるよ」
 それをきっかけに、自分はセブンスマンのブリーダーになった。
 ヤシキさんやミシマ社長が気を遣ってくれたこともあり、自分はノーマルポケモンしか調教してこなかった。ノーマルタイプの扱いならば他のどんなトレーナーにも負けない。どんなノーマルポケモンもセブンスマンに仕立て上げることができる――そんな慢心があった。

「ザングースとハブネークを鉢合わせれば暴走することくらい、三歳児でも知ってるわよ! それをどうしてブリーダーが見過ごすのか……!」
 病室の前でコーヒーの缶をこちらに投げつけ、掴みかかってきた被害者の母親の顔を今も覚えている。
 ふーすけが警護していたのは十歳になったばかりの女の子で、かなりの深手を負ったと聞いた。自分にも娘がいるから、あの母親の気持ちはよく分かる。本当に申し訳ないことをした。
 ザングースの性質を見過ごした訳ではない。元ノーマルタイプのジムリーダーである自分ならそれを取り除けると思い込んでいたのだ。実際、何度もハブネーク相手にテストをして、ポケモンリーグからのお墨付きをもらった。けれども群れになると例外で、それまで積み上げたものが粉々に崩れ落ちた。
「今回は大事だったけどさ、ヤマさんはブリーダーに向いてるよ。また一から頑張ってくれよ」
 励ましてくれたヤシキさんには悪いが、自分はバラバラに散ったプライドを捨てきれずに今も拾い集めている。元ジムリーダーの俺なら、ザングースだってセブンスマンにできるんだ。このままテストに通らないままふーすけが引退すれば、自分も二度目のジムリーダー解雇通知を突きつけられたと同じこと。だから、今日こそは――

「冷静にいけよ、“ふー”」
 ヤマベはふーすけと自分自身を落ち着かせるように長く息を吐いた。
 ふーすけは血走った目で五匹のハブネークを睨みながら、鉤爪を立てて威嚇する。
 ここまでは他のセブンスマンと同様だ。敵の群れに遭遇すると、まずは凄みながらトレーナーを引き離す。ハブネークはその特性上、ザングースの威嚇をものともしないが、あれから何年も訓練してようやく相手を怯ませることができた。出戻りからすぐの群れバトルでは見境なく喧嘩を始めて絶望したものだ。
 ハブネークと距離を取る間に、気持ちを切り替えた先頭の三匹が襲い掛かる。ふーすけは落ち葉の積もる地面を蹴って、先頭のハブネークに応戦した。その技、『でんこうせっか』は必ず先手を取れるのでヤマベはほぼ全てのセブンスマンに習得させていた。体当たりしながら相手を斬りつけ、身を捻りながら近くに居た二匹を『きりさく』。
 そこへ四匹目の、無傷のハブネークが口を大きく広げて飛びかかってきた。ふーすけは爪で牙を払いながら脇腹へでんこうせっかを繰り出した。体当たりを受けたハブネークがぎゅん、と鳴きながら地面に倒れる。距離をとり、トレーナーを守りながら毒を受けぬように攻撃する――そわそわと浮足立っているが、ふーすけは充分に理性を保っている。ハブネークと遭遇してからここまで十五分。今までの最長記録だ。ヤマベの身体の奥から希望が湧き上がる。
「いいぞ、その調子だ」
 ハブネークはここまで攻撃しても退くことはなく、ダメージを負っても毒液を吐きながら飛びかかって来た。ふーすけに毒は効かない。額にかかる液体を気にせず、身を翻して体当たりを見事にかわし、相手を切り裂いて応戦。急所に当たったらしい。ハブネークはその場に崩れ落ちる。今日のふーすけは調子がいい。高まる興奮を抑えながら、ヤマベは早口でふーすけに尋ねた。
「毒に強く、強面で牽制力もある。お前ほどセブンスマン向きのノーマルポケモンはいない。このまま番犬で終わりたかないだろう?」
 ポケモンはこちらを見ない。ヤマベは自ら言い聞かせるように呟いた。
「俺は、終わりたくないからな」
 ふーすけの耳がぴくりと動いた。
 最初にでんこうせっかを受けたハブネークが身体を起こし、ふーすけに噛みつこうとする。ひらりとかわして爪で反撃し、倒れたハブネークの隙間から鋭い切っ先が矢のように飛んできて、ふーすけの右目を掠めた。不意打ちを食らわせたのは唯一無傷だった五匹目のハブネークだ。気絶した味方の身体を盾にしながら、バランスを崩したふーすけに襲い掛かる。刃のような尾でもう一度目の下を斬りつけると、ふーすけはひどく痙攣しながら竹林に響き渡る咆哮を上げた。
 まずい――ヤマベは息を呑んだ。
 押さえ込んでいた因縁のスイッチが入った。ヤマベは咄嗟に出しかけたボールをポケットに戻す。
 この状態で切り抜けられなければ引退するしかない。ふーすけは唾を飛ばして滅茶苦茶に腕を振り回し、ヤマベを後ろに突き飛ばしながら地面ごと削るような『きりさく』を繰り出した。フルスイングの攻撃で一匹のハブネークが崩れ落ち、残り三匹を竹林の奥へ追い立てるように追撃を仕掛けた。
 もう、ふーすけはこちらを見ていない。
「やっぱり、駄目か」
 落ち葉の上に座り込み、遠のいていく戦地を前にヤマベは溜め息を吐いた。
 もう何年もこの状態だ。戦いが佳境になるとトレーナーを放置してハブネークに熱中する。ポケットからボールを取出し、腰を上げる。その時、手の甲に鋭い痛みが走ってふーすけのボールが遠くへ転がった。
「った……」
 木に引っかけたか。一瞬だけ疑ったヤマベの前にその答えが現れる。落ち葉まみれになりながらよろよろと身を起こし、傷だらけのハブネークが憎々しい眼差しをこちらに向けていた。
 ふーすけのやつ、暴走ばかりか仕留め損ねていたか――ヤマベは呆れたようにベストのポケットからボールを探る。長年の手持ちであるガルーラとケッキングをもってすれば野生のハブネークなど容易く対応できる。
 ところが、思いのほかハブネークの動きが速かった。ポケットに入れた手を目掛けて尾を振るい、ざっくりと切り裂いてボールを遠くに弾き飛ばした。右手を更なる激痛が襲い、急に身体が重くなった。
「あ……」
 これはきっと毒だ。
 身動きできずに崩れ落ちる。遠くで戦っているふーすけと目が合った。周りが見えないほど興奮しているはずなのに、倒れたヤマベを見てひどく動揺している。こちらに駆け寄ろうとして、その度にハブネークに阻まれる。
「お前……」
 暴走しているように見えて、案外、自我は残っているのではないか。
 だが、それでもコントロールしきれないから、せめてトレーナーを引き離して戦っているのではないか。ヤマベは初めて、ふーすけが持って生まれた素質とセブンスマンとの調教で葛藤する様を見た。
 隙を見せたふーすけの右肩に余力の残る別のハブネークが噛みつき、押し倒す。積もった落ち葉が舞い上がり、そこへ次のハブネークも襲い掛かる。ふーすけの白い身体にかかる赤い模様がみるみる広がり、抵抗する動きが鈍り始めた。
 次々と噛みつかれるふーすけを前に、ヤマベは落ち葉を握りしめることしかできない。感情を表に出さないことを良い事に、元ジムリーダーのプライドを優先し続けたツケだ。そんな彼を、残ったハブネークがじろりと見下ろす。
 無理強いさせた代償は大きい。絶望がよぎった時、耳鳴りを誘う風が吹いて傍にいたハブネークが吹き飛んだ。昔からヤマベは念力で頭痛を引き起こす。サイコキネシスが放たれたのだとすぐ理解した。
「今回も駄目でしたか。残念ですね」
 落ち葉を踏みしめ、エーフィを引きつれたナギサが現れる。彼女はヤマベの前に即効性の解毒剤を置くと、エーフィのイオスにもう一度サイコキネシスの指示を出した。念の波動がハブネークの群れをふーすけごと蹴散らし、まとめて戦闘不能にする。
「生きてるか」
 ヤマベはよろよろと立ちあがりながらふーすけの容体を尋ねる。ナギサがそちらに歩むと、血まみれのふーすけは大の字になったまま肩で息をしていた。
「そうですね、瀕死ですけど息はあります」
 ナギサはウエストポーチからスプレー式の傷薬を取出し、塗装を施すように念入りに薬液を噴射した。ポケモンはこの程度の傷なら簡単に治癒するから楽なものだ。だからポケモンバトルが流行るのだろう。傷薬を吹きかけつつ、周りに倒れたハブネークを一瞥する。今なら捕獲のチャンスだが――
「やめとけ。ザングースにセブンスマンの適正はない。逆も然りだ」
 ナギサの狙いを読んだヤマベに止められた。
 あなたとは違う。私ならやってみせる、と返すつもりだったのに、
「もうザングースを育てるのは辞めだ」
 ヤマベにきっぱり言われると、対になるハブネークを捕まえる気にはなれなかった。

+++

 翌日、ヤマベが社長にふーすけを引退させる旨を報告した。
 ミシマ社長は合意し、リーグに連絡すると、手続きが進んで次の日には内定していたトレーナーに引き取られることになった。
 それをナギサが知ったのは当日の朝のことだ。厩舎の掃除を終えて事務所で伝票を書いていると、後から出勤したサチエに聞かされた。
「随分と早い流れですね。ふーすけを貰いたい人なんているんだ」
 警護歴は一度のみ、それも失敗に終わって出戻り十数年――これでは普通、貰い手が付かない。ヤマベが引き取ると思っていたが違うようだ。サチエも同様に疑っている。
「ずっと前から引き取りを希望していたんですって。あの子の経歴を考えると珍しいわよね。もしかして警護したトレーナーの身内で、恨みを晴らそうとしているんじゃないかしら……?」
「そうならないように、審査と面談を重ねるそうですよ」
 とりあえずセブンスマンなら何でも引き取りたい、という人間も弾かれるのでふーすけを欲しがっているトレーナーには興味が湧いた。
「ヤマさんもどんなトレーナーが来るのか、聞いてないらしいのよね。興味ないらしくて」
 それは嘘だ。
 ヤマベは先ほどからずっと、ふーすけと放牧地の小石を集める無駄な作業ばかり繰り返している。きっと社長が迎えに行ったトレーナーが現れるのを待っているのだろう。あえて社長にトレーナーの詳細を聞かなかった理由は分からない。
 ナギサがいくつかの伝票を書き終えると、牧場の入り口の方から社長の車が砂利敷きの駐車場に入ってくる音がした。彼はハイブリット車に乗っているので、この音がしてようやく戻ってきたことが分かる。
「来たわよ」
 サチエが素早く席を立ち、事務所の出入り口を開ける。牧草地での作業を切り上げたヤマベが柵を乗り越え、通路に降り立つのが見えた。続いて、新たな来訪者の微かな臭いをかぎ取ったふーすけが柵越しに駆けていく。
 番犬もこれで見納めか。感慨に浸るナギサが見守る中、ふーすけは柵の前で立ち止まり、やってきた客を見て目を丸くした。この反応は――
「いちごちゃん!」
 ふーすけが吼える前に、来客が柵越しに抱きついた。
 黒い長袖のゆったりしたブラウスにデニムの長いタイトスカートを着た、ナギサと年が近そうな若い女性だった。ゆったりとして可愛らしい印象だが、ふーすけに臆することなく何度も腹を撫でている。
「ずっと会いたかったよ、いちごちゃん! ちょっと筋肉質になったのかな、お腹が硬くなったねえ!」
 不思議な光景を前に固まるナギサとヤマベの前に社長がやって来て、彼女を紹介した。 
「彼女が引き取り手のユズキさんです。“ザングース”が最初に警護したトレーナーさんなんですよ」
 だからふーすけが吼えないのか――ナギサは隣に立つヤマベの動揺を感じ取った。
「ずっとお会いしたかったんですけど、家族に止められていて今日までここへ来ることが出来ませんでした。お礼も言えずに申し訳ありません」
 ユズキが前に出て深く頭を下げる。
 狼狽えるヤマベの前に彼女はすっと顔を上げて微笑んだ。
「私を守ってくれたいちごちゃんを引き取りたくて、ポケモンの勉強とトレーニングを重ね、家族を説得してきました。ザングースはハブネークと対峙するとどうしても暴走してしまいます。だから、その時は他のポケモンでカバーできるようにしっかり鍛えました。あの時、暴走しながらもハブネークの群れから私を引き離し、必死に守ってくれたいちごちゃんには感謝しきれません。だから、今度は私が責任を持ってお世話します」
 警護したトレーナーにこれだけ感謝されれば「成功」だ。
 その笑顔を見て、状況を飲み込めきれていなかったヤマベの表情がすっきりと晴れ上がる。ブリーダーの苦労が報われたことで、ふーすけへの執着が消える瞬間をナギサは見た。
 頃合を見計らってサチエが一つの疑問を尋ねる。
「ところで……なんで、“いちごちゃん”なの? その子は……」
 雄よ、と言う前にヤマベに小突かれた。ユズキは胸を張って答える。
「いちご大福に似ているからですよ!」
 どこが……? その一瞬だけ、社員は同じ顔をした。
「かっこよくて可愛くて、こんなに素敵なポケモンに警護してもらえるなんて嬉しくて仕方がなかったです。トレーナーカードを受け取った日から、いちごちゃんと呼んでいました」
「可愛い名前ですね。ザングースにぴったりだ」
 ミシマ社長がにこやかに頷いた。
 柵越しにふーすけを撫で続けるユズキの前に、ヤマベが歩み寄る。
「よく御存じだとは思いますが、こいつはハブネークに気を付けさえすれば優秀なポケモンです。あなたの元でなら幸せに暮らせるでしょう。どうか、ザングースをよろしくお願いします」
 そう言って、深く頭を下げた。
「はい!」
 ユズキも笑顔で頷く。
 このようにしてブリーダーは報われるのだろう。ナギサはまだセブンスマンを引退まで見届けたことがない。妙に羨ましくなり、警護したトレーナーからの感謝状を捨てたことを少しだけ後悔した。最近はずっと揺れてばかりだ。その間にも時間は流れ、周りの状況も移り変わる。
 
 それから引き渡しの書類を取りかわし、市販のモンスターボールにふーすけを移し替えたユズキは社長の車で去って行った。二つ隣の市に住んでいるらしく、たまに会いに来ると言っていた。
 ナギサは事務所の応接スペースでコンビニ弁当を食べながら、ポットのお湯をカップみそ汁に注ぐヤマベに話しかける。
「良さそうなトレーナーに引き取られてよかったですね、ふーすけ。ヤマベさんの手持ちになってここでずっと番犬するのかと思いました」
 彼は一瞬、眉間に皺を寄せたが、
「馬鹿言え。それとあいつは、いちごちゃん、だろ」
 と、言い捨てて自分の席へ戻っていく。
 ユズキが引き取らなければ間違いなく手持ちにしていただろう。それではうるさくてかなわない。ナギサはこっそりと彼女に感謝し、おかずのから揚げを口にした。
 つけっぱなしにしていたテレビが騒がしくなり、手製の弁当を食べ終えたサチエが腰を浮かせる。
「きゃっ、アシヤくんが出てるって! 今日は良いことづくめねえ」
 画面の向こうから万雷の拍手がして、ローカル局が制作している主婦向けのお昼の情報番組にそぐわない雰囲気の青年が現れる。
『番組始まって以来の大物ゲストに来ていただきました! SPリーグチャンピオンのアシヤさんです!』
 浅黒い肌の青年は口元を少し緩ませ、笑う素振りをした。ナギサも何度もやっている、あからさまな作り笑いだ。明らかに出演者や視聴者を小馬鹿にしているのに、メイン視聴者のサチエは携帯でテレビ画面を撮りながら溜め息を吐いていた。
「やっぱり恰好いいわあ。周りのおばさん連中もゾッコンなのよお」
 これだからアシヤも舐めてかかる訳か。ナギサは呆れ、弁当に集中した。
 本当はこいつの顔など目に入れたくない。事務所に自分一人ならとっくにテレビを消している。理由は単なる嫉妬だが、見たくないものは仕方がないのだ。
『さて、先ほど番組内で相棒ポケモンの特集がありました。相棒は離れられない大切な存在ですよね。アシヤさんの相棒はどんなポケモンでしょうか? よろしければ見せていただけると……』
 ナギサは弁当を食べ終わり、勢いよく立ち上がった。空のペットボトルと弁当の容器をゴミ箱に捨て、番組に夢中のサチエを横切って出入り口へ急ぐ。
『相棒くらいなら紹介してもいいかな。こいつは旅の初めから傍に居てくれた、僕の大事なパートナーです』
 アシヤがボールからポケモンを出す音が聞こえた。
 自席で弁当を広げていたヤマベが目を見張り、後ろをすり抜けようとしたナギサの腕を掴んだ。
「おい……」
 ナギサは一瞬顔をしかめたが、
『そうですね、クロバットまで進化できるなんて信頼関係が窺えますね』
 インタビュアーの言葉を聞いて画面を見た。アシヤとクロバットが並んでいる。これだけなら、それなりに見かける光景だ。チャンピオンになれる人物なのだから、ズバットをクロバットまで進化させるくらい訳ないだろう。けれども、そのクロバットにはいくつかの特徴があった。
 何かあればトレーナーにぶつからずに動けるよう少し離れた立ち位置、無表情、そしてひとつだけ黒ずんだ前歯。ナギサは同じ特徴を持つクロバットの名を呟いた。
「はぐろ」

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