父上、風邪をひく

 日頃、どれほど体調に気を遣っていようと風邪くらい患ってしまうことはあるだろう。それは仕方ない。幼い娘が保育施設で病気を貰ってくるのは避けられないし、弟子の病欠もいちいち咎めない。
 だからこそ、ジムリーダーで毒ポケモン使いの自分は体調管理には神経質だった。多方面に影響がないようにと気を払い、ここ十年は皆勤を守っていたはずなのに──

 三十八度五分。
 何度検温しても体温計の数字は変わらないし、薬を飲んでも寒気と怠さが身体から抜けない。

『大丈夫ですか、無理せずゆっくり休んでくださいね』
 朝一でセキチクジムに出勤している弟子が電話の子機の向こうから労いをかける。
 リーダーであるキョウが滅多に休まないので、不測の事態に慌てているのか、弟子の声は少し上ずっていた。
『ジムを休みにして、我々が手伝いに行きますよ。日曜だからお嬢さんも家にいますよね』
 この日は日曜。
 未就学児のアンズが通う保育施設は休みだし、他の託児所を探す気力はない。手伝ってくれるのは有難いが──
「いや、ジムは午前中まで運営し、お前達が挑戦者の相手をしろ。リーダー不在時のマニュアルを参考にするといい」
 休日は学生や社会人の挑戦者が多いのだ。少しでも負担を減らすため、午前中だけでも運営したかった。
『了解しました。我々を突破したトレーナーは後日、リーダーと対戦するためのパスを発行しますね』
「その際にトレーナーカードの複写を取っておくことを忘れないように……」
 段々と会話が億劫になるが、そこだけは念押ししておいた。パスとの照合に必要だし、身分証を確保しておけば、万が一トラブルが発生しても対応しやすい。
『ジムを閉めたらすぐに駆け付けますので、お大事にしてください』
 弟子が恭しく言って通話を切る。
 キョウは子機を枕元に放り捨てて天井を仰ぎ、細長い息を吐いた。視界が熱に揺らめき、木目が雲のように流れている。
「父上、大丈夫ですか?」
 随分と遠くから声がした。
 重い頭をそちらに向ける。二メートルほど先の縁側から、娘のアンズが子守を頼んだ毒ポケモンと共に心配そうにこちらを見ていた。
「……ああ。ジムを休んで横になる……昼過ぎに弟子が来るから、それまでポケモンといなさい。昼食は……」
 弟子に作らせる、それまでに小腹が空いたら菓子などで補う、と説明するのが億劫だった。子守をするゲンガーに「よろしく」と告げて布団を被る。
 この父親の弱々しい姿が、アンズには衝撃だった。アンズにとって、父親はこの世界で一番大きな存在だ。大好きな家族で、目標で、ずっとそばにいて欲しい人物。それが病に伏しているなんて──何かあったら、どうすればいい?
 それを救えるのは、家族で、いずれジムリーダーになる跡取りの自分しかいない。だから、風邪で寝込んだ父親に動揺していてはならないのだ。アンズは履物を脱ぎ捨てると、縁側から布団が敷かれた居間へと勢いよく上がり込んだ。
「お熱があるなら冷え冷えシートを貼った方がいいですよ! あたい、取ってくる!」
 まずは額に解熱シートを貼らなければ──アンズは自分が熱を出して寝込んだ際にしてもらう処置を父親にもすべく、部屋の奥へと駆け出した。
「結構」
 力なく断るキョウを遮り、廊下を挟んだ部屋から人間用の薬箱がある棚を発見する。踏み台を使ってもアンズの手が届かない位置に置かれていた。
「勝手に、触るな……」
 掠れ声の注意がはりきる娘の物音にかき消される。
「踏み台にお風呂の椅子を重ねれば届く!」
 アンズはバタバタと威勢のいい足音を立てながら風呂場へ走り、プラスチックの椅子を持ってきた。
「危ないから」
 主人の意を汲んだゲンガーが慌てて止めに入るが、アンズは素早く椅子を重ねてその上に飛び乗った。しかし、風呂椅子をぐらぐらさせながら爪先立ちしても、
「ま、まだ届かない……」
 中指さえ薬箱には触れられない。
 そのまま辺りを見回すと、本棚に並べられた十数冊の分厚い書籍が目に留まった。あれも重ねれば──それと同時に居間から怒りをたっぷり含んだ空気を肌で感じたので、本を踏むのは思いとどまった。それなら手持ちを頼ろう。ポケットに詰めていたボールを引っこ抜き、天井高く放り投げた。
「イトマル、その糸で巻き取って!」
 捕獲して日が浅いイトマルが踏み台の前に現れ、薬箱に向き直る。イトマルは口からひょろひょろと頼りない糸を吐き出すと、少しずつ棚を這わせながら薬箱を目指す。刺繍糸のように細いが、強度はそれなりだ。やがて箱の底まで到達し、あとはぐるぐると囲んで縛ってアンズの元へと運ぶだけ──なのだが、下から見上げた薬箱はイトマルには大きさが掴みづらく、なかなか糸で縛れない。
 そうやってイトマルが苦戦している理由がアンズには分からなかった。
「頑張れ、もう少し! 父上を助けるんだよ!」
 そこで彼女はひとまず、ポケモンを応援してみることにした。
 それを受けたイトマルが張り切って蜘蛛糸を伸ばし、薬箱をガタガタと揺らす。
「落ちる……」
 居間で寝ているキョウには先の展開が読めた。落下する薬箱、娘かイトマルに直撃して四散する市販薬──娘のそばにいるゲンガーに届くよう、声を張るのは億劫だ。キョウは寝巻きの浴衣の袂から、モンスターボールを取り出してボタンを押した。
「アリアドス」
 赤い大蜘蛛が糸を吐き出しながら枕元に現れる。よく訓練されたアリアドスはイトマルより先に薬箱を掠め取って、それを主人のそばへ置いた。
 目にも留まらぬ横取りに、アンズとイトマルは顔を見合わせ、そしてすぐに居間へ駆け出した。
「冷え冷えシートはあたいが貼るっ」
「いや、それくらい自分で」
 手探りで薬箱を開ける父親の手を遮り、
「父上はお熱があるんだから寝てて!」
 アンズは薬箱の底から解熱シートを掘り起こして小分けの封を切り、そっとフィルムを剥がしてキョウの額に貼る。若干ヨレてしまったが、これで目的は達成した。
 アンズが熱を出して寝込んだ時、いつも父親がこのようにシートを貼ってくれる。それを自分が貼る立場になるなんて、少し大人に近付いた気分だ。
「ありがとう……少し寝るから、ゲンガーの側に居なさい」
 キョウはそのまま布団を被って横になり、ゲンガーとアリアドスに手を払う仕草をする。二匹はアンズを抱えて即座にその場を離れた。
 やがて居間に静けさが戻り、縁側から入る初夏のそよ風が部屋の奥へと抜けて行く。
 これでようやく落ち着いて眠ることができる。キョウは額の解熱シートをまっすぐ貼り直し、安堵の息を吐いた。

「お腹空いた……」
 台所の小上がりで絵を描いていたアンズの腹が控えめに音を立てた。昼には少し早いが、朝から緊張と運動で体力を使った。アリアドスが蜘蛛糸で戸棚を開けて、収納していたビスケットを取り出しアンズの前に置く。袋を縦にしか破れない彼女がばりっと力を入れると、個装のビスケットが畳の上に散らばった。
「皆も食べるー?」
 子守を任されているアリアドスとゲンガーが甘い香りの誘惑に揺れ、庭にいたペンドラーが勝手口から様子を伺う。しかし、彼らは主人の与える餌以外は口にしてはならないと言い聞かされており、食い入るようにビスケットを見つめながらも手は出さなかった。
「父上もお腹すいてないかなあ」
 キョウは食欲がないらしく、朝から何も食べていない。緑茶を少し飲んで横になっている。自分が風邪で寝込んだ時はリンゴやお粥を出してくれるのに──アンズはひとつの結論に至る。食事を出してくれる人がいないから、父上は何も食べられないのだ。
「よし、あたいがお粥を作ろう!」
 アンズは跳ねるように立ち上がると、勢いそのままに台所へと飛び降りた。勝手口から監視していたモルフォンがすかさずアンズの前に滑り込み、ガスコンロに接近しないよう威嚇する。後ろにいたゲンガー、アリアドス、ペンドラーもそれに続いた。迫力ある毒ポケモンに凄まれると、さすがのアンズも泣きそうになった。
 主人の娘にこんな仕打ちはしたくないが、ポケモン達も必死なのだ。絶対に火の元を触らせないように──切羽詰まった顔で子守を任すキョウの顔が脳裏をよぎる。この命令に背くことは許されない。だからお嬢さん、どうか台所には近付かないで。我々は怒られたくないんです……縋るポケモン達の願いを断ち切るようにアンズは叫んだ。
「父上がお腹空きすぎて死んじゃってもいいの!? 朝から何にも食べてないんだよ? お弟子さん達が来るのを待ってられないよっ」
 幼いながら主を思わせる気迫にポケモン達は思わずひるんだ。
「跡取りとして、あたいが父上を助けるんだから! コンロが使えないなら誰か、火を起こしてよ」
 アンズはモルフォンの横をすり抜け、ガス台の下から片手鍋を取り出すと、手を洗い、炊飯器に炊かれていたご飯をひとすくい取って鍋に入れた。ここまでは分かる。問題はその先だ。
 お粥って、どうやって作るんだろう。
「えーと……」
 アンズは鍋を持ったまま、ポケモン達を振り返る。我々に聞かれましても──彼らは困惑した。
「どろどろのお米に卵が混ざっていたんだよね。卵を入れよう」
 アンズは奥の部屋に置きっぱなしだった踏み台を取って来ると、冷蔵庫を開いて前に置いた。卵ケースは背伸びすればなんとか届く。一個取った後、横に置かれていた乳酸菌飲料が目に留まった。
 毎週、自宅にまとめて届けてくれる製品で、宅配の女性曰く、毎日飲むと風邪の予防になるらしい。アンズは欠かさず飲んでいるが、キョウは忘れることもある。もしや父上はこれを飲まなかったから風邪をひいたのではないか──ぴんときたアンズは手のひら大のくびれたボトルを掴み、卵と一緒に冷蔵庫から取り出した。
「材料はあったよ。まず、卵を割ります」
 アンズは冷蔵庫の下に座り込み、鍋の縁で殻を叩く。おそるおそる試すと、ヒビすら入らなかった。ならば二度目は強く。勢いよく振り降ろすと、小気味好い音がして卵がひしゃげ、黄身が鍋の中へ流れ込んだ。手のひらがどろどろに汚れてしまったので、慌てて殻を流しに捨て、手を洗い直す。
 鍋へ視線を戻すと、ゲンガーがしげしげと中を覗き込んでいた。どうやら殻が入っているようだ。不安になったアンズが尋ねる。
「食べられないのかな?」
 ゲンガーは卵を殻ごと食べるので、素直に首を横に振った。それを人間が食べられないことは知らなかった。
「じゃ、いっか。次は……この、にゅーさんきんドリンクを入れます」
 アンズが高らかと乳酸菌飲料を掲げ、アルミの蓋に爪で穴を開けた。甘く爽やかな香りがふんわりと漂い、つられたポケモン達がアンズの側にぐっと迫る。その拍子にゲンガーの唾液が鍋に垂れたが、アンズは気付かぬままドリンクを胸に抱きしめた。
「ダメだよ、これは父上の!」
 今は何より粥の完成が最優先である。
 鍋を台所に上げ、逆さまにしたドリンクを注ぎ込む。スプーンでぐるぐるとかき混ぜると、ご飯の白に卵の黄色、ドリンクの薄橙色が合わさって、甘く優しいパステルカラーのお粥が完成した──のも束の間、淡い色合いはみるみる深緑に変色する。
「えっ、何これっ」
 アンズは慌ててポケモン達を振り返った。原因と思われるゲンガーは唾液を垂らした自覚がないので首をひねるばかり。
「……でも、変なものは入れてないし。気持ち悪い色だけど、食べられるよね」
 アンズはスプーンでお粥をひとすくいすると、そのまま味見しようとした。だが、やはり食欲をそそる色ではない。これが苦手な葉野菜で、父親が側にいれば我慢して丸呑みするところだが、今は違う。ここに偏食を咎める者は誰もいない。アンズはポケモン達を一瞥し、他を押しのけるように前に出たペンドラーにスプーンを差し出した。ペンドラーはぱくりとお粥を食べて、嬉しそうに鳴く。
「美味しいんだね。じゃ、あとは温めるだけだ。外行こう」
 その姿に安堵したアンズはペンドラーの唾液が付いたスプーンをそのまま鍋に戻し、踏み台から飛び降りて勝手口へと駆けていく。
 粥の完成は間もなくだ。
 手伝いこそすれ、これまで一人で料理を作り上げたことがなかったアンズは身体が浮き上がるような高揚感に満たされていた。
 ポケモンが美味しいと言っているんだ、きっと父上も喜んでくれるに違いない。子供の自分でも、この家に貢献することができる。それは次期ジムリーダーとしての大きな一歩だ。
 アンズは勝手口から庭に出ると、池を泳ぐドククラゲに片手鍋を差し出した。
「ドククラゲ、鍋持って」
 実子とはいえ、主人以外から命令されることがドククラゲには不服だった。反抗して触手を伸ばさずにいたらアリアドスに睨まれたので、渋々鍋を掴んでやる。アンズはほっとした後、ゲンガーを振り返った。
「ゲンガー、『おにび』で鍋をあっためてよ」
 池の周りで火を使えば大ごとにはならないだろう。花火をするときはバケツを置く、それの応用だとアンズは考えている。
 ゲンガーがドククラゲの前に進み出て、『おにび』を繰り出す。相手ははがねポケモンの肌より薄い金属の片手鍋なので、出来る限り火力を弱めたが、それでも加減がわからない。ゲンガーの炎は鍋を包み、底を焦がして粥の水分をほとんど飛ばした。ちりちりと音を立てる粥から甘く香ばしい匂いが立ち上り、どくポケモンの唾液の混じった粥は鮮やかな紫色へと変化している。
「……でき、た?」
 アンズの中に想像とは違うものができた不安と、初めて料理を作った達成感が同時に湧き上がり、後者が勝った。
「できた!」
 これで父上の空腹を満たすことができる──アンズはとびきりの笑顔でゲンガー達を振り返ると、ハイタッチを交わして台所へと踵を返す。後は皿に盛るだけだ。

 目を閉じればすぐに眠れるはずだと思っていたのだが。
 キョウは三十分ほどで目を覚ました。
 周囲に騒がしさはない。初夏の陽気と休日の静けさが混じり合ってこれ以上なく過ごしやすい。
 けれども、あまりに静かすぎるのだ。目が届くようにわざわざ襖を開け放し、居間で寝ているのに遊ぶ声さえ聞こえない。
 静寂の幼児ほど恐ろしいものはない。大体、怪我か悪戯、あるいは周囲をひっくり返して放心している。手持ちが呼びに来ないから怪我ではないだろう。キョウは残りの可能性を想像しながら、よろよろと身を起こして重い息を吐いた。汗ばんだ肌を手拭いで拭いて、枕元に置いた緑茶を飲む。喉は潤うが、身体のだるさはまだ抜けない。そこへ畳が振動する音がして、台所の方から手持ちポケモンを引き連れたアンズがやってきた。
 皿を抱えた彼女はとびきりの笑顔だ。
「父上、ポケモン達とお粥を作ったんです! これを食べればすぐに元気になりますよっ」
 お粥──真っ先にキョウの脳裏に浮かんだのはコンロの火だ。後ろの手持ちを睨むと、彼らはふるふると首を横に振って否定する。
「どうぞ!」
 アンズが彼の目の前に皿を置いた。
 その中に、生まれたばかりのベトベターが座っていた。
「ハ……?」
 ままごとは卒業したはずなのだが──もう一度、皿を見るとベトベターは鮮やかな紫色の粥になっていた。おそらく、こちらが正しい姿だ。けれども、ままごとの方がどれほど有り難いか。
「身体に良いものを入れました! さあどうぞ、召し上がれ!」
 アンズは満面の笑みで善意でできたお粥を勧める。初めて一人で料理と作った達成感と父親への献身が叶い、すっかり興奮していた。
「いや……」
 キョウは笑顔のアンズとお粥を見比べて、
「今は……あまり食欲がないから後で食べる。ありがとう……」
 皿を枕元に引き寄せて俯きながら礼を言った。こっそり掌を動かしてポケモン達に娘を引き取るよう指示を出す。
「これを食べたらぜーーったい、元気になりますよ!」
 ゲンガーに腕を引っ張られながら、アンズはとびきり明るく激励した。初夏の日差しがすぐそばにあるかのよう。微笑ましいが、それはそれとして何故こんな粥が出来上がり、ひとつも疑問に思わないのか。アンズが風邪をひいた際に出している粥と似ても似つかないではないか。
「おかしい……」
 胡坐をかいたキョウは、がくりと肩を落としながらこの皿の中身の処分を考える。膝の上に肘を乗せ、頭痛を抑えながら溜め息を吐いた。こんなことなら最初からジムを閉めて弟子に家事を手伝わせるべきだった。
 さて、どうするか――そのまま捨てるには忍びないし、毒が混じっているのは一目瞭然なので、やはり手持ちに食わせるほかはない。キョウは浴衣の袂からモンスターボールをまとめて取出し、中のポケモンを確認した。
 ベトベトンは畳が汚れる。モルフォンは鱗粉が飛んでくる。マタドガスは身に纏うガスが病状を悪化させる――頼りにできるのはクロバットしかいなかった。ボールから飛び出た途端、クロバットは毒の混ざった甘い香りを嗅いで嬉しそうに宙返りし、天井から吊るしてあった電灯を掠めて大きく揺らす。はらはらと舞い落ちる埃を払いながら、キョウは布団の前に粥の入った皿を差し出した。クロバットがゆっくりと降下しながら口を開き、小さな後ろ足を畳につこうとしたが――ツメが畳の織り目に上手く刺さらず、つるりと滑って前のめりに倒れ込んだ。たかさ一.八メートルの巨大なコウモリが倒れた衝撃で夏用の掛け布団が後ろへ流される。
 呆気にとられたキョウは思い出した。クロバットは飛行に特化した進化をする過程で歩行能力が退化している。
 コウモリはお尻を持ち上げながらなんとか前へ進もうと試みるが、少しも動かない。小さな後ろ足をばたつかせながら、キーキー鳴く姿はまだハイハイもできない乳幼児のようだ。キョウはまた頭が痛くなった。これなら、縁側にベトベトンを呼んで食べさせればよかった──弱った身体を動かしながらクロバットを起こし、スプーンで粥を掬って一口ずつ食べさせる。クロバットはあーんと大きい口を開けてスプーンに食いついたが、その勢いでつんのめって前に倒れ、主人の膝の上でまたジタバタする。
 仕方ないのでまた身を起こし、低空で飛行させながらスプーンで粥を運んでやった。クロバットは嬉しそうにそれを頬張っているが、間近で四枚の翼が上下すると辺りに風が起こって身体が冷える。
 大事を取って横になりたいのに、どうしてこんなことに――さすがに呆れを通り越し、やり場のない苛立ちが募り始める。その時、門戸の方から玉砂利を踏み鳴らす音が近付いてきて、縁側から数名の弟子が顔を出した。
「お疲れ様です! リーダー、お身体の方は――」
 息を切らし、スーパーの袋を置いて心配そうにキョウの様子を窺う彼らだが、タイミングが悪すぎた。
「遅い!! いつまで時間をかけているんだ!」
 弟子達は完全なとばっちりだ。晴天の昼下がりに雷が落ち、頭に血が上った勢いでキョウはふらりと崩れ落ちる。弟子が靴を脱ぎ捨て駆け寄った。
「リーダー、大丈夫ですかー!」

+++

 それから、もう二度と風邪はひかないつもりで体調管理を徹底していたのだが。
「三十八度三分……」
 久しぶりに高熱を出した。
 咳も止まらないのでマスクをして、加湿器をつけ、浴衣姿のまま自室にこもる。布団に入って横になっていると、襖が少し開いて奥から娘が声をかけた。
「父上、大丈夫ですかー? 風邪をひくなんて珍しいですね。今日はゆっくり休んでください」
 アンズは感染防止にマスクをつけたまま部屋に入ると、父親の枕元にお盆を置く。経口補水液と、湯気が立ち上る器が乗っていた。
「はい、これ。お粥」
 粥と聞いて思わずどきりとしたが──
「何か入ってます? いつも通り、ご飯を生姜入りのだしで煮て、溶き卵を入れてネギを散らしただけですけど」
 出されたのはほんのり黄色く、だしが優しく香り立つたまご粥である。
 そりゃそうだ。これが出てくるに決まっている。
「いや……ああ、そうだな」
 あれから十数年経過して、娘はジムリーダーとして自分の後を継ぎ、ポケモンのみならず家事の腕も上達した。もう二度とベトベター粥を生み出さぬよう指導したのだから、当然ではあるが。
「じゃ、あたいはジムに行ってきます。お大事に!」
 アンズはそっと襖を閉め、ぱたぱたと廊下を駆けていく。
 彼女の気配は家の中からすぐになくなって、加湿器が蒸気を吐き出す音だけが静かに響く。身体はかなり弱っているのに、何の心配もいらない病床にキョウは妙に浮足立ってしまう。縁側の雪見障子を開き、袂から取り出したボールをそこへ投げた。長年の相棒であるクロバットが現れ、音も立てずに部屋へ入り込む。嗅覚鋭い相棒はたまご粥の匂いにつられ、きっとご主人はお粥をくださるだろう、という確信の元、じりじりとそちらへ接近する。
「食べてみるか」
 キョウはスプーンで粥を一掬いすると、息を吹きかけて熱を冷まし、クロバットに微笑みかける。
 相棒は嬉しそうに宙返りすると、大きく口を開けたまま主に近づく。スプーンの位置に合わせて高度を下げ、小さな後ろ足が布団の上に乗った時――べしゃり。クロバットは大きくバランスを崩して掛け布団の上に倒れ込んだ。娘は成長したが、相棒は相変わらず止まるのが下手なまま。布団の上でじたばたするクロバットにキョウは呆れつつも少しの安堵を覚え、手作りの粥を口にする。

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