落葉

「なかなかいい車だな」
 銀色の車体に感心する父の顔が映っていた。
 お世辞は殆ど言わない人だ。綻ぶ口元を隠しつつ、得意げに答えた。
「新古車なんだ」
 炭鉱で働く同僚が紹介してくれたディーラーで一目惚れしたシルバーの4WDは、この街やシンオウ地方での移動には欠かせない。気に入った理由は幼い頃から仲良しの、父のハガネールに顔が似ていたからなのだが、今は言わないことにした。この車に乗ると、ハガネールの頭に乗って遊んでいた頃を思い出す。あの子、元気なのだろうか。
 それを尋ねようかと迷っていたら、逆に質問された。
「もう一年だったか」
 ボクは何故だか話がジムに飛んだものだと思い込んだ。ハガネールの事を思い出したからなのかもしれない。
「まあ、順調。板についてきたよ」
 すると父の視線がバックドアに貼った初心者マークへと移り、その後じろじろと愛車を眺める。それで、話題はまだ車なのだとようやく気付いた。妙に恥ずかしくなって、胃の奥がじわりと熱を帯びる。車よりジムのことを気にかけてもらいたかったのだ。
「綺麗に乗ってるな」
 車に乗ってほぼ一年。
 化石より高い物を買うのは初めてで、まだ一度も擦ったことがない。車高が高いから飛び石もいくらか免れているのは救いだ。最初は多少傷がついても良いと新車は避けたが、やっぱり綺麗に乗りたい。
 ジムリーダーなんだからスポーツカーくらい乗り回さないと夢がない、と色々な人に言われたがこの街ではあまり必要ないしサーキットも興味ない。スピードにも憧れない。これはきっと親譲りなのだろう。父はもっと低いレベルで声を上げて笑っていた。
「車だけは息子に先を越されてしまったよ」
 唖然とした。
「免許、持ってなかったっけ」
 父の目が丸くなる。
「知らなかったか?」
「知らなかった」
 確かに記憶をひっくり返しても、父がハンドルを握っている姿は一度も見当たらない。こういう仕事をしているとトラックくらい運転するものなのに。ちなみにボクが免許を取った理由はそれである。
「ポケモンで足りるからな」
 なるほど、その姿は見慣れている。
「遅くない?」
 父が専門とする鋼タイプは、主にそれが理由で世のポケモン乗りにはあまり好まれない。
「急ぐ用事もないからな。そういう時はジム関係だから、送迎を頼る」
「なるほど」
 シンオウ地方のリーダー送迎車は高級SUVだ。ミオシティのベテランリーダーのトウガンならともかく、リーダー一年生の自分があの立派な車に乗せてもらうには気恥ずかしくて、まだ一度も頼んだことがなかった。
 それにしても息子に負けているのが車、それも免許の有無レベルなんてボクはあまりにも評価されていないのではないだろうか。それが不服で、ちょっと気取った風に乗車を促した。
「車も楽しいけどね。乗ってよ」
 短い夏が終わり、シンオウにはあっという間に肌寒い秋がやって来る。過ごしやすい車内を心掛けているのに、助手席に父が座ると妙に違和感を拭えない。エンジンをかけ、緊張気味に車を発進させる。車が唸り声を上げ、シートベルト未着のアラームが鳴った。父が目を丸くする。
「忘れてた」
 苦笑しながら即座にサイドブレーキを解除し、シートベルトを装着した。いつもはこんなつまらないミスはしない。
「急いでないぞ」
 父が口の端を緩ませる。
「いや……」
 そういう訳じゃないんだけど、と続けようとした言葉を飲み込んだ。
「うん、そうだね」
 この人に、言い訳なんて野暮ったい。
 そんな姿を見て育ったから、自分も弁明を口にすることは少ない。例えばポケモンバトルの負けは素直に認める。内心とても悔しいけど。それは今だって。
 ふいに助手席を見ると、父はダッシュボードの上に飾ってある化石のミニフィギュアをぼんやりと眺めていた。均等に並べて、後ろにボクの異名と同じイッシュのレスラー俳優のフィギュアを飾ってあるのだ。その人が出演した遺跡アクション映画の雰囲気が出ていてとても気に入っている。女の子には不評だけど。
「よくできてるよね、それ。ガチャガチャで集めたんだ」
「最近のはこんなに出来が良いのか」
 父は感心しながら顎髭を掻く。
 今朝会う前に被った化石フィギュアをプレゼントしようかな、とも考えた。だがそれでは一回四百円もするガチャガチャを八千円近く投じて揃えたことがバレてしまうのでやめた。子供の頃、父にねだってガチャガチャを引かせてもらう時は必ず一回きりだった。目当てでない景品を引き当て、落ち込んでいる時にゲンさんが一緒にいると「もう一回引いてもいいよ」と財布を出してくれたけど父はいつも「駄目だ、うちは必ず一回までというルール」ときっぱり断っていた。だからこのフィギュアを揃えた事は父への反抗の一つなのだ。
「いいな、これ。ミオでも見かけたら引いてみるか」
 だから父がこんな風に羨んでいても、被りをあげる訳にはいかない。フィギュアを褒めてくれたことに緩んでいた自分に喝を入れ、車を発進させた。
 炭鉱の用事が終わった父から駅まで送ってくれと実家に電話が来たのは今朝がたの事である。泊まりの出張だったなんて知らなかった。昔馴染み達と会っていたらしい。ポケモン業とは無関係の用件だから、ジムの送迎は使えない。交通費を浮かせるつもりはなく、ボクが免許を取ったことを思い出して車に乗ってみたいとのことだった。
 少し前までは二人揃って後部座席に座っていたのに、たった数年でひとつ前の席に並んでいる。不思議な空気感に慣れることができず、ハンドルを握る手が汗ばんでズボンで何度も拭き取った。ジムリーダーになったばかりの頃も、同じ感覚だった気がする。
「このまま駅まで?」
「ああ」
 口を開く度に短く終わるキャッチボール。これでいいのかな、と思ってもう一球投げる。
「寄りたいところは?」
「ない」
 更に一球。
「最近、隣の区に新しいコンビニが出来たんだけど」
「遠いだろ。構わん」
 父は饒舌なタイプではない。ボクはそこで諦めた。
「ジムも忙しいだろうからな」
 不意打ちのようなゆっくりとした返球。ハガネールのジャイロボールみたいだ。
「ま、そこそこ」
 受け損ねて自惚れたような返事をした。咄嗟に口を突くのは何故かこんな反応ばかりだ。
「慣れればどうってことない」
 目が泳いでいる自分を尻目に、父の口元がふわりと緩む。
「そうだね」
 この人の余裕を見ていると背伸びしていることが馬鹿馬鹿しくなり、頷く事しかできなくなった。早くも色づいた並木道を抜けながら、開けた灰色の空をぼんやりと眺めて車を走らせる。ポケモンバトルについては火がついたように談義することはあるものの、会話が弾むのはそれだけだ。本当は語り合いたい話題がいくつもある。化石の事、家や将来、感謝とか。だけど何だか気恥ずかしくて、きっとこの先暫くはこのまま平行線なのだろう。時間と距離だけが通り過ぎていく。予定が詰まっているここ一年の中で、これほど無駄な時間はない。
 あっという間に秋だね。そう言って、季節の話題から振り戻そうか。唇を開きかけた時、父が声を上げた。
「忘れていた」
 シートに体を沈めていた父が腰を浮かせ、もみあげを上下させながらこちらを見る。
「あの黒い饅頭。頼まれていたんだった」
 それは炭が練りこんであるこの街の銘菓「黒鋼饅頭」だ。さっき道路脇に上りがはためいているのを見送ったばかり。
「通り過ぎたよ」
「じゃ、また次でいいだろ」
 父はあっさりと諦めて再びシートに背を預けた。
 そんな能天気な姿はいつだって諦めずに戦ってきた父には不似合いだ。情けない自分への怒りも相まって、即座にウインカーを出し、右折レーンへ入って方向転換を試みる。呆気にとられる父に釘を刺した。
「そういう付き合い、大事だよ」
 精一杯背伸びした一言だったが、父は「そうだな」と感心したように肩をすくめていた。社会人としての成長を少しは見てくれたのだろうか。
 愉悦に浸りながら菓子屋に入る。敷地をコンクリート塀で囲み、店舗の前に五つ用意された駐車場は一番奥しか空いていなかった。店舗との間隔も狭いから頭から突っ込み、バックで出よう――そう考えながら軽快にハンドルを切った時、バンパーの前で鈍い音がした。
「あ」
 完全に油断していた。
 緊張に汗ばむ両手がみるみる乾いて冷たくなり、頭は真っ白だ。
「やっちまったな」
 父が同情の眼差しを向けた。最後の最後で、なんて格好悪いんだろう。眼鏡の度が一瞬ぼやけた。
「駐車、下手な訳じゃないんだけどな……初めて擦った」
 空音を期待して車を降りても結果は同じだった。バンパーの右端に四センチほどの白い筋が浮かんでいる。岩タイプなら名誉の傷なのに、車だと落胆は大きい。免許を取って一年経過した頃に初めて付けた目立つ傷なので尚更だ。
「良い経験だ。それに、これくらいならすぐ直せるぞ」
 座り込んだまま傷を眺めていた父が腰を上げて助手席の扉を開く。
「さっき、免許ないって」
「石の研磨とやり方は同じだ」
 父はこなれた革のバッグから研磨剤やブラシ、サンドペーパー等の道具を取り出しながら得意げに微笑んだ。自分だってそのスキルは持っており、飛び石程度の傷なら修復できる。きっとこの傷だって。
「じゃ、後でやる」
「忙しいんだろ。出来たての饅頭、五箱買ってきてくれ。その間にやっとく」
 車と塀の間の狭い空間に道具が並ぶ。父は塀にマントを擦りながらそこから抜け出し、ボクの右手に万札を捻じ込んだ。
「釣りでコーヒーも頼むな。お前も好きなの買っていいぞ」
 その気になったら退かない職人気質のトレーナーは相変わらずだ。そんな姿に憧れて同じ道に入ったボクだけど、まだこの人に倣って修復作業を奪い返す事ができなかった。これが今の限界か。
「ブラックだっけ」
「ああ」
 マントは相当くたびれているのに、崩れる気配のない後姿。車の前で大山のように構える背中を眼裏に焼き付けて、何も言わずに店へ入る。すると自分の存在に驚いた客や店員が声をかけてくれた。これでも地元の評判はそこそこ良いのだ。眼鏡の位置を直してきりりと顔を作り、窓の外に駐まっている車を一瞥した。父はこちらなど気にせず、黙々と作業をこなしている。愛想を振りまくボクの顔は大いに引きつっていただろう。無駄話に付き合ってサイン応対もこなし、たっぷり時間を使って粘ったのは、親への反抗だと思いたい。
 道路沿いの自販機で缶コーヒーを二本買って、ゆっくりと店の敷地に戻って来た時、父が車の奥から顔を上げた。冷たい秋風にマントを靡かせ、外気を物ともせずに晒した二の腕を振って車に命じる。
「さあ、いくぞ。四駆のロックカット!」
 鋼タイプのプロであるトウガンがそう言えば、4WDはハガネールになった。
「なんてな」
 父は白い歯を見せ、さっぱりと笑う。つられて綻びかけた頬を引き締めつつ、バンパーへと回りこむ。
「傷、どこにあったっけ」
 それが最初に浮かんだ率直な感想だ。本当に車がロックカットを行使したのかと錯覚するほど、バンパーは傷一つなくぴかぴかに磨かれていた。
「さすが、わたしの息子だな! 良い褒め言葉だ」
 父が高らかに笑いながら、嬉しそうに背中を叩く。あんまり強く叩くものだから眼鏡がずれて落ちそうになった。今度はレンズに傷がつくところだった。眼鏡をかけ直し、むっと睨んだ父の横顔は迎えに来た時より穏やかだ。一仕事を終えての達成感か、あるいは。気にしないふりをして、車に乗り込んだ。
 そこから駅までは互いに終始無言だった。時折揺れる車内に、父が膝の上に抱えた饅頭の袋が擦れる音が響くだけ。だけど最初ほど居心地の悪さは感じなかった。
 寂れた駅前のロータリーに到着したのは店を出てから十分後。
「じゃ、また。元気でな」
 道路脇に車を停めた途端、父は飛び出すように外へ出た。ロータリーには隅に待ちのタクシーが一台駐まっているだけだったので、父の背中を追って運転席を出る。
「何だ、わざわざ」
 振り向いた父に言いそびれた礼をはっきりと告げた。
「ありがとう」
 父は驚いていたが、すぐに嬉しそうに歯を見せて微笑んだ。
 キャッチボールは別れ際まで短い。でも、胸には十分響いている。父は何も言わずに右手を挙げて背を向けると、そのまま改札の向こうへ消えて行った。
 直ぐに響いた電車が過ぎ去る音が別れの余韻を消して、秋涼が身体の熱を冷ます。別に運転席から別れを言っても良かったな、と今になって思った。後悔はしていないけど。
 車の前にしゃがみ込んで、改めてバンパーを見た。
 傷は見事に消えている。車に関しては運転免許の有無で父を一歩リードしたと思っていたのに、やっぱりこの分野でも負けている気がした。
「まだまだだなー」
 ロータリーを抜けていく風が寒い。
 自宅に戻ろうと立ち上がった時、車の後ろに何かが落ちていることに気が付いた。バックドアに貼った初心者マークだ。一年同じ場所に貼りっぱなしで劣化しており、さっき車を停車したはずみで剥がれてしまったらしい。もうそれを貼っておく必要はない。車も、ジムリーダーも、ようやく一年。まだ、これからだ。
 ボクは若葉を拾い上げて運転席へと乗り込み、車を発車させた。


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