夏祭り

 裏庭の竹林から響く、蝉の混声合唱がアンズの気持ちを高ぶらせる。涼やかな夏の風が屋敷内を吹き抜け、庭先に吊るした風鈴を控え目に鳴らした。心地よい音色に乗って、カビに似た臭いが鼻先に触れる。外で涼んでいる父のモルフォンだろうか。風通しの良い屋敷に住んでいても、毒ポケモンの体臭は鼻につく。それが気にならないのは、屋敷を囲む木々の清涼な空気とそれを移した香を纏う父親が傍にいてくれるからだろう――と、アンズは確信した。
 縁側からクチバ製の砂張り風鈴が余韻を残しながら風を奏でる。思わず耳を傾けていると、後ろで浴衣を直していたキョウが声を掛けた。
「帯は」
 慌てて視線を目の前の姿見に移す。
 白地に鮮やかな桃色の縦縞が入った綿紅梅の浴衣に心が騒ぎ始める。合わせるのは紺色の帯だ。垂直にまっすぐ腕を伸ばし、「蝶結びで」とリクエストした。視界の端に桐の衣装箱に入った水色の兵児帯が映る。それを紺色の帯に重ねれば、先日の夏祭りで会った同級生がやっていたように、浴衣は一層華やぐだろう。
 だけど、格式を重んじる父親はそれを許してくれないかもしれない――六歳児は憧れを飲み込んで、もう一度姿見に目を向けた。いつの間にか、腰上に暮れたばかりの夏空の色をした蝶が乗っている。思わず身体を傾け、あらゆる角度でその仕上がりを確かめる。兵児帯で飾らずとも十分にきらびやかだ。
「可愛いっ。すごく可愛い」
 声を弾ませると、部屋の隅で着付けの様子を窺っていたイトマルがこちらへ寄ってくる。いち早く自慢すべくそちらに足を向けようとしたが、背後で呆れるような父の視線を感じてすぐに振り返った。
「父上、ありがとうございます」
 うっかり礼儀を忘れてしまうところだった。
「来年は自分で着付けられるようになりなさい。もう六歳なんだから」
 キョウはゆったりと立ち上がって背筋をぴんと伸ばす。浴衣の娘に対し、彼は濃紺の着物に苗色の帯と襦袢を合わせる涼しげな着流し姿だ。仕立ての着物がよく馴染んだ品のある佇まいにアンズは気おじしながらも、「はい」と何とか一言頷いた。この家では一般的な子供より早くの自立を促される。
 父親が廊下へ出て行くと、畳の間から緊張感がぱっと消え去った。辺りはじんわりと熱を帯び、畳の上には姿見といくつかの衣装箱、そして自分がぽつんと残される。遠くで聞こえる蝉の音にヒグラシが混じり始めたので、祭りへ行く前にここを片付けなければ――とアンズは我に返った。衣装箱に伸ばした腕の下をイトマルが潜り抜け、はみ出た兵児帯を持ち去ろうとする。
「これは来年の夏祭りで使うの」
 アンズはすかさずそれを取り返した。
 部屋に差す日光に透ける水色が波打つ。来年こそは着付けを覚えて、可愛い帯を締めるのだ――と思う一方で、もう父に着せてもらえない寂しさもある。物憂げなヒグラシの鳴き声を耳にしながら一人衣装箱を片付けていると、そんな甘えが膨らんで、アンズはたまらずに呉服屋から贈られたビイドロのかんざしを頭から引き抜いた。
「やっぱり父上に買ってもらった撫子のかんざしにする」
 漆の小物入れにそれを投げ捨て、ちりめんで作られた鮮やかな桃色のかんざしをアップにした髪に飾った。
「同じピンクだし、似合うでしょ」
 姿見の前でかんざしから垂れる撫子の花を揺らし、イトマルに尋ねる。まだトレーナーの意志を汲み取れないポケモンは不思議そうに頭を傾けた。
 ビイドロと比べ、いかにも子供っぽいデザインは上等な浴衣には不釣り合いで、実際は三歳の頃アンズが親にねだって買ってもらったものである。それから生まれた家の空気を肌で感じ取れるようになると、自然と我儘も少なくなった。
 伊賀流の上忍が代々受け継ぐこの家は、時代を経てセキチクジムのリーダーも兼ねるようになった。それは地元のポケモン分野の権威であることを意味し、周囲から期待と羨望が注がれる。生まれたその時から、アンズの肩にはその重責が乗っていた。同い年の子供たちと同様の振る舞いはしていられない。
 それは幼い彼女にとって、度々息苦しくなる。
 もう一度姿見でかんざしを見て、ふすまを閉めた。庭の奥から車のエンジン音が届く。迎えが到着したようだ。
「リーダー。お迎えに上がりました」
 縁側に出ると、付き添いの弟子が玄関へ向かおうとしていた。彼はアンズに気付き、恭しく頭を下げる。
「こんにちは、お嬢さん」
「お疲れさまです」
 会釈し、屋敷内へ向けて父を呼んだ。
「父上、お弟子さん来ましたよー」
 イトマルをボールに戻して縁側から庭へ出る。すると屋敷内の戸が動き、意思を持っているかのようにてきぱきと自ら戸締りを始めた。玄関からキョウが出てきた後、彼の影に潜んでいたゲンガーが念力で戸を閉めて主に鍵を放り投げた。
「行こうか」
 鍵を袂にしまったキョウが、頭を下げる弟子を横目に門の外へと向かう。
 紺色の足袋に引っ掛けた雪駄が石のアプローチを一歩踏みしめるたび、庭にいたポケモンがそれぞれの巣へ戻っていく。アーボックは軒下に、ドククラゲは池、目覚めたばかりのクロバットが裏山の竹林へ引き返す――家主が外出すればこの屋敷は竹林のさざめきと蝉の鳴き声しか残らない。
 アンズは寒気を覚えて背筋を伸ばし、屋敷を振り返る。
 戸締りを終えた邸宅はしんと静まり返っていたが、そこに潜むポケモンの不穏な息遣いは確かに肌で感じ取れた。こうした雰囲気だから、近所では「忍者屋敷」と呼ばれている。泥棒に入られたことはない。そんな頼もしさはアンズの不安の一つでもあった。
 将来、留守を任せるのは自分のポケモンなのだ――右手に掴んだボールを見た。イトマルはこちらの意志を汲み取れず、知恵もない。育成を始めたばかりだから当然だと思う一方で、あの技量を求められる将来に頭が痛む。すがるように顔を上げ、撫子のかんざしを揺らしながら門へと向かう父を見た。キョウはこちらを振り返らない。
 その背中は近くて遠い。
 足元の影からゲンガーが急かす眼差しを向けたので、アンズはすぐに後を追った。
 
 この日はセキチクシティ最古の寺で行われる、街で最も規模が大きい夏祭りの初日だった。
 祭りは三日かけて行われ、その時期になると参道周辺には多くの屋台が立ち並び、各地域が町神輿を担いで練り歩く。十数年前に街の観光名所であるサファリゾーンがスポンサーとなってからは最終日に花火で締めくくるのが定番となっていた。
 華やかな街に相応しい派手な祭りはセキチクに住む者の誇りであり、カントー三大祭の一つだと信じて疑わない者もいる。アンズもそうだった。賑やかな祭りの情景は、行けども高層ビルばかり並んでいるヤマブキシティには真似できない。浴衣を着て歩く人々や、桃色の提灯がセダンの車窓の外に増えていくと、祭りへ向かうアンズの期待も膨れ上がる。
「年々道が混みますね。駐車場まで時間が掛かる」
 大通りの渋滞とぶつかり、裏道へ逸れた運転席の弟子が苦笑する。
「良いことだ」
 キョウが後部座席にもたれ掛って息を吐いた。どう見ても喜んでなどいない。アンズは緊張気味に背筋を伸ばす。
 タマムシやヤマブキのような大都会とは異なり、地元の繋がりが根強いセキチクシティは身の振り方が重要となる。ポケモンジムもこの祭りの期間は休業し、参道の一角にテントを出店していた。これから後援会や自治会等に挨拶回りをした後、リーダーはそこへも顔出ししなければならない。地元に根差したジム運営をするためにこれらの活動は避けて通れないのである。物心がつき、それを知り始めたアンズはやがて我が身だと覚悟を刻み付ける。賑やかな祭りの風景が少しだけぼやけた。
「七時になったらジムのテントに移動して、一時間ほど対応をお願いします」
 弟子は祭りのときのみ使っている駐車場に送迎のセダンを停め、ジムリーダーの降車を促す。アンズもそれを追うように降りた。彼女の前を、キョウと弟子が予定を確認しながら歩いていく。
「その次はサファリと本部……」
 父が祭りから解放されるのは遅くになりそうだ――キョウが振り返り、予想通りの答えを返す。
「八時を過ぎたら先に帰っていなさい。訓練は祭り明けだな」
「はい」
 祭りや盆の時期になると父の帰りは日に日に遅くなる。それは覚悟していたが、アンズにとって重要なことは店を一緒に回れるかどうかだ。昨年は挨拶回りの付き添いで遊ぶ時間はなかった。
 ただし、屋台の商品に触れないわけではない。祭りの喧騒に足を踏み入れて僅か五分、町内会が出している屋台から恰幅の良い男が現れ、キョウを呼び止めた。
「先日の初盆ではご足労頂き、ありがとうございました。これ、よかったら」
 彼は何度も頭を下げながら紙袋に詰まったベビーカステラを差し出した。キョウはやや謙遜しつつ、後ろを歩くアンズにそれを促す。娘の存在に気付いた男が満面の笑みで顔を覗き込んできた。
「アンズちゃん、大きくなったねえ! カステラ食べる?」
「食べます。ありがとうございます」
 熱で湿った紙袋がアンズの掌に乗せられる。甘い香りに緊張が解れた。土産物がまず一つ。贔屓筋と顔を合わせるたびに、それは一つずつ増えていく。チョコバナナに焼きそば、トウモロコシ、フランクフルト。顔も知らないテキヤの店主も、ジムリーダーが通れば何かをくれる。
「もうポケモン持ってるの? 偉いねえ、うちのチビなんてまだまだコラッタから逃げてばかりだよ。頑張ってね、綿あめ持ってってよ!」
 綿あめ屋の店主はキョウのファンらしい。握手をしてもらった喜びで、アニメヒロインのイラストが描かれた綿あめ袋をくれた。
「ありがとうございます」
 愛想よく礼を言って逃げるように店を去る。
 一時間足らずで、アンズの両手は祭りを凝縮した屋台料理で一杯になっていた。びっくりして振り返る子供達の視線が痛い。それを見かねた弟子が、キョウが立ち話をしている隙を見て駆け寄ってくる。
「持ちましょうか」
「大丈夫。食べて減らすから」
 彼にもジムリーダーのサポートがある。既に贈答品が入った紙袋をいくつも下げているのに、好意に甘えられない。ぐっとこらえたアンズを見て、弟子が穏やかに耳打ちする。
「あの地区長さん、話が長いからお腹に入れるなら今のうちですよ」
 視線の先に、頭に鉢巻を乗せた股引姿の豪胆な中年が父と会話している。この祭りを先導する者の一人で、アンズも軽く挨拶をしてからは蚊帳の外だ。父は相槌を打ち、聞き役に徹していながらも話半分に流しているように見て取れた。
 弟子がアンズに会釈して、リーダーの元へ向かう。
 束の間の休憩で空腹を覚えたアンズは、長テーブルと丸椅子を並べた簡易休憩所に空いた席を見つけて腰を下ろした。テーブルの上にイトマルが入ったボールを置き、ベビーカステラを一つつまんでいるとポケモンが内側からボールを叩く。出してほしい、とアピールしているようだ。
「毒ポケモンはあんまり人ごみで連れ歩いちゃだめなの。迷惑だし、ストレスになるからね。家に帰ってからご飯をあげる」
 イトマルにそう言って、参道を行きかう人々へ視線を戻す。ポケモンを連れ歩いている人はたくさんいた。ポッポを肩に乗せた青年、ロコンを従える少女、ニャースを抱いた老婆など。ポケモンと祭りを楽しむ姿を眺めていると、やがて自分がそれを羨んでいることに気が付いた。
 ふいに視線を落としたイトマルは、袋から覗くベビーカステラをボール越しに凝視している。アンズはすぐに袋の向きを変えた。
「カステラもだめだよ、アレルギーが出るかもしれない。毒ポケモンは毒が武器なんだからね」
 父から教えられた通りにしなければジムリーダーにはなれない――唇を噛み締めて言い聞かせても、しょげるイトマルに祭りの賑わいを見ると気持ちが揺らぐ。
「だめばっかり」
 気を紛らわすために口にしたチョコバナナは味気ない。はす向かいのあんず飴の屋台で、じゃんけんに勝った少女がおまけに付いてきた飴を父親と分け合っている姿が目に留まる。二人は手を繋いで次の店へ。
「いいなあ……」
 羨望を漏らすと、チョコバナナは甘さを感じぬまま胃に落ちていった。
「少しだけ、一緒にお店を回ってくれないかな」
 期待を込めて父を見たが、尚も地区長に独占されていた。取り巻きも増えている。そんな時に、腕を引っ張って連れ回すことなんてできるはずがない。
「やっぱり、だめ」
 あの背中に届くには、この甘えを捨てなければならない。両手で頬を叩いて言い聞かせると、心なしか表情は凛々しくなった気がする。それに惹かれてか、先程すれ違った子供達がぽつんと座るアンズに声をかけてきた。
「お姉ちゃん、ジムリーダーのこどもでしょ?」
 一つか二つ下くらいの、甚平や化繊の派手な浴衣を着た少年少女四人がアンズの顔をまじまじと覗き込む。アンズは作ったばかりの表情をきりりと維持しながら、「そうだよ」と頷いた。子供たちの表情がたちまち明るくなる。
「じゃあ、忍者ってこと? 手裏剣なげられる?」
「もちろん」
 今度は自信たっぷりに頷いた。それはポケモンに触れる前からずっと訓練しているのだ。変装や煙幕だってお手の物。あとはポケモンの腕が上達すれば、立派なジムリーダーだ――そう続けようとした言葉を遮り、男の子がアンズの腕を引っ張った。
「お姉ちゃんをみこんでお願いがあります!」
 拙い依頼にアンズは目を丸くした。
 事情を聴いてみたところ、手裏剣を使った的当ての屋台がどうしても攻略できないと話題になっているという。この街のリーダーは代々忍者の家系だから、それが観光材料に使われることはままあり、それに便乗した手裏剣的当ての店は珍しくない。その軽率さを父親が嫌うので、アンズはこれまで一度もそのゲームに挑戦したことがなかったが、これはアイデンティティを確立する好機である。自分だって活躍できる。
 甘えや寂しさを捨てるように立ち上がると、キョウに連れ添いながらこちらの様子を窺っている弟子と目が合った。
「ちょっと、あっちのお店に行ってくる。すぐ戻るね」
 イトマルのボールを袂に入れ、子供たちと両手を繋いでいざ的当て屋へ。五メートル先にある「手裏剣道場」の看板を掛けた屋台の周囲にはぴりりと張り詰めた雰囲気が漂っており、部活帰りの野球部員たちが「絶対細工してる。的に当たらねえぞ」と文句を垂れながら店を去っていく。
 的当ては、移動式の的に風車型手裏剣を当てる射的に似たルールらしい。全部で二十九枚の的は大きさが異なっており、小さくなるほどトイガンやぬいぐるみなど、比較的豪華な景品と交換できる仕組みだ。回転する的の隣では、強面で体格の良い店主がパイプ椅子にふんぞり返っている。その反対側にはゴルダックも待機しており、客に文句を言わせないよう威嚇していた。
「ぼく、あの的に当たったのに刺さらなかったの。一番大きいの以外はそういうのあるみたい」
 店主に慄きつつ、男の子がアンズに耳打ちした。的は回転台の上を行き来しており、少年が狙ったものは投てき場所から見て十五センチ四方、子供でも比較的狙いやすい。
「おかしいね。あたいが当ててあげる」
 アンズは的を睨みながら、浴衣の袂からがま口の小銭入れを取り出した。
「一回五百円で三回投げられるぞ」
 店主はごく普段通り応対していたが、アンズに気付いて目の色を変えた。すると綿あめ屋の店主がやってきて、大声で要らぬ後押しをする。
「その子は忍者マスターのお嬢さんだぞ。こんなチンケな的当て、簡単にクリアしちまうって。なあ、アンズちゃん!」
 すると周囲を歩いていた人々が足を止め、好奇の視線がアンズの背中に注がれた。瞬く間に期待値が引き上げられ、アンズの唇がみるみる渇いていく。自立を覚悟した途端に、この大舞台はやや荷が重すぎる。
「ふうん。じゃ、全て命中させるのも朝飯前って訳だな」
 アンズの家系に便乗して商売をしている店主は、それを嘲笑うように鼻を鳴らす。父はこれを嫌悪していたのだ――いつ手裏剣的当ての店を横切る理由がはっきりと理解できた。挑発に乗ったアンズに、仇討に似た感情が湧き上がる。
「もちろん。なんたってあたいは……」
 ジムリーダーの娘であり、忍者の末裔なんだから。
 その気概を受けた店主が顎をしゃくってアンズを見下ろす。
「それじゃこうしよう。好きなだけ投げていいから、的に全て当てることが出来たら好きな景品をくれてやるよ。ミスは三回まで。失敗したら、投げた分の金を払ってもらうよ」
 本物の忍者がこの適当な的当てにやって来た事は彼にしてもいい宣伝になる。自信たっぷりに唇を捻じ曲げている表情が不気味だった。だがアンズにも腕には覚えがある。
「望むところだ」
 と、頷いて差し出された籠から手裏剣を一つ手に取った。興行向けの、厚みもない折り紙のような手裏剣だ。勢いつけて投げなければまず的には刺さらない。
「お姉ちゃん、頑張って」
 子供たちの声援に続いて、綿あめ屋の店主や敗退した野球部員たちも野太い声で後押ししてくれる。それは逆効果でしかなかったが、ゆっくりと深呼吸して的に視線を注いだ。外野は気にしない、それはきっと、これから習うバトルにおいても同じこと。もう一度息を吐くと、雑音が薄れ標的だけに意識が固定される。左足を少し上げながら力強く踏みしめ、身体を前に突き出しながら腕を振り下ろす――大人顔負けのオーバースローに撫子のかんざしが揺れ、狙った的の中央に星がとすんと突き刺さる。
「まずは一つ!」
 的を指すと同時に野次馬が沸く。振り向くとギャラリーの厚みが増していた。
「ちゃんと刺さった! すごい、さすが忍者だね」
 最前列ではしゃぐ子供たちの喜びように気が大きくなる。その勢いのまま、袂に入れたボールやがま口を脇に置いて次の手裏剣を手に取った。イトマルもこちらを応援してくれている。次に狙うは一番大きな的。立て続けに五枚抜きを決め、場を盛り立てる。
「そんなモン、後ろのちびでも落とせるぜ」
 店主がパイプ椅子にもたれ掛りながら悪態をついた。
「だから先に狙っておかなくちゃ」
 流れを掴んだアンズは怖気づく事がない。薄っぺらい手裏剣で狙い易い的を次々当てて行き、あっという間に残り半数を切った。
「ノーミスで十枚抜き! あと十三枚。すげえ、うちの部に来てくれねえかな」
「馬鹿だな、あの子は将来のジムリーダーだぞ」
 野球部員の会話が耳に心地よい。
 十七、十八枚目と続けて的に当てるごとに歓声は大きくなっていく。それと共にアンズの鬱屈も晴れた。ほんのひと時ではあるが、この瞬間は父に近付いたような気がする。自立の一歩を軸足に、二十枚目の的へ手裏剣を投げた。的は僅か直径十センチ。風を切り、袂と傍に置いたボール、ゴルダックの額の石が揺れる。その時、指から離れた瞬間に手裏剣が滑り、後方に立てかけている畳の上に刺さった。
「あれ……」
 アンズは思わぬ結果と違和感に唖然となる。
「外れ! あと二回までだな」
 店主が嬉しそうに声を弾ませ、突然のすっぽ抜けに周囲がどよめいた。
 振り下ろすように真っ直ぐ投げたはずなのに、まるで見当違いの場所へ飛んで行ってしまうなんて。アンズは動揺しつつ、すぐに次の手裏剣を取って投げた。命中。ギャラリーは再び盛り上がったが、二十二枚目の的で腕がぶれてまた外した。
 次を失敗すれば後がない。
 焦燥がアンズの集中を阻もうとする。深呼吸しながら、腕の振りを確認した。
「案外当てられねえんだな。二十枚程度なら、ちょっと上手い奴ならすぐ抜けるぜ」
 店主の挑発が更に気を乱す。これに続き、「急に崩れるね」と囁く野次馬の声に息苦しくなったが、確かに外すときは驚くほど身体がぶれる。それはアンズ以外に、脇に置いたボールに入っているイトマルも気付いているようだった。その違和感が、示すところはやはり。
「そのゴルダック、ボールに戻してもらっても?」
 確かな証拠はないが、念力で細工している可能性が高いと思った。当然、店主は顔を歪める。
「おいおい嬢ちゃん、後がなくなってきたからって言いがかりか? うちのゴルダックが小細工しているとでも?」
 サイドンを彷彿とさせる「こわいかお」。だが自分に懐かないいくつかの父の毒ポケモン、怒らせたときの父、それらの方がよほど恐ろしい。アンズは臆さずにはねのけた。
「疑ってません。ただ、そこにいるとポケモンが危ないと思います。また外したら当たるかもしれない」
「そうだ、そうだ! そんな所に立たせてちゃ疑われても仕方ねえ」
 綿あめ屋が援護射撃して、他の野次馬もそれに続いた。
 威嚇が通用しないと分かったテキヤは、眉間に皺を寄せながら舌打ちした後、ゴルダックに目配せして懐からボールを取り出す。何か指示を出したのかもしれない、とアンズの直感だった。サポートにイトマルを召喚すべきか悩んだが、それではこちらが疑われてしまう可能性がある。少し悩んで、一人手裏剣を手に取った。
 的は残り七枚。息を吸い込んで腕を高く振り上げる――小さな的の中央に星が突き刺さった。成功。後ろが沸く。
「当たった」
 細工はされていない。
 安堵しながら直径八センチまで縮んだ二十四、五枚目の的に命中させた。ここまで正確に当てることができるとは思ってもおらず、訓練を付けてくれた父に感謝した。
 ここまでくれば、針の穴だって抜ける。ジムリーダーの娘だと、確かに自覚することができるのだ。自信に急かされながらの二十六枚目。腕を振りかぶった刹那、二の腕に鈍痛が走って手裏剣は的に届く前に落下した。
「ラストチャンス!」
 唖然となるアンズに店主が追い打ちを掛ける。腕が攣ったのかもしれない。
「ちょっと待って、腕が……」
「また言いがかりか?」
 困惑と焦燥にかき乱され、平静を保とうとしたが場の雰囲気はそれを許さない。店主は勿論の事、完投を信じる野次馬の期待さえも重かった。あの子はジムリーダーの娘だからやってくれるはず――奮い立たせてくれた声援はみるみる毒へと変わる。蒸し暑い人ごみの中で、血の気が引いて寒気がした。
 痛みを押して手裏剣を掴んでも、最後まで投げ切れる可能性は低い。だがこの場にはそれを強行させる空気が流れている。無理だ、とは言えない。押し流される。華奢な背中がぐらりと揺れた。
 すると、後ろからそれを支えてくれるような声がした。
「何をしているんだ」
 即座に振り向くと、最前列にいた子供たちの後ろに人ごみを割って父と弟子が立っている。祭り装束や浴衣、甚平ばかりの群衆においてその佇まいは、今に生きる忍と呼ばれることを疑ってしまうほど異彩を放っていた。その雰囲気に圧倒され、周囲は徐々に静まり返る。
「父上」
 アンズは縋るようにそちらへ駆け寄り、動かない右腕を差し出した。
「二十九枚の的を全て当てる勝負をしているんですけど、腕が攣って投げられないんです。もう後がなくって……」
 キョウは痙攣する娘の袂と店主を交互に睨んだ。萎縮する店主がボールに戻していたゴルダックをその場に繰り出し、盾にしながら唾を飛ばす。彼の専門は毒タイプだから、実力差はあれど武器にはなると踏んだのだろう。
「疑ってんのかァ?」
「“みらいよち”で妨害するくらいなら的の裏に鉄板でも仕込んだらどうだ。悪質極まりない」
 するとキョウは娘を引き寄せ、右の袂を二の腕までまくり上げた。白い肌に筆で塗ったような青痣が浮かんでいる。ゴルダックを一旦ボールに戻す際に交わした目配せは、その合図だったのだろう。それ以外にも念力で細工をしていた可能性がある。アンズは痛みも忘れ「いんちきだ!」と金切声を上げた。
 その場は騒然となり、非難の目が一斉に店主へと向けられる。証拠はあるのか、と彼が反発する前にキョウがマルノームのボールを掲げた。
「では“アンコール”しようか」
 そうすれば最後に繰り出した技が群衆の前に曝け出される。その鋭い眼光に射竦められれば店主は一切の抵抗が頭から消し飛んだ。プロの前に、これ以上の小細工は無用だ。悟った店主は歯噛みし、ゴルダックを前へ押しやりながら屋台の裏へと身を翻す。つんのめったゴルダックが投てき場所のカウンターを薙ぎ倒す、その動作に合わせながらキョウの足元から現れたゲンガーが主に手裏剣を投げ渡しつつ目の前の敵を催眠術で封じ込めた。
 囮にも成り得ることなくゴルダックが崩れ落ちれば、キョウの正面には背を向けて店の裏へ逃げ込もうとする店主しかいない。彼は右手に手裏剣を滑らせると、身体を捻りながら浮かせた左足を踏み込んで、力強く右腕を投げ下ろす。叩きつけるように投じた手裏剣はまっすぐ伸びながら店主が首に巻いたタオルと畳の壁を繋ぎ留め、逃亡を防いだ。深く突き刺さった刃物は安く仕入れた紛い物ではない。携帯している護身用の武器だ。
 店主は腰が抜けたまま、壁にぶら下がっていた。キョウは特に声をかけることもなく、硬直したままの弟子を冷たい視線で小突いた。
「運営に通報します!」
 我に返った弟子が携帯電話を開きながら店主へ駆け寄り、綿あめ屋をはじめとする恰幅の良い男たちが手助けに動いた。祭りは徐々に喧騒を取り戻していく。それには称賛の拍手も多く混じっていて、アンズの耳朶がほのかに熱を帯びた。ぽかんと立ち尽くしていると、父が左手を引く。
「行くぞ」
 キョウは群衆に会釈し、弟子に後を任せて救護テントへ歩き出す。畳に刺さった手裏剣を回収したゲンガーが足元の陰に紛れ込み、父との間にひんやりと冷気が漂う。ゲンガーが潜んでいる部屋は気温が五度下がると言われているが、どうやら真実のようである。
 前を行く冷たい背中はやはり遥か遠くを歩いている。それを思い知らされると、せめて的当ては完投すべきだったと後悔が滲んだ。たとえ失敗しても、何かが少しだけ変わったかもしれない。

「あと三枚だったのに……」
 救護テントについたアンズは医療ボランティアの手当てを受けながらこっそりと呟いた。だが傍にいた父の耳にはしっかり届いており、キョウは呆れたように息を吐く。
「それだけ腫れているんだぞ。無理強いして、大事になったらどうする」
 そうそう、と処置を終えたボランティアが頷き、キョウに報告して席を離れる。幸い、軽い打撲だったのですぐにテントから離れても問題ないようだ。明日、念のため病院へ行く話を耳にしてアンズは更に肩を落とした。テントの外に広がる祭りの情景が遠くなる。
「それにしても」
 見かねた父が腰をかがめて曇った顔を覗き込んだ。
「あれだけの観客に囲まれての大健闘、見事だった。既に度胸はプロ顔負けだな」
 その笑顔に、目標の背中の先を見た気がする。
 アンズにとって、飛び跳ねた心臓が目を押し出してしまいそうなくらいの驚きだった。息を止めたまま、「ありがとうございます」と返事を編み出す事さえできない。頭痛がするほど頷いて、じわじわと込み上げてくる喜びをかき抱いた。これは大きなはじまりの第一歩だ。
 アンズがたまらずに破顔すると、その反動か腹の音が鳴る。的当てに向かう前にあまり食べ物を口にしておらず、差し入れを休憩所に置いてきたことを思い出した。きまりが悪そうに俯く娘を見たキョウが膝を上げる。
「あいつは暫く戻ってこないだろう。その間、適当に屋台を回って腹ごしらえでもするか」
 このまま弟子の帰還を待って挨拶回りに戻るのかと思っていたアンズは二度目の驚きを見せた。今度は余韻がない。こんな機会は滅多にないので、戸惑っている暇はないのだ。
「やったー!」
 子供っぽいかんざしを揺らしながら立ち上がり、予想以上の反応に目を見張っていた父の腕を引いてテントを飛び出す。最初に行きたい店は既に決まっていた。
「あんず飴の店ではじゃんけんに勝ったら一つ多く貰えるそうなんです。父上、半分こしましょう。今度こそ絶対勝たなきゃ! その次は大判焼き、かき氷とラムネ、あと甘栗と飴玉もお土産に」
「菓子ばかりじゃないか……まあいいだろう」
 ぐいぐいと親を先導する娘の横顔は年相応の子供だ。気付けば腕ではなく掌を引っ張られている。そんな姿に、キョウも今夜ばかりはその甘えを咎めることを控えることにした。足元に潜むゲンガーに視線をやると、影は白い歯を見せ、にんまりと微笑んだ。
 ポケモン連れ、恋人同士、地元仲間。様々な人々が行き交う賑やかな祭り屋台の間を一組の親子が早足で通り過ぎ、やがて鮮やかな提灯の光の中へと紛れていく。

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