ショートケーキ・メモリーズ

 その試練は、ジム挑戦者のように突然やってきた。
「ねえパパ、急なお願いで悪いんだけど、明日の洗濯とハルカの送迎をお願いしてもいいかしら。パート先から早出をお願いされちゃって。担当のパートさんが急に来れなくなったみたいなの。夕飯には間に合う時間に帰ってくるから、それだけ頼みたいんだけど」
 ダイニングテーブルの向かいで妻が箸を置き、神妙な面持ちでセンリに尋ねる。彼は端に座ってご飯を頬張る娘を気に掛けつつ、二つ返事で頷いた。
「構わないよ」
「ありがとう、助かるわ。朝ご飯は準備していくからね」
 妻が微笑み、箸を持ち直す。
 センリはジムトレーナーとして周囲からの評価も高く、リーダーの兆しも見えてきたとはいえ、まだ収入が少ないアマチュアトレーナーの身分。娘のハルカを保育園に通わせ、妻にはパートで家計を助けてもらいながらアサギシティにある1LDKの賃貸アパートで家族三人暮らしている。妻の厚意に甘えて時間を逆算していくと、彼女には更なる負担を強いることになる。センリはやんわりと申し出を断った。
「朝は適当に食べていくし、夕飯は出来合いでも構わないよ。保育園の帰りに惣菜を買ってこようか」
 彼女の表情がたちまち和らいだ。やはり食事の用意があるかどうかでは、負担の大きさが違うようだ。料理は手馴れていないので若干の不安はあるが、朝食程度ならば問題ないとセンリは楽観視する。
「それも助かるわ。トーストと、スクランブルエッグでも作って。冷蔵庫にヨーグルトもあるからね」
 彼女は夫が悩まぬよう簡単なメニューを提案した後、夫婦のやり取りを不思議そうに眺めているハルカに顔を傾けた。
「ハルカ、明日はパパと保育園に行くのよ。お利口にしててね」
「ママは?」
 大きな瞳が不安げに揺れる。センリは柔らかな笑みを向けて、それを払拭した。
「ママは朝からお仕事なんだ。だから明日はパパと保育園に行こう」
「うん、わかった!」
 幼い娘は元気に首を縦に振る。
 この春から保育園に通い始めた三歳児は、好奇心旺盛なやんちゃ娘だ。二人きりになることは少なかったが、昔から自分に甘えてばかりだし、きっと明日も滞りなく登園できるだろう。センリはそう信じ、慣れない家事の手順を重点的に確認しておくことにした。朝の身支度の時間は限られている。ポケモンのトレーニングメニューを考えるように、頭の中で無駄のないフローを再現してその時に挑むことにした。

 朝六時半前。
 目覚ましが鳴る前にベッドから起床する。センリの隣にはハルカが身体を丸めたまま眠っていた。その向かいには妻はおらず、リビングからも気配が感じられない。先に家を出たようだ。センリは目覚ましを解除すると、ハルカがベッドから落下しないようにそっと壁際へ寄せ反対側を枕で塞き止めて寝室を出る。パジャマ姿のままキッチンに向かい、食器棚の上にある籠から食パンを二枚取ってオーブンのトーストモードで五分加熱。この間に脱衣所へ行って汚れ物を洗濯機に放り込み、スイッチを押した。この賃貸アパートでは妻が家を出る早朝から洗濯機を回せない。
 運転を確認し、キッチンへ戻ってスクランブルエッグの用意をする。卵を三個、ボウルに割りいれ牛乳を加え醤油を一垂らし。これが妻のレシピだ。バターを熱したフライパンに卵液を入れ、さっとかき混ぜ半熟のまま皿に移す。黄金色に輝く、焦げ付きのないスクランブルエッグの出来を称賛するように、オーブンが過熱完了の音を鳴らした。ここまで無駄のない完璧な手順。ジムリーダーを目指し、堅実にキャリアを重ねる男を象徴するようでもある。
 ダイニングテーブルを拭いて朝食を並べていると、寝室の扉が少し開いて、崩れそうな面持ちのハルカが頭を出した。七時に起こそうと思っていたセンリは目を見張る。
「ママがいない」
 ハルカが寝癖がついた髪を揺らしながら近寄ってくる。センリはその場にしゃがみこんで娘の目線に合わせると、穏やかに言い聞かせようとした。
「昨日言ったよね? ママはお仕事で……」
「ママに“いってらっしゃい”したかった……」
 子供らしい不満が芽生えると、簡単に払拭するのは難しい。大きな瞳がみるみる潤み始めたので、センリは慌てて代替案を切り出した。
「それは残念だね。でもママはもう行っちゃったから、“お帰りなさい”でお出迎えできるようにしよう。ママもきっと喜んでくれるよ。そのためには朝ご飯をしっかり食べて、保育園に行かないと」
 それで一応は納得したらしい。眉間に皺を寄せたまま頷き、重たい瞼を擦りながら子供用の椅子によじ登るハルカを促しながら、意識を完全に朝食へ向けさせる。
「ほら、朝ご飯出来てるよ。ぜーんぶパパが作ったんだよ」
 得意げに胸を張ると、ハルカは艶やかなスクランブルエッグを前に歓声を上げる。
「パパすごい! ママみたい」
 潤んでいた瞳がアサギの浜辺のようにきらきらと瞬いた。その一言でセンリはジムバトルの勝利に似た達成感を掴んだが、娘は父を余韻に浸らせる間も与えず、テーブルの中央に置かれていたケチャップを押し付けてきた。
「パパ、ケチャップでアチャモ描いて」
 ハルカは卵料理にケチャップで絵を描くのが好きだ。日頃は自分でおぼつかない丸を描くのに精いっぱいなのに、何故かこの日は自分にねだる。センリはその要求と題材になったポケモンに二度困惑した。
「アチャモ? イーブイとかピッピはどうかな。ノーマルタイプは可愛いよ」
 ノーマルポケモン使いのセミプロとして、血を分けたばかりの娘が他属性に肩入れするのは少しばかり不服である。出生前に性別が判明した際は、ここぞとばかりノーマルポケモンをモチーフとした愛らしいベビーグッズを買い込んだ。そこまですれば子供の趣向にも影響するはずなのに、ハルカはノーマルタイプに肩入れすることなく、どのポケモンも万遍なく興味を持っている。
「やだ、アチャモがいい。ケチャップの色に合うもん」
 三歳児ながら、意志の固さは自分に引けを取らない。こちらに黒い眼差しを向けながら、逃げ場を無くす念押しをした。
「アチャモ」
 センリに選択権はない。
「はい」
 と頷いて、渋々スクランブルエッグの上に歪んだアチャモの絵を乗せた。反発するように自分の方にプリンを描いてみたが、期待したような反応は得られず、妻直伝の傑作がケチャップの甘さにかき消されて終わった。
 不満を口にしているうちに、時刻は七時半に迫ろうとしていた。八時十五分過ぎに家を出なければ、登園と出勤に遅れてしまう。ずれ込む予定に焦りながら、センリは食器を片付けハルカをトイレに促した。
「ハルカ、トイレが終わったら自分でお着替えするんだよ」
 キッチンで忙しく食器を洗う父を尻目に、ハルカはリビング隅のキッズスペースでのんびりと洋服を選んでいる。部屋の収納が足りないので、そこには衣装ケースやおもちゃ箱などが積まれており、自室がないハルカのパーソナルスペースでもあった。
「どれにしようかなー」
 衣装ケースから洋服を出し散らかしながら、ハルカは姿見を前にうんうんと服装を決めかねている。このまま見守っていては外出時の妻と同じくらい、支度に時間をかけてしまうだろう。センリはそちらへ駆け寄ると、散らばったピンク色の服をかき集めながらコーディネートを提案する。デザインはもれなくノーマルポケモンだ。
「この間買ってあげたプリンのシャツはどう? エネコ柄のスカートも……」
 ハルカはそちらには見向きもせず、本棚から出したイッシュのアニメ絵本を開くと、そこに登場するキャラクターの格好に似た服を引っ張り出した。オレンジのブラウスに、ふわりと揺れる黒いスカート。
「やっぱり、今日は“メロエッタ姫”みたいにする」
 半年前にそのアニメ映画を見て以来、ハルカはそのキャラクターに憧れている。そうなればどのノーマルタイプもエスパー属性のプリンセスには太刀打ちできない。彼女は呆れる父親の横でぎこちなく着替えを済ませると、絵本を突きつけヘアアレンジを要求する。
「パパ、髪やってー。ステップフォルムがいいな」
 絵本の見開きに髪をターバンのように頭に巻きつけたメロエッタ姫が舞踏会で踊っていた。一つ結びにして頭頂に盛るのだろうが、どうやって固定すればよいのか見当もつかない。日頃使っているグリースをもってしても、固めるのはきっと困難だ。
「これどうやるの? パパとしてはボイスフォルムでお願いしたいんだが」
「分かんない。でもステップフォルムの方が可愛いもん」
 ハルカは首を傾けながらもボイスフォルムは受け入れない。主張をし始め、意見をはっきりと言葉で編み出せない三歳児をコントロールするのは難しい。家事の流れは完璧だったのに、これほど子供が思うようにならないとは。頭を痛めるセンリを時計の針は待たずに進み続ける。これから洗濯物を干さなければならないのに――こんな時、妻ならどうするのだろうと考える。ハルカは様々な髪型を楽しんでいるが、中でも肩まで伸びた髪を頭の両端で結んでいることが多い。それなら仕組みは分かるので、自分にもできるような気がした。
「ハルカにはミミロップのような髪型のほうが似合うと思うなあ」
 あの髪型の名称が分からないのでポケモンの名前を出してみる。ハルカが「ミミたん?」と興味を示すようにこちらの顔を覗き込んだ。自分の手持ちの名を出せば、自然と意識はそちらへ向くのだ。
「見てみるかい?」
 仕事用のショルダーバッグからモンスターボールを一つ掴んで、顔の前で放り投げる。センリとハルカの間を割って、柔らかな毛並みのミミロップが軽やかに身を捻って現れた。リビングの窓から差す朝日にクリーム色の両耳が艶めき、ポケモンの魅力を一層引き立てると、少女の心は鷲掴みだ。
「ハルカもおなじのにする!」
 ハルカは頬を染めながら興奮気味に洗面台へ駆けると、踏み台に上ってふわふわした毛糸のシュシュや櫛を用意して父を待つ。センリは誇らしげに耳をつまむミミロップと肩まで伸びたハルカの髪を見比べた後、妻の動きを思い返しながら耳上で髪束を持ち上げてみるが、うなじの上で膨らんでしまって思うようにまとまらない。
「意外と難しい……」
 自身のグリースやヘアスプレーを駆使し、十分近くかかってミミロップヘアを完成させたものの、ポケモンの柔らかな耳には程遠いつららのような硬い質感に仕上がってしまった。それでも娘は満足げである。踏み台から飛び降りると、少しも揺れない髪をミミロップに見せつけながらリビングへと向かう。
「パパ、ミミたんとテレビ見ていい?」
「いいよ、保育園に行くまでね」
 センリは運転を終えた洗濯機から衣類を取り出しながら、疲労を溜めた息を吐く。リビングから「はーい」と弾んだ声がした。朝から娘に振り回されていきなり困憊してしまったが、まだやるべきことは残っているのだ。手間取りながらもベランダに三人分の洗濯物を干し、女性物の下着をレースカーテンの裏にかけてリビングに戻るとハルカは幼児向け番組の体操シーンに合わせてミミロップとソファの上でぴょんぴょん跳ねている。テレビ脇の置時計は八時二十分を過ぎていた。ここから歩いて十五分の保育園に立ち寄り、九時始業の職場に到着するにはもう家を出なければ間に合わない。今朝は普段通り十五分前に出勤するのは不可能だ。
「ハルカ、そろそろ出ないとパパが仕事に間に合わないよ!」
 センリはミミロップをボールに戻し、ショルダーバッグを掴んで娘を玄関へと手招きする。ハルカはソファの上に立ったまま、不思議そうにこちらを見つめていた。
「パパはパジャマのままお仕事へ行くの?」
「あっ」
 言われて気付いたが、子供にかまけて自分の身支度を忘れていた。
 
 そこから慌てて支度して、玄関を出たのは八時三十分である。幼いハルカを急き立てながら保育園に走っても、ジムは間に合わない。自転車は妻が乗って行った。職場に遅刻の旨を連絡すべきか――敗北はまだ認めたくなかった。逆境に立たされるほど、高みを目指す闘争心が燃え上がる。
「こうなったら!」
 彼はショルダーバッグからモンスターボールを一つ選んで横投げすると、現れたケンタロスの背にハルカを抱えて飛び乗った。
「行くぞ、ケンタロス!」
 脇を軽く叩くなり、ケンタロスがアパート二階の廊下を踏み上げ、外の道路へ跳躍する。衝撃で浮いた娘を自分の前へ座らせ、ケンタロスを保育園目指して駆けさせた。初夏の風を切って走ると、道路脇の新緑が帯状になって後ろへ流れていく。潮風に混じる爽やかな草木の香りが心地良い。すれ違う人や車が感心するように次々と振り向くので、ハルカは後ろを気にしながらたまらずに足をばたつかせた。
「すごーい、はやーい!」
「パパのケンタロスはアサギで一番速いからね。ギャロップにだって……」
「パパ、後ろから誰か追ってくる!」
 残り五分足らずの直線を走れば保育園――というところで、ちらちらと後方を振り返っていたハルカが腰を浮かせた。そちらに目をやると、ケンタロスの速さに焚きつけられたオニドリルが通行人や車を押しのけこちらへ飛んできた。その足にはトレーナーが掴まっており、さながら低空飛行のハングライダーだ。周囲のクラクションや怒鳴り声を蹴散らしながら、こちらへ一心不乱に向かってくる。
「いるんだ、ああやって無理やり前に出ようと周囲に迷惑を掛けるトレーナーが」
 センリは呆れるように短く息を吐いた。
「ハルカは人を強引に押しのけてまで前に出ようなんて思っちゃいけないよ。しっかり頑張れば、自然と先へ行けるものだから」
 子供向けに咀嚼せず出た言葉はハルカにとって完全に理解できるものではなかったが、輪郭だけは汲み取れたらしい。彼女は「うん」とはっきり返事した。加速をかけるオニドリルの鼻先へ、センリがボールを放り投げる。立ち塞がるミミロップがオニドリルを睨みつけながら攻撃を促した。
「お先にどうぞ」
 その先には手痛い「しっぺ返し」を企むケンタロスが先を走りながら待ち構えている。鍛え抜かれたノーマルポケモンの迫力と、センリの場馴れした気配をようやく察したトレーナーはとんぼ返りで脇道へと逸れて行った。強引に前へ出る者など、その程度の実力なのだ。センリは呆れつつ、目的地に意識を向けることにした。
 保育園に到着したのはそれから僅か二分後である。
「あら、今朝はパパさんでしたか」
 保育園の前を掃除していた保育士の女性が、やってきたセンリを見て珍しげな反応を見せた。思えば先月の入園式以来、一度も娘の送迎をしたことがない。朝は何もかも妻任せである。センリはそれを思い知らされつつハルカを差し出そうとしたが、彼女はスカートの端を握りしめたまま門の前で微動だにしない。
「やだ、お別れしたくない」
 潤んだ瞳の表面が揺れている。保育士が微笑んだ。
「今朝は初めてパパと一緒に登園したものね、仕方ないわね」
 朝から手を焼いてきただけに、こちらも名残惜しくて胸が痛む。センリは娘の元へ歩み寄り、傍に抱き寄せて別れを告げようとしたが――ハルカは門の外に待機しているミミロップとケンタロスの元へ駆けて行き、二匹を抱いて泣き喚いた。
「ケンちゃん、ミミたんとお別れしたくないのー! ずっといっしょにいるう!」
「パパは?」
 
 その後、疲れ果てたまま職場に向かい、始業三分前にタイムカードを打刻することで遅刻は免れたものの、毎日十五分前には出勤する几帳面が子供に振り回されたことは話題となり、その日一日は同僚たちに囃し立てられた。少し早めに退勤する際も、「パパ、お迎え頑張って」と見送られたことは言うまでもない。居心地の悪いジムから逃げ出すように保育園へ向かうと、涼しげな風に背中を押され、足取りはすぐに軽くなった。
「パパ、おかえりー!」
 四時過ぎに保育園に到着すると、登園時に喚き散らしていたハルカがまるで別人のような満面の笑みで出迎えてくれた。泣く泣く別れたポケモンのことはすっかり忘れてしまっているらしい。
「ただいま」
 センリは複雑な心境で、上り口の前に屈みこむ。そこへハルカが飛び込んできた。かちかちに固めた髪は遊び疲れて崩れかけており、問題なく過ごせたことを悟って安堵する。いつもはアパートの玄関で出迎えてくれる笑顔しか見ないから、保育園を楽しんだばかりの表情は新鮮だ。通園用の荷物を受け取り、保育士に礼を言って園を出る。ハルカは斜めに下げた通園バッグを揺らしながら、嬉しそうに門を飛び出した。
「今日ねー、ケンちゃんに乗って保育園に来たって言ったら、みんなすごーいってびっくりしてたよ。帰りもケンちゃん?」
「ううん。急いでないから歩いて帰ろうよ」
 ハルカは不満げに眉を寄せていたが、右手を差し出すと素直に手を繋いで歩いてくれた。暮れ始めたアサギの街並みを、湿った潮風が通り抜ける。穏やかな空気感がポケモンバトルで擦り減らした心を和らげ、余裕を持ってハルカに接することができる気がした。
「スーパーに寄ってご飯買おうね。ハルカは何食べたい?」
「パパのすくぶらんぐるえっぐ」
「もうアチャモは描かないよ」
「なんでー」
 卵は朝食で使い切ってしまったから、一パック買い足す必要がある。センリはハルカと繋いだ手を揺らしながら、それを記憶に刻み付けた。パートの妻が毎日これに追われていると考えると、頭が上がらない。不安定なポケモントレーナーという仕事を続けられるのも、彼女の支えがあってこそだ。そんな事を考えながらスーパーへと続く商店街の道を歩いていると、視線の先に洒落たケーキ屋が目についた。コガネシティで修行した若手パティシエが最近構えた店で、評判がいいらしいと、妻が話していたことを思い出す。
「ママへのお土産にケーキを買っていこうか。ハルカも好きなの選んでいいよ」
 そう提案すると、ハルカは「やったー!」と両手を上げてケーキ屋へと駆けていく。慌てて後を追って店へ飛び込んだが、幸い他の客はおらず、ショーケース越しに微笑む女性店員が一人いるばかりでさして迷惑にはならなかった。店内は客が五人も入れば肩が触れるほどの狭さである。ハルカは小さなショーケースにかじりつき、色とりどりのケーキを吟味していた。
「ハルカはいちごタルトがいい」
 瑞々しい苺がたっぷりと盛られた小さな丸いタルトは、店内の照明を浴びて一際鮮やかに輝いていた。これが最も子供の目を引く。次は妻のケーキを選ばなければならないが――
「ママは何が好きだっけ」
 交際中、デート先で食べたケーキの種類が出てこない。そもそもどこで何を食べたのかすら曖昧だ。自らの無関心さに愕然としていると、ハルカがショーケースの中央を指して微笑んだ。
「ママはいちごのショートケーキが好きって言ってたよ」
 センリは娘の記憶力に心から感謝し、胸を撫で下ろしながら苺タルトとショートケーキを注文する。
「パパは? どれが好き?」
 甘い物はあまり口にしないので、無意識のうちに自分の分を外していたことを不思議に思ったハルカが首を傾げる。そうだ、三人でケーキを食べよう――思い直してショーケースを見た。白く輝く舞台の上に、心が弾む甘い宝石たちが並んでいる。甘さを抑えたプリンやチーズケーキなどにも惹かれる中、少し考えてセンリは一つ選びだした。
「それじゃあ……」

 
 購入間もないダイニングテーブルの上に、アイボリーの皿に乗せられた苺のショートケーキが置かれる。
「どうしたの、これ。珍しいな」
 夕食を終えたばかりのセンリは頼んでもいないデザートの登場に目を丸くした。妻は対面型のキッチンの向こうで紅茶を用意しながら、悪戯っぽく微笑んだ。
「ハルカがパパに勝ったお祝い。ショートケーキ、好きなんでしょう」
 仕事を終えてミシロタウンの新居へ帰宅した時は何も言わなかったが、妻は娘がトウカジムに挑戦しバッジを取得したことを知っているようだ。ジムの帰りにハルカがここへ寄って報告したのかもしれない。彼女はそのまま別の街へ向かい、ポケモントレーナーの旅を続けている。
「参ったな」
 センリは溜め息をつきながら椅子の背にもたれ掛った。
「冗談よ。お疲れ様でした」
 テーブルの反対側に妻が腰を下ろし、淹れたての紅茶を差し出した。彼女の前にも同じショートケーキが置かれている。
「少し前までは手がかかる子だったのに、今じゃあんなに立派になって。七年で追い抜かれるとは思わなかったよ」
 こんなふうにテーブルを囲んでケーキを食べた七年前が、あっという間の思い出だ。
 滑らかなクリームにフォークを刺し、一口大に切ったケーキを口に含んだ。苦労してジムリーダーとして身を立てたのにトレーナーになって間もない娘に負けた悔しさが喉の奥に残って、まるで味を感じない。帰宅から影を落とすセンリの顔を、妻が覗き込んだ。
「あら、もう親の役目は終わりだなんて思ってる? あの子、まだ十歳よ。トレーナーとしては一人前かもしれないけど、まだまだ子供だから」
 そう言って彼女は朗らかに笑いかけた。
「これからもよろしくね」
 妻の静かな支えを思うと、節目のささくれがとても些細なことのように感じられる。
「こちらこそ」
 微笑み返して次のケーキを口に含む。解けるような甘さが身体じゅうへと染み渡った。

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