イン・ザ・ボトル

 ユキメノコは決意した。
 今こそ四十年間企んでいる計画を実現するときだ。

 竹林から漏れる早朝の日差しは強く、いかりの湖に反射する光の粒に飲み込まれてしまいそうだ。三十年前の同じ日の同じ時間は随分と涼しく、控えめに輝く湖面がとても綺麗だった。積雪の照り返しにも似ていたから、大嫌いな夏なのに少しだけ冬を感じて心が弾んだ。
 だが、年を重ねるたびに気温は上がり、最近は盛夏になると堪えられない息苦しさだ。皮膚から汗が噴き出して、外に放置したアイスキャンディみたいに一瞬で溶けてなくなりそうになる。昔は悪くなかった夏の月曜の朝が、今は嫌で仕方がない。
 それなのに、あのひとは決まって自分達を外に連れ出す。月曜の朝の特訓はルーティンだと言い張って、氷の楽園であるジムを出ていくのだ。その度に、ユキメノコはじめとするチョウジジムのこおりポケモン達はがっくりと肩を落として浮かない顔だ。いや、実際には自分以外はさほど嫌ではなさそうだけど、きっと態度に出さないだけでみんな苦痛なのだと思っている。
 これほど暑くては訓練なんてやってられない。ありったけの力を使ってバトルフィールドを凍りつかせても端から溶けていく。それなのにあのひとは、水色のストールを凍える風に揺らしながら涼しい顔。
 日焼けを知らない白い肌に柔らかな銀色の髪、紺色のリネンシャツにベージュのチノパン。肩から垂れたストールがなびくたび、風を纏っているみたいで心地良さそう。
「年々、暑さが増すな」
 そんな言葉も嘘みたい。
 人間は年を取ると気温の変化に鈍くなるらしいが、それを考慮してもとても爽やかだ。猛暑なのに、そこだけ綺麗な氷像が立っている。どんなこおりポケモンよりもそれらしい。
 だから、ユキメノコは決意した。

 今こそ彼を攫うとき。
 初めて出会った時から、その氷の彫刻に似た佇まいが気に入ってワザと捕まってやった。いつか雪山の「実家」に並んでいるコレクションに彼を加えるため、四十年も連れ添った。こんなに時間が掛かっているのは、一番美しい姿で残すために時期を窺っているからだ。まだ味わいが増す気がするし、その間にもっとバトルに勝たせてくれる気がする。彼は優しいばかりでなく、社会的地位も高くて暮らしは裕福、こおりポケモン専用に造られたジムは居心地がいい。不満なのは三十年前から続けている、夏の月曜のトレーニングだけ。でも、あまりに暑いから許せないのだ。溶けかけているのを横目に訓練を強いる、あのひとが憎い!
「さて、この辺で練習を切り上げて朝食にしようか」
 苦痛の二時間が終わり、彼は湖のそばにあるいつものオープンカフェへ歩いていく。
 早朝に家を出ていかりの湖で練習を行い、この店で朝食をとるのが決まった流れだ。そこではポケモンもおこぼれに与れる。ユキメノコもそこのベーグルが大好きだが、体力を消費し疲労している間に仕留めなければ彼を攫えない。四十年の間に培った技術を以ってすれば、人間くらいスムーズに捕えられる。ベーグルの食べ収めができないことは心残りだが、前を歩く無防備な背中を見ていると「実家」のコレクションに並べたい衝動が湧き上がる。
 彼を飾る場所は四十年前から空けている。雪山の遭難者、登山者が見捨てた手持ちポケモン達、吹雪の中で死にかけていた野生種――それら気に入った獲物を氷漬けして「実家」の岩壁に彫刻みたいにぐるりと並べ、中央に彼を配置するつもりだ。これは彼と行った美術館のレイアウトを参考にしている。気に入ったらなんでも真似するタチで、それをポケモンバトルにも応用していたら、いつの間にか彼の右腕になっていた。本当の実力ならマンムーが上だが、自分は右であの子が左腕。別に問題ないでしょ。
 これからはあなたがわたしのモノになる番。
 数歩先をゆっくりと進む、涼しげな背中をそのままずっと残しておきたい。美味しい朝食に勝利の喜び、「実家」より居心地のいいジムも捨てがたいけど、これ以上、暑い月曜日は過ごしたくないのだ。
 だから、ごめんなさい。あなたを連れて「実家」に帰らせていただきます。
 ユキメノコは両手を広げ、雪風を纏う。暑さでとろけていた皮膚がぱきぱきと凍りつき、掌から生まれたふぶきが膨らんでいく。いかりの湖の重たい湿気を押しのけ、辺りの気温を引き下げたとき、彼が振り向いた。 
「ユキメノコ」
 水色のストールがふわりとひらめく。ユキメノコは作りかけのふぶきを握り潰した。
「お前の好きな白いベーグルがあるようだよ」
 そう言って彼は目と鼻の先にある、オープンカフェの黒板を指さした。そこは日替わりのモーニングをイラストで知らせているので、老眼の彼や文字が読めないユキメノコでも分かりやすい。今日の日替わりはクランベリー入りのホワイトチョコベーグル。ユキメノコが世界で一番美味しいと信じてやまないベーグルだ。ここ最近は月曜の日替わりで出ることが少なく、これを食べずして計画を実行することはできない。仕方ないが、彼を攫うのは後回しだ。
 
「おはようございます、ヤナギさん。お待ちしておりました」
 店に入ると出迎えてくれるのは彼の弟子達くらい若いオスの店長だ。カフェの二代目で、先代は彼の同級生。その時は色あせた喫茶店だったのに、数年前に息子が継いで雰囲気がガラリと変わった。時々出かけるコガネやヤマブキにありそうな洗練された佇まいが、古ぼけたチョウジの町の中では浮いている。
 それを彼は何の疑問もなく受け入れている。その名と同じく、風になびく柳のように時代に身を任せて生きてきたから、今も現役のトレーナーとして活躍していられるのだ。彼は年老いているようで古くない。
 他に客が居ないテラス席の一つに通された彼は、レモンを浮かべた水に口を付けながら爽やかな息を吐く。
「朝早くなのに蒸すねえ。ポケモンもバテているよ。真夏の間は訓練を休もうかな」
 それ、本当?
 ユキメノコは大きなつり目を見開いた。悪夢の月曜の朝が終わるのなら、あの企みは凍結だ。でも、彼が三十年近く続けたルーティンを今更辞めるとは思えない。それで本業に支障が出たら、きっとまた再開するに決まっている。ポケモントレーナーとはそんな些細なことを気にする性分なのだ。ユキメノコは何でもお見通しである。えへん、と鼻を鳴らすと店長がこちらを見て、彼に苦笑する。
「ご無理なさらず」
 彼は微笑みを返し、メニューに視線を移す。
「私は日替わり。それと、この子にベーグルを」
 自分のモーニングを注文し、連れ歩くポケモンに一品頼む。いつもの流れが終わろうとした時、彼はメニューの下にもう一枚、紙が挟まっていることに気がついた。ユキメノコは文字が読めないが、それはきっとこの店の季節限定メニューである。春だけ、夏だけのベーグルやポフィンが写真付きで紹介されているのだ。でも、残念ながら今回は人間向けの商品みたいだ。
「自家製のジンジャーエール……初めて見るね」
「蒸し暑いと炭酸で喉を潤したくなると思って。この夏のイチオシです」
 店長が誇らしげに片目を瞑る。彼は基本的にこの店で勧められたものを断らない。柳みたいにさらりと頷く。
「じゃあ、それをいただこうかな。ビールにはまだ早い時間だからね」
「この町のジムリーダー、ヤナギさんのご用命とあらばお出しできますよ」
 二人はちょっと笑いあった。ユキメノコは置いてけぼりだ。自分が人間だったら、すぐにビールを持ってきてあげるのに。そしたら彼は目尻の皺を広げながら、喜んでくれるに違いない。店長ってば気が利かないわ。
 やっぱり、彼はわたしの「実家」へ来た方が不自由しない。

「お待たせしました。お先に、自家製ジンジャーエールです」
 季節の飲み物はすぐにやってきた。
 手織りのコースターを敷き、その上に乗せたのは取っ手が生えた蓋付きの瓶。金属の蓋の上から、ストローがにょきっと伸びている。グラスなのか、瓶なのか分からない。
「生姜を漬け込んだキャニスターに炭酸を注いでいるみたいだね」
 興味深くグラスらしき瓶を覗き込む彼に、店長がひやひやしながら眉を動かした。
「お行儀が悪そうに見えますか?」
「そんなこと」
 老練なジムリーダー、ヤナギはこの程度では咎めなくてよ。
「メイソンジャーというものです。このカジュアルな見た目がお洒落だと、若い女の子に好評なんですよ」
「ふうん。覚えておいた方がよさそうだ」
 彼は冗談っぽく笑いながら、もう一度「グラス瓶」を覗き込む。つられてユキメノコも背伸びした。
 黄金色をした、きらきらの泡の向こうにあなたが浮かぶ。朝日に揺れる銀色の髪は輝きを増し、レモンの輪切りや氷に透かした白い肌はとても瑞々しい。金色の水晶の中に世界で一番美しい冬を閉じ込めた様。
 これだ、とユキメノコは確信した。
 あなたを飾っておくならこれしかない。
 手順としては「グラス瓶」の中に浮かぶブロックアイスのように彼を凍らせ、「実家」に集めている貴金属、ジムにあるメダルや貰い物の宝飾品を混ぜて巨大な氷で包むのだ。泡のしゅわしゅわはどう表現しよう。中を空洞にして、念力で浮かせようか。一日三回、テレキネシスで維持すればきっと可能だ。計画は完璧。すぐにでも「実家」に持ち帰り、コレクションの真ん中に飾りたい。でもモーニングを食べたら体力を回復して、捕まえられないかも――この後ジムに戻れば挑戦者を迎えたり、弟子の訓練がある。自分も戦うから攫う隙がない。狙うなら就寝後だが、自分はボールの中にいるので出られない。
 ボトルに入ったジンジャーエールを見たユキメノコの興奮は収まらない。こんなに素敵なディスプレイ方法を思いついたのだ。一度衝動に駆られると、どうしても今日中に捕まえたくてたまらない。時間の経過と共に上がる気温も相まって熱に煽られ、もう後には退けない。
 本来ならば、四十年も連れ添ったのだから、お礼くらい言って別れるべきなのだ。彼の年になると若い頃からいる手持ちポケモンや旧友の人間はどんどん消えていく。何も言わずに彼の元を離れていく。お葬式で黒い服を着て物寂しげに手を合わせる彼を見るたび、自分との別れの際ははっきり「さよなら」を伝えようと思っていた。
 さよなら、そしておかえりなさい。と、言いながら「実家」に連れて帰るのだ。右腕として、それくらいの義理は果たさねばならないのだけど――暑い。とにかく暑くて、そんな礼儀さえ後回しにしたくなる。
 ユキメノコの視界が端から黄ばんでぼんやりと揺らめく。まるでお店のジンジャーエールの中にいるみたい。それなのにちっとも涼しくならず、このまま泡に紛れて消えてしまいそうだ。
「ユキメノコ」
 黄色い世界の向こうでぐにゃりと溶けた銀色の塊が名前を呼ぶ。
「暑さにやられたみたいだ。店長、何か冷たい物を」
 そう、冷たいモノが欲しい。
 彼が瓶グラスを掴んでユキメノコの頬に押し付けた。水滴が肌を濡らし、ひんやりとした感覚が伝わる。ああ、気持ちいい。ちょっとだけ持ち直したけど、でも、まだ足りないの。早く助けて、何とかして――その時、店長の慌てた足音がする。
「これ、いかがですか。かき氷にジンジャーシロップをかけてレモンを乗せた、ポケモンでも食べられるメニューです」
「これはいい。すまないね、ありがとう」
 冷たい瓶グラスが頬から離れ、代わりに黄金色の雪山が現れた。ふわふわに削られた粉雪みたいな氷の間を流れる金色のシロップに、輪切りレモンの鮮やかな黄色が眩しい。まるで朝焼けに輝く「実家」だ。
「ほら、食べなさい」
 彼に言われる前にユキメノコはかき氷に噛り付いた。なんて美味しい食べ物! あのお気に入りのベーグルよりさらに上を行く逸品だ。生き返るような冷たさと、喉でほどける刺激的な甘みが癖になる。夢中で食べていたら、彼が微笑みながら頭を撫でてくれた。
「美味しいかい? よかった、熱は引いたようだ」
 かき氷で持ち直していたユキメノコの冷たい肌が、一瞬溶けた。
「美味しそうに食べるもんだ。私も後で注文しようかな……気に入ったら来週も頼んでいいよ。今月いっぱいは出しているようだから」
 あなたがそう言うのなら仕方がない。
 こんなに美味しい物をご馳走してくれるなら、もう少しだけ傍にいてあげてもいい。計画は先延ばしにしてあげましょう。ユキメノコはちらりと彼を仰ぎながら、かき氷を口いっぱいに頬張る。
 その姿を眺めながら、彼は呆れたように微笑んだ。
「何はともあれ、お互い命拾いしたな」
 ユキメノコがはっとして顔を上げると、レモンの酸味が口の中をつんと刺激した。

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