愛の言葉

 私のおばあちゃんは口が汚い。
「こら四天王! こんな子供の挑戦者に三連続で負けてんじゃないよ! 昨日もギリギリ五匹目まで追い詰められちゃってさ、働け給料泥棒!」
 もう六十過ぎだというのにこの調子だ。
 今日もポケモンリーグの狭い観覧席で、ベンチシートの上に立ってぎゃんぎゃん怒鳴り散らしている。
「ウメさん、今日も飛ばしてるねー」
「確かに最近負けが続いてたもんな」
 この野次を間近で耳にする、観覧席常連のおじさん達は心の内を代弁してくれたとばかりにヘラヘラ笑っているが、ここに初めて観に来たお客さんは揃って眉に皺を寄せている。そりゃそうだ。私も貴方達と同じ気分。だけど注意しても効果はないよ。面倒くさいから、私はおばあちゃんの隣に座ったまま「サイコソーダ」を飲む。
 ここはセキエイ高原にあるポケモンリーグの試合場。
 カントーとジョウト地方でバッジを八個集めたトレーナーが集まるポケモンバトルの聖地。チャンピオンを決めるその舞台はコンクリート製の屋根のないバトルフィールドが一つあるだけで、とんでもなく地味だ。挑戦するトレーナーは四天王とチャンピオンの計五人と連続で戦う決まり。ちなみに戦う四天王の順番は決まっていて、最初はいつもカンナ。私はここ半年、試合場の上にある観覧席で試合を観続けているけど、カンナを突破出来たトレーナーって全体の三割くらいしかいない。いつも同じプロトレーナーの試合を観るのは正直つまらない。
 つまらないけど半年も続けているのは高校が帰宅部で暇なのと、ウメおばあちゃんが家でゴロゴロするくらいならリーグに行こうと誘うから。うちはセキエイ高原のリーグから車で十分くらいのところに家があり、無料でポケモンバトルが観覧できるこの場所は唯一の暇潰しだ。
 段差に公園のベンチを並べただけの簡素な観覧席は七十人程度しか入ることが出来ず、アクセスも悪いため基本的にいつもガラガラ。挑戦者の知り合いか、休憩がてら試合を見に来たリーグ関係者、そして私とおばあちゃんや常連のおじさん達のような地元民くらいしか居ない。気候が悪いし屋根もないから、雨が降ったり底冷えする冬になれば一見さんは来ない。私も冬になったら通わないと思う。でも常連さんは仕事をリタイアした暇人ばかりだから、いつも一番前のベンチに座布団やレジャーシートを敷いて売店で買ったおつまみを並べ、昼間から酒を飲んでのどんちゃん騒ぎ。この人たちはネットを見ないから、そこで「ポケモンリーグは全てのトレーナーが目指す総本山だが、観覧席だけは場末の競艇場」と揶揄されているのを知らないのだ。
「ほらー、また危ないぞ! しっかりしろババア!」
 ババアがババアを野次ってる。
 ある挑戦者がカンナとシバを突破して、キクコまでたどり着いた。やるじゃん。でもキクコになるとおばあちゃんの野次は一層ひどくなる。
「ユキナちゃん、さきいか食べなよ」
 真後ろの席にいた常連のおじさんが酒臭い息を吐きながら、おつまみのさきいかを差し出してくれた。愛想笑いしながら一本だけ摘み上げる。
「ありがとうございます」
「ウメさん元気だねえ。キクコが出てくると違うね」
 年が近いからなのか、キクコに対する野次は辛辣だ。
「毒なんかひっかけてチンタラ攻めてんじゃないよ! あんまり時間かけてると、勝負が終わる前にアンタの寿命が終わっちまうよ」
 常連がどっと沸く。年寄りにしか言えない冗談だ。
 場内にはおばあちゃんのきんきん声が響き、挑戦者は鬱陶しそうにこちらを睨んでいるがキクコは気にも留めずに自分のポケモンの背中を見つめている。
「残り一匹だぞ! やる気あるのか!」
 スコアボードが見づらいから戦況はよく分からないが、その野次を聞く限り、どうもキクコは劣勢らしい。早く負けて欲しい、と私は願った。その次はようやくワタルが出てくる。バトルには興味ないけど、彼はイケメンで背が高くて格好いいから好きだ。それと最近チャンピオンになったグリーンは年下だけどクールな顔つきが結構タイプ。観戦が続けられるのはイケメンによるところも大きい。迫力のバトルや鍛え上げられたポケモンに興奮したのは最初の一ヶ月だけだ。ここはトレーナーの頂点にして、夢が終わる場所でもある。それを退屈しのぎに見続けるのは自分の将来に何の希望も持てなくなる気がして、代わりに格好いい男ばかりに目を向けるようになった。
 そわそわしながらバトルを眺めていると、私の隣に一見さんらしき男性がやってきた。二十代くらいの、印象に残らない顔。おばあちゃんの野次に顔をしかめていた内の一人だ。何をしに来たのかはすぐ分かる。私は背中を丸めて知らんぷりを決め込んだ。
「さっきから野次がひどすぎませんか。聞くに堪えません。トレーナーも傷付くと思います」
 試合がある日の三日に一回はこうやって苦言を呈す客がいる。まあ当然だ。しかし、おばあちゃんは絶対に折れない。
「この程度で傷付く奴なんて、チャンピオンにはなれないんだよ!」
 野次の矛先が一見さんに向いた。常連のおじさん達も加担するようにブーイングし、相手が怯んだ隙におばあちゃんが鋭く切り込む。
「それにここはトレーナーがこぞって目指す場所のはずなのに閑散として、チャンピオンになっても誰からも祝福されない。そんなの可哀想じゃないか! あたしらだって挑戦者が四天王を一人倒すたびに拍手を送ってるし、誰彼構わず罵倒してる訳じゃないんだよ!」
 一見さんが反論を飲み込むような顔をする。おばあちゃんは勝敗問わず、拍手くらいは送っている。でも負けた四天王に野次を飛ばしながら手を叩くからきっと向こうには聞こえていない。
「あんたは黙って見ているだけかい? 文句があるなら贔屓の方を応援しな!」
 おばあちゃんが唾を飛ばしながら一見さんを睨む。二人に挟まれた私は肩身が狭い。ちらりと顔を上げると、一見さんは不満げな面持ちで背を向けた。どうやらこの勝負はおばあちゃんの勝ちみたいだ。不甲斐ないの。でもすぐに自分の席に戻ってベンチに立ち上がり、やけくそみたいに声を張っていた。
「頑張れ挑戦者、後一匹だぞ!」
 するとおばあちゃんは負けじと観覧席から身を乗り出し、ハイパーボイスを轟かせた。
「キクコ、こんなガキに負けるなー! とっととゲンガーで決めちまえー!」
 観覧席からフィールドまではビル二階分くらいの高さがあるのに、おばあちゃんはお構いなしだ。やがて酒が回ったおじさんや煽られた周囲が馬鹿みたいに罵詈雑言の応援合戦。これもいつものことだ。
「うるせえぞ!」
 気が散った挑戦者がこっちに怒鳴る。
「余所見するんじゃないよ」
 キクコの口元がそんな風に動いた。
 野次に慣れている四天王がこっちを向くことは滅多にないけど、挑戦者は違うからいつも同じことを言っている。キクコは特にそう。つんと澄まして、切り札のゲンガーにシャドーボールを命じる。それがトドメになり、審判によって挑戦者の負けが宣告された。常連のおじさん達が酔った勢いでワッと盛り上がる。どちらが勝っても同じだ。さっきの一見さんはそれを見て帰ってしまった。
「やればできるじゃないか! 明日もそうやって戦いなよ!」
 おばあちゃんが偉そうにキクコを激励する。
 キクコは背筋をぴんと伸ばしたまま、ワンピースの裾をひらりと翻し、控え室へと引っ込んだ。半年見ているけど、ここに所属するプロの中でキクコだけ観覧席を向いたことが一度もない。他の四天王はあんまり騒ぐとこっちを睨んだり、呆れたように溜め息をついている時がある。それでワタルに迷惑そうな顔を向けられたときは居た堪れなくなったが、キクコだけは絶対にこっちを見ることはない。
 呆れを通り越して無視を決め込んでいるのかな。
 おばあちゃんの反応が気になって、横顔を盗み見る。野次を飛ばしていたキツい表情がほんの少しだけ和らいでいた。まるでキクコの勝利にほっとしているような。あれだけ酷い野次を吐いていたのに、それは期待の裏返しなのだろうか。そのままおばあちゃんを観察していると目が合ったので、慌てて誤魔化した。
「そろそろ帰ろうよ。夕飯の時間だよ」
 そうだね、とおばあちゃんが納得する。試合場を睨んでいるときに刻まれていた皺が薄れ、いくらか取っつきやすい雰囲気が戻ってきた。普段も口が悪いとはいえ比較的、人当たりの良い性格なんだけど、お母さんと話す時とここに来るときは態度が一変する。私も半年前に始めて来た時は驚いた。車で来るから酒は飲まないのにあの興奮ぶりだ。
「ウメさん、また明日ね」
 常連のおじさん達がだらだらと引き上げる準備をしつつ、おばあちゃんに微笑みかける。開いたゴミ袋を差し出され、おばあちゃんは「ありがとさん。また明日」と一本だけ飲んだ緑茶の空き缶をそこに捨てた。ゴミは持ち帰りがここのルールで、常連が持ち回りでまとめて回収している。私もサイコソーダの缶をそこに捨てた。
「ユキちゃんも来るの?」
 赤ら顔のおじさんが私に尋ねる。「うんまあ、気が向いたら」と引きつり笑いで答えた。正直、野次に囲まれての観戦は居心地が悪い。挑戦者、プロ共にイケメンはなかなか出てこないし。だけど、
「絶対来てよ、若い君が居たら場が華やぐ」
 と、皆にニッコリ笑顔で頼まれたら、ついつい下校後に寄ってしまうんだ。特にやりたいこともない高校一年の帰宅部は出会いにも恵まれず、無駄に時間を過ごしていると分かっていても辺鄙な場所に自宅があるから単独の移動が億劫。制服で立ち寄って、イケメンのお客さんが声をかけてくれないかなと期待して早半年。おじさん連中にしかモテない。
「あーあ、ワタル見損ねた。今日こそは、って思ったのに」
 帰りの車の助手席で、私はスマホゲームをつつきながら不満を漏らした。
「何言ってんだい。キクコは勝って当然なんだよ」
 おばあちゃんがハンドルを握りながら、ぴしゃりと切り捨てる。
「まあ強いと思うけどさ。イケメンが見たい」
「ユキちゃん、男は顔じゃなくて中身だよ、中身! バトルが上手くて顔が良い奴なんてのは昔っから持て囃されて育ってきてるから、甲斐性なしが多いんだよ。ポケモンを仕事にしてる奴は辞めときな」
 野次のような文句がくどくど並ぶ。
 おばあちゃんはポケモンリーグに通っている割にポケモンそのものはあまり好きではない。むしろ嫌っている感じすらある。プロが育成した強いポケモンを毎日観ているから無駄に目が肥えているのかもしれないが、一匹も持たずに今を過ごしている珍しい人だ。そんな私も育成が面倒くさくて所有していないけど。勿論学校では浮いているが、自宅周辺の環境を説明すると皆納得どころか同情してくれる。この辺の野生ポケモンは強すぎてまず捕獲が難しいし、他の場所で比較的弱いポケモンを捕まえてもバトルを積み重ねることすらままならない。ボール持って歩いているとリーグに挑戦する調子こいたトレーナーのカモにされるしね。そういう人間を見かけるたびに、お前ら皆カンナにやられちゃえばいいんだ、と心の中で野次を飛ばしながら生活している。
 それから、おばあちゃんがポケモンを嫌う理由はもう一つ。
 うちのお母さんだ。

「あらー、セキエイリーグに挑戦するの? じゃあここで休んでいきなさいよ。いいのよ気にしないで。うちはそうやってトレーナーさんを応援するのが大好きなの」
 夕日がシロガネ山の向こうへ沈みかけ、空が薄紫に染まる頃に帰宅すると、自宅のログテラスで私より年が若い女の子と手持ちらしきオーダイル、そしてお母さんがテーブルを囲んでお茶をしていた。うちはセキエイ高原の二十六番道路、いわゆる「チャンピオンロード」沿いにある庭付き一軒家で、亡くなったおじいちゃんの持ち家におばあちゃんと私、そして両親の四人家族で住んでいるのだが、場所柄もあるし世話焼きなお母さんの性格も災いしてリーグを目指すトレーナーの休憩ポイントになっている。
 これは正直迷惑だ。この瞬間だけ、おばあちゃんと心が通う。
「ちょっとエリコさん! またトレーナーを家に上げて! 臭いが付くし庭が荒らされるからやめてって言ってるじゃない!」
 駐車場から戻ってきたおばあちゃんが、オーダイルを見るなりお母さんに噛み付いた。お茶を飲んでいたオーダイルのトレーナーがきゅっと萎縮する。そりゃそうだ、あんたら迷惑なんだもん。
「あら、オーダイルなら大丈夫よ。この子疲れてるみたいだし、少しくらいは、ねえ?」
 お母さんが最低限の外面を保ちつつ、眉間に皺を寄せる。だけど私はそんなことはお構いなしに敵意剥き出しの目で女の子を睨んだ。子供の頃、おばあちゃんと一緒に植えた青ぼんぐりの木の実を根こそぎ取られてから、ここで休憩するトレーナーはイケメン以外許さない。
「わ、私もう十分休んだので先を急ぎます。ありがとうございました」
 察した女の子が慌てて頭を下げ、オーダイルを引っ張りながら門の外へ逃げていく。
「あら、気を遣わせてごめんなさいね。気を付けてね」
 お母さんは女の子の背中を見送った後、
「可哀そうに。まだ若いのに」
 私達に振り向いて不満げに眉を動かした。さっき観覧席で一見さんに立ち向かったように、おばあちゃんが食って掛かる。
「邪魔だよ。大体あんたは主婦なのに」
 家事もせずにトレーナーの面倒ばかり見て、と続ける前にお母さんが先制した。
「とっくにご飯の用意はできていますよ」
 毎日リーグに通っているおばあちゃんは引け目があるのか、ある程度の家事をクリアしていればそれ以上は咎めない。あっそ、と素っ気なく呟いて玄関へ上がっていく。物心ついた時から嫁姑の確執を見ているけど、昼のドラマでよくあるような死闘には発展しないな。お母さんもおばあちゃんが毎日リーグに行っていることを引き合いに出すことはない。だから、何かきっかけがあれば和解しそうな気もする。そんな姿、とても想像できないけど。ちなみに、シロガネ山麓のポケモンセンターで働いているお父さんは我が家では空気と同じ扱いだ。
「こんな遅くまでリーグに行っていたの?」
 お母さんはおばあちゃんのことは咎めないのに、私がリーグへ行く事には不満げだ。二人きりになったら、私はあちこち小突かれる。
「部活やバイトでも始めればいいのに。もう高校生なんだから」
 高校に入学してから、もう何千回と言われた台詞。
「だって部活終わって学校を出たら、ここに着く頃には真っ暗じゃん。危ないよ。そしたらおばあちゃんとリーグ観てる方がまし」
 陸の孤島みたいなこの家は、草むらに入れば馬鹿みたいに強いポケモンが襲ってくるし、道を歩けばトレーナーに目を付けられる。幼い頃からこの環境にうんざりしていた私はあまり出歩かなくなり、ポケモンリーグ観戦がたった一つの外での娯楽。
「その割にはつまらなさそうに帰って来るじゃない。何か意味はあるの」
 お母さんの言葉が野次みたいに残酷に響く。
 実はこれに対して反論ができない。イケメンが見たいだけ――そんな答えも浮かんだが、それはやっぱり建前に過ぎない。ワタルやグリーンを拝めなさすぎて、観戦の重要性は低いのだ。自分でも時間を無駄にしている事実は否めない。
「ヒコちゃんが居ればねえ。今度はいつ戻って来るのかしら」
 そして話題はいつも家を空けている近所の大家族にシフトする。そこの奥さんとお母さんはママ友で、その家には私と同い年の女の子がいるけど、保育園以降は遊んでいない。非常に奉仕精神溢れる一家で、昔から頻繁に何かをくれるのだが、何の仕事をしているのか分からないし、見返りを求めず何でもくれる人は気味が悪いので私は関わらないようにしていた。お母さんがトレーナーによくしているのも、あの家の影響があると思っている。
「お風呂入る」
 不満を溜め込みながら玄関へ逃げ込んだ。お母さんの呆れた声が背中に刺さる。
「今、お父さんが入ってるわよ」
「じゃあ、その次」
 そう言いながら自分の部屋に駆け込み、ベッドにダイブした。
 この無駄に過ごしている時間を思い返すだけで嫌になる。お父さんは仕事、お母さんは家事にボランティア、おばあちゃんは観戦を生き甲斐にしているけど――私には何もない。焦燥が皮膚をちくちくと刺激して嫌がらせする。青春を持て余している私、終わってないか。現実に目を背けたくなって、スマホを立ち上げSNSでポケモンリーグ関連の記事を見る。そこには週刊誌が流すリーグトレーナーの信憑性のないゴシップや与太話で埋め尽くされていた。現実じゃとても近寄れない一流のトレーナー達へ、皆が寄ってたかって様々な意見を飛ばしているが、きつい罵声を傍で聞いているとこちらは陰険だが妙に共感する。こんな書き込みを見つけた。
「カンナってあの見た目でぬいぐるみ大好きらしいよ。いい年して痛い。だから結婚もまだなんだ」
 へえ、そうなんだ。クールに構えている割に幼稚な趣味。私だってとっくにぬいぐるみは卒業した。ちょっとだけ胸がすく。
「そこが可愛いんじゃないか。お子様には分からないんだな、彼女の魅力は」
 反論の書き込みに考えを改める。なるほど、そう言う見方もあるのか。でも、やっぱりあの年でぬいぐるみはねえ。と、書き込みを下へ流していたら、ある投稿が目に留まった。
「観覧席にいつもいるババアの野次がうるさい。あそこは元々関係者エリアを一般開放したのが始まりだが、マナーが悪いのでいい加減閉鎖すべき。誰もが迷惑している」
 おばあちゃんのことだ。
 引き上げる時は掃除して帰るからそこまで悪辣な環境じゃないと思うけど、野次が煩いことには同意だ。一瞬ヒヤリとしたが、怖いもの見たさの好奇心が人差し指を最新コメントへ導く。
「あのババアは今日も他の客と口論になってた。孫と一緒に来てるよ。揃って野次を飛ばしてるんだろ。ババアに似て、すごいブス」
 私はそこでネットを切断し、カンナに抱いた下種な感情を反省した。
 電源が落ちたスマホの黒い画面に映るすっぴんの顔は、今まで普通レベルだと思っていたのに、もう若さだけがとりえの「すごいブス」でしかない。泣きたい。するとドアがノックされておばあちゃんの声が聞こえる。
「ユキちゃん、お父さんお風呂出たよ。先入る?」 
 もう起き上るのも億劫だ。
「おばあちゃんが先で良いよ。今そんな気分じゃない」
「リーグで身体冷やしちゃった? 大丈夫?」
 心配したおばあちゃんがドアを少しだけ開けて、こちらを覗き込む。その優しさは嬉しい半分、ちょっとうざったい。私はSNSの書き込みみたいに、皮肉っぽく答えてみた。
「おばあちゃんってさ、観覧席では野次飛ばしまくってるのに私には優しいよね」
「そりゃ可愛い孫だもの」
 おばあちゃんが皺を浮かび上がらせながらさっぱりと笑う。そんなお世辞、今はいらない。
「でもブスだよ」
 すると言葉通りに受け取ったおばあちゃんが、ずかずかとベッドの前にやってきた。
「ボーイフレンドに振られたのかい? こんなに可愛い女の子、他にはいないよ。おばあちゃんにそいつの名前を言ってみな。叱り飛ばしてやっから」
「いや、ネットに悪口書かれてて。落ち込んでるの」
 そう言ってスマホを掲げると、おばあちゃんはすっかり呆れた様子で肩をすくめる。
「なあにそれ。誰とも分からない言葉を信用してどうすんだよ。あんなもの、言いたい放題じゃないか」
 確かにその通りだけど。私にはおばあちゃんのような強心臓ではないし、腑に落ちない部分がある。
「うん、だからもう見ない。でもさ、言いたい放題なのはおばあちゃんもじゃない。キクコに怒られたことないの」
「いんや、全くないね」
 おばあちゃんは悪びれるどころか、誇らしげに両手を広げた。
「うわ、それ尊敬する」
「あの人はね、凄い人だよ。女トレーナーの草分けなんだ」
 そう言いながら、おばあちゃんはベッドの端にどかりと腰を下ろす。スプリングが驚いたように一度だけ上下した。それは私も初めて聞く話だ。何十年と見てきたおばあちゃんの話なら、SNSより信頼度は高いだろう。
「昔の女ってのは家に入って務めを果たすのが当たり前でさ、ポケモンバトルなんて男だけの道楽だったものよ。セキエイ育ちのあたしはシロガネ山にいるバンギラスに憧れて、親にぼんぐりボールねだって育てようとしたけど猛反対されて何度も引っ叩かれてたっけ。じいちゃんと結婚して、完全に諦めたけど」
 おばあちゃんにバンギラス。似合うけど浮くだろうな。所有していると男が引け目を感じるポケモンって多いのだ。男よりバトルが上手いのも、自尊心を傷付けることがあるらしい。くだらないけど、昔は特にこの傾向が強かっただろうね。
「でも、キクコはそういう反発を跳ね除けて四天王にまで上り詰めたんだ。それでトレーナーになる女の子は爆発的に増えて。あたしも便乗したかったけど、あんたのお父さんが生まれて手一杯で諦めちゃった。キクコが夢を叶えてくれているからいいかな。もう、ポケモンは」
 別にポケモンが嫌いな訳じゃないんだ。目尻に皺を刻みながら、さっぱりと微笑む表情には後悔が感じられなかった。キクコに叶えられなかった夢を重ねているのだろう。
「だから毎日観覧席に行ってるんだ。でも、わざわざ野次ることないのに」
 するとおばあちゃんは面白くなさそうに眉を吊り上げる。
「落ちぶれて欲しくないからね、あの人には」
 その気持ちは半年観覧席にいたから分からなくもない。夢を重ねたスターの凋落は、応援し続けるファンの終わりにも繋がる。おばあちゃんの場合、生き甲斐を無くしてしまうんじゃないだろうか。さすがに人生を託し過ぎ。だけど。
「羨ましいな、そういうの」
 本音がこぼれた。私にはそこまで熱が入る生き甲斐なんてない。
「ユキちゃんもそれくらい気合い入れて応援すればいいのに。黄色い声援を貰ったら、ワタルはきっと喜ぶよ」
 おばあちゃんが私の肩をぽんぽんと叩きながら、悩みをさらりと流してくれた。確かにあの観覧席において黄色い声援は貴重かもしれない。遠巻きに文句ばかり呟いているSNSより少しはましだろう。ちょっとだけ、気が楽になった。
「明日も行こうかな。おじさん達も待ってるし」
 そう言ったらおばあちゃんが白い歯を見せ、にっこり笑う。半年も続いているのだから、誰が何と言おうとしばらくは「惰性」で試合を見てみよう。そしたらそのうち何かいいこと、あるかもしれない。イケメンに声をかけられたりとかね。

 そんな期待を抱いて一ヶ月が経過した。私は学校から帰宅すると化粧をして私服に着替え、おばあちゃんと共にリーグに通い続けた。若干見栄えするようになったことで、おじさん達からは好評を博したがやはりイケメンには声をかけられないので、私はやっぱり中の下の更に下にいるブスなのかもしれない。あるいは、いつも隣におばあちゃんが居るからとっつきにくい可能性もあるけど。
「何やってんだ、しっかりしろ!」
 おばあちゃんは相変わらず、観覧席から一際大きい野次を飛ばしている。
「ゴーストにノーマル技は効かないんだよ、トレーナースクールからやり直せ!」
 キクコのゴーストポケモンに対し、捨て身タックルの指示ミスをした挑戦者に怒鳴る。その子は緊張と罵倒で涙目になっていた。
「もう後がないよ! 先が見えてるのはあんただけで十分」
 ちょっとキクコが追いつめられると、年寄りのジョークを絡めて場を盛り上げる。いい加減怒られるんじゃないか、とヒヤヒヤするけどキクコはまるで動じない。こちらをふり仰ぐことなく、フィールドのポケモンだけを見つめながらいつも淡々と試合をこなしている。他の四天王や挑戦者と比べて、「仕事」に打ち込んでいる印象が強かった。確かに大ベテランの域に入っているから、たまにテレビで紹介されると「職人」と呼ばれることもある。それが怠慢に繋がらないよう、おばあちゃんは毎度鋭く叱責する。
「職人のくせにポケモンの管理が怠ってるんじゃないのか!」 
 ゴーストポケモンがちょっと状態異常に陥るだけでこの集中砲火。そりゃまあ、四天王のポケモンともなれば簡単に調子を崩すことはないけれど。トレーナー業に縁がないおばあちゃんが言えた身か、とも思う。
 だけど言いたい放題のように見えて、おばあちゃんの野次にも一応の線引きがあった。
 そんなだからチャンピオンになれないんだよ――挑戦者にはそうやって怒るけど、四天王には今以上の地位は求めないのだ。
「だって、四天王ってだけで十分立派だよ」
 帰りの車内で理由を聞いてみたら、おばあちゃんはそう答えた。確かに基本的には雲の上の人達だ。観覧席にもたまに熱狂的なファンが来て、常連と喧嘩したりする。
「でもあそこにいると距離が近く感じちゃうよね」
 おばあちゃんはあっけらかんと笑い飛ばした。だから無責任な野次を飛ばしやすいのか。飲みかけのサイコソーダを車内で煽り、呆れながらカーラジオに耳を傾けた。やっぱりこれに関しては、おばあちゃんを理解できないや――嫌っている訳じゃないし、咎めても意味がないからいつも通りの知らんぷりを決め込むことにした。猛スピードで草むらを駆け抜けていく野生のポニータを車窓越しに眺めていると、ニュース速報の時間になった。これが終わる五分後には道路の先に自宅が見えてくる。よく分からない政治関係のニュースが耳から耳へと流れる中、最後の一報が頭の中で留まった。キクコが四天王を退くらしい。

 体力の限界、とキクコは言わなかった。
 引退会見は開かれず、加齢や衰えを理由に四天王を辞める訳でもないらしい。トレーナー業は続けるが、新たなステップへ進むため――とそんな短い説明でキクコは第一線から退くことを表明した。この件は学校でも少しだけ話題になって、私が観覧席に通っている事を知る友人達はキクコの様子を聞いてくることもある。
「見納めに来たファンが増えただけで、後は何も変わらないよ。いつも通り」
 私はそう答える。
 すると友人達は「ふうん、そうなんだ」とさして驚きもせず口を揃える。
 観覧席に来なければキクコなんて伝説のような存在で、本人に親しみもないから皆あまり関心を持たない。誰もが知っているけど、興味がそこで終わる縁遠い人だ。だからこんな反応が普通だろう。でも意外だったのは、あれだけ心酔していた割におばあちゃんも普段通りだということだ。
 いつも通り野次を飛ばし、いつも通り無視されて、いつも通りファンと喧嘩する。
 普段ちっとも応援に来ないキクコファンとの諍いが増えたくらいで、後は何も変わらない。あまりにも変化がないから、それが逆に心配で、だけど私はおばあちゃんに何も言えないままキクコの四天王最後の日を迎えた。

 駆け足で下校し、手早く着替えておばあちゃんと車でリーグへ。
 いつもと変わらない。
 でも後部座席には花束の入った紙袋が置かれていて、私は少し安心した。リーグの駐車場は一つしか空いておらず、そこに入れた後に後続車のドライバーががっかりする顔を見ないふりして観覧席に向かった。
「最後だね」
 観覧席へと続く古びた薄暗い通路を歩きながら、おばあちゃんに言う。おばあちゃんは私の方を向かず、「うん」と短く答えた。
 素っ気ない言動。さすがに違和感を覚えた。もしかしておばあちゃんの心だけ、先にゴーストポケモンに連れていかれたのではないか――と子供じみた心配をする。いくらなんでも、普通すぎるから。だけど、その不安を口にすることができないまま観覧席に到着した。ガラガラの観覧席は普段観に来ない客で既にすし詰め状態だったけれど、最前列を場所取りしていた常連のおじさん達がこっちに手招きしてくれた。
「ウメさん、特等席を用意したよ」
 まるで横入りだと不満げな一見さん達を、おばあちゃんは誇らしげな表情で横切って行く。ポケモンリーグに何十年と通い詰めてきた、「我が物顔」をしていた。座席の奥から「割り込むなババア」と囁くようなヤジが飛んできて、私はちょっと肝を冷やした。縋るように見たおばあちゃんの横顔は動じない。唇を固く引き結んだまま、目的の場所だけを向いている。その姿はポケモンバトルに挑むキクコと同じで、他人の声にぶれることは一切ない。何十年とリーグに足を運び、誰より大きな声で厳しい激励を送り続けてきた人にとってその野次は些細な問題だ。
 これも一人の人間の生き方なのかも、と思うとやはりおばあちゃんが羨ましくなる。それと同時に、最後くらいキクコが振り向いてくれることを期待して珍しくリーグ観戦に集中した。でもこの日だけカンナが負け続けてくれるはずもなく、挑戦者の十人中八人が最初でやられキクコまで到達したのはたったの一人。観覧席の誰もが内心空気を読めよ、と不満だったはずだ。ワタルが引退する日なんかは試合をせずに終わるんじゃないだろうか。
 ようやくキクコが出てきた時に、おばあちゃんが観覧席から身を乗り出して声を張った。
「頑張れ。最後まで、しっかりしなよ!」
 つられて後ろの観客も口々に激励を飛ばす。外へ押し出されるような大歓声に鳥肌が立ったけれど、キクコは最後までこちらを向くことはなかった。
「相変わらずだな、あのバアさん」
 不満げに漏らした常連さんの一言はキクコを象徴していたような気がする。ちなみに試合は四天王前二人の敗北はお膳立てだったのかと疑う位のストレート勝ち。観覧席は沸いた。おばあちゃんは最初の激励以外声をかけることもなく、記憶に刻み付けるように試合に魅入っていた。やっぱりこんな日に平常心でいられるわけないんだ。
「これにて本日のポケモンリーグを終了します」
 日が傾きかけた頃にリーグの営業終了を知らせるいつもの録音アナウンスが流れ、観覧席のギャラリーを外へ追い立てる。引退セレモニーもなかった。
「キクコさんはキャリアに区切りをつけるつもりはないんだろうね」
 滅多に試合を観に来ないファンは、周囲に聞こえる声でよく分からない分析をしながら出入り口へと踵を返す。名残惜しむことなく、皆足早に同じ場所へ向かっていた。通用口で出待ちをするのだ。いつもは終わったらすぐに帰宅しているからそんなこと思いつきもしなかったけど、最後はやはり花束くらい渡したいのがファン心理なのだろう。一見さん達は我先にと、駆け足でそちらに押しかけていく。階段を下りて一階を出て、裏に回り込んで通用口へ――普段出待ちなんてしない上に老齢で身体が追いつかないおばあちゃんや常連のおじさん達は、その集団からすっかり取り残されていた。
 おじさん達はともかく、おばあちゃんには花束を渡して貰いたい。
「おばあちゃん、急がないと」
 一般出入口から出たところで、私はおばあちゃんの手首を強引に引っ張った。乱暴な動作はスーパーでお菓子をせがんだ幼少期以来だ。おばあちゃんはぎょっとして、一瞬立ち止まる。
「そうだよ、ウメさん急がなきゃ。キクコに花を渡してきなよ」
 おじさん達も後押しした。
 そしたらもう走り出さないわけにはいかない。急き立てられたヤドランみたいに身体を揺らしながらひょこひょこと通用口へ向かう。あんまり遅いので驚いたけど、若者顔負けの元気を見せているとはいえやっぱり「お婆ちゃん」なのだ。私はその手から紙袋をひったくると、花束だけを取り出しておばあちゃんに押し付けた。桔梗を使った上品なブーケはゴースト使いの四天王の花道を飾るにはぴったりで、絶対にキクコに渡してもらいたかった。
「あとちょっと」
 私は空になった紙袋を脇に挟んで、通用口へ続く角を曲がる。数メートル先に溢れる人だかりがすぐに目に留まり、絶望した。あの中に割り込んででも花束を渡したい――野次さえ飛ばした事のない私は良識を飛び越える覚悟を決めて、奥歯をきつく噛み締める。その時群衆がざわめいて、通用口から誰かが出てくるのが分かった。キクコだ。人の隙間からほんの少し覗く白髪だけで他とは違うオーラを放っている。周囲がそうしたように、私もおばあちゃんも息を呑んだ。
 ほぼ毎日のように上から見下ろしていたにも関わらず、間近で見る白い旋毛は他者を圧倒する。雑踏に紛れているようで、一目で彼女と分かる存在感。誰もが威圧され、ざわめきが徐々に消えていった。
 キクコが、そこにいる。
 たったそれだけで人々は硬直していた。「かげふみ」ってこんな感じなのだろうか。びりりと身体が痺れて動けない。もしかして、キクコそのものがゴーストポケモンだったりして――と考えているうちに目の前の集団がさっと両端に動き、キクコがサイン色紙を差し出すファンの手からペンだけを奪い取って私とおばあちゃんの前にやってきた。
 いや厳密には、おばあちゃんの前に、だ。
 西日を背にゆったりとした紫色のワンピースと前掛けを靡かせ、ぴんと背筋を伸ばしているのに右手に杖を突いていた。小柄で、年齢はおばあちゃんと同じくらい。でもおばあちゃんよりも、ずっと若々しく見えた。自信たっぷりに顔を上げ、艶やかな白髪を揺らしながらキクコはおばあちゃんの傍に歩み寄る。
「今まで応援、ありがとう」
 キクコが清々しい笑顔を向けた。
 それは皮肉か、感謝か。それとも――おばあちゃんは驚愕したまま固まっていた。キクコが前掛けのポケットからボールを取り出して放り投げた。その場にゲンガーが現れ、壁へ伸びるキクコの影へ傅くように消えていく。キクコは空になったボールにさらさらとサインを書くと、蓋を閉じておばあちゃんに差し出した。
「これ貰って」
 おばあちゃんは仰天の顔を張りつけたまま、花束とボールを交換する。キクコはそれ以上何も言わず、さっと身を翻すと通用口にたむろするファンを無視して関係者駐車場へと歩んで行った。
 僅か数秒足らず。
 なのにその場に唯一無二の存在感だけを残し、誰にも文句を言わせないまま去ったのだ。取り残された私を含むただの一般人は、呆然と立ち尽くすほかはない。リーグ挑戦者の七割がカンナに敗れ消えていく、その現実を思い知った気がした。ポケモンだけが戦っている訳ではない、選ばれしトレーナーはあんなにも違う。
「すげえ」
 しばらくして誰かの口が動き、止まっていた時間が再び進み始める。
「キクコさんって、なかなかサインしないのに。ましてや切り札が入っていたボールをくれるなんて」
 そんな声が聞こえた。
 確かに気軽にサインに応じてくれなさそうな雰囲気はある。でも、そんな人が相棒ポケモンの空ボールにサインを書いて、おばあちゃんにくれるなんて。これってプロトレーナーからの贈り物としては、最上級に当たるのではないだろうか。
「ウメさん、すげえなあ!」
 後ろで見ていたおじさん達が大袈裟な拍手で祝福する。私は固まったままのおばあちゃんを前に、便乗して手を叩くべきか、その顔を覗き込んだ。おばあちゃんはつい先ほどゲンガーが入っていたばかりの古いハイパーボールを両手に包み込み、最後のバトルを見つめるように視線を落としたまま止まっていた。でも唇は小刻みに震えていて、今にも決壊しそうで、そんな姿を見た私は軽率に囃したてず一言だけ添えた。
「よかったね、おばあちゃん」
 長年の生き甲斐が報われたことを祝福したつもり。
 おばあちゃんは小さく答えた。
「うん」
 掠れた声が気になって、そこからおばあちゃんの顔は帰宅まで見ないよう努めた。変に口出しして、キクコとの僅か数秒の余韻を台無しにしては駄目だと思ったから。アイドルに握手してもらった後はしばらく手を洗えない、あんな気分なのだろう。と、私なりに気遣っていたのだけど、家で待っていたお父さんがそれを粉々にぶち壊した。
「すごい、それいくらで売れるの」
 おばあちゃんが大事に持っていたボールを見ての第一声がそれである。ああ、これは戦争の始まりだ――確信した直後、誰よりも早く激怒したのは意外にも私のお母さんだった。
「デリカシーないわね! そういう物じゃないのよ、お義母さんにとっての宝物なんだからね!」
 家庭では空気ながらも一応お父さんを立てているお母さんが、買ったばかりのラップを武器にぎゃんぎゃん振り回して叱責する。初めて見せる姿に、私とおばあちゃんは呆然となったが。
 なんだかんだ、おばあちゃんのこと、理解していたんだ、お母さん。ぎすぎすしていた関係に引っかかっていた何かが、お父さんの一言をきっかけにぽろりと外れた気がした。
「エリコさんの言う通りだよ。このバカ息子が!」
 おばあちゃんが引き攣り笑いを浮かべながら野次を飛ばし、お父さんが必死で謝罪する。我が家の女傑二人に責め立てられ、心の底から反省しているみたいだから、すぐに許してもらえるんじゃない。本当に売り飛ばしたら離婚だね。明日から我が家はちょっぴり居心地が良くなることを確信し、私はキクコに感謝した。何十年とこちらに見向きもしなかったのに、僅か数秒の交流で世界を変えてしまう。もしかしてあの人は、雲の上のずっとその先にいる神様だったんじゃないだろうか。きっとそうだ。
 翌日、学校から帰ってくるとサインボールは分厚いガラスケースに入れられて神棚の上に鎮座していた。神棚より存在感を放っていたから、やっぱりキクコは神様なんだと思う。私はそれから毎日、素敵な出会いがありますようにと手を合わせることにした。

 
 キクコが引退したらおばあちゃんもリーグへ行かなくなるだろうなと残念に思っていたけど、それは杞憂だった。
 相変わらずリーグには足しげく通っており、贔屓トレーナーが居なくなったことでプロアマ問わない派手な野次に拍車が掛かっている。あのボールの一件で、観戦がライフワークだと確信したのかもしれない。それから半年の間に四天王やチャンピオンが何度か入れ替わったけど、おばあちゃんの野次は変化がなく、その度に様々な衝突が発生した。試合を観に来た四天王の娘と口論になったり、挑戦者から訴訟を起こされかけたり。でもおばあちゃんのスタンスは揺るぎ無い。
「いきなり劣勢だよ、バッジ八個集めたんじゃないのかい! 気概を見せな!」
 今日も観覧席から身を乗り出し、元気に野次を飛ばす。
「元気だね、ウメさん」
 私より観戦歴が浅いおじさんがビールとつまみの入ったコンビニ袋を手にスタンドへやって来る。私はおじさんを空いている席へ促しながら苦笑した。
「身体の心配をする必要がないんですよ。この間の健康診断でも問題なかったようだし。医者いらずです」
 私も最近は常連との交流を積極的に行っている。おじさんは笑いながらミックスナッツの小袋を分けてくれた。
「ユキナちゃんもよく通ってるよね。羨ましいよ」
「だってイツキくんのファンなんだもの。応援しなくっちゃ」
 先月ワタルがチャンピオンに昇格し、滅多にお目に掛かれず落ち込んでいたら、四天王に童顔の男の子が加入した。ファンタジー路線のロックバンドでギターを弾いていそうな不思議で可愛らしい見た目に一目惚れして、以来ずっと彼のファン。一番手の四天王だから応援し甲斐があり、退屈しない。彼氏ができないのは相変わらずだけど、キクコは素敵な出会いをもたらしてくれた。彼を見ているだけで一日が楽しくなる。少し前の焦燥はどこへやら、だ。
「でも今、ピンチだね」
 おじさんが缶の先で示したフィールドを見ると、イツキくんは手持ちが後一匹という状況に追われていた。挑戦者の手持ちは残り二匹。私は思わず席を蹴って立ち上がる。
「ちょっと!」
 何やってるの、一番手だろ。たった残り二匹、サクッと片付けないでどうする――思わず喉から出かけた野次を飲み込んだ。そりゃ、向こうも人間だから時々とても不甲斐ない指示を出すことがある。そんな時は野次の一つくらい飛ばしたい。でも。
 私は息を吸い直して声を張り上げた。
「あと少しで勝てるよ。頑張れ!」
 でも、やっぱり私は声援の方が好き。

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