お洒落コウモリ

 ヤドンみたいなシンプル顔をミロカロスのように華やかに変貌させる、それが私の仕事だ。
 吹き出物やシミにそばかす、大きな輪郭にモンジャラ顔負けのくせっ毛――どんなコンプレックスを持っていたって、とびっきり綺麗な女の子にすることができる。悩みをファンデーションで隠すだけで世界には大きな変化が訪れ、それが自信となれば今よりずっと楽しい生活を送ることができる。一部のナチュラリストたちはこの変化を「詐欺」だと言うけれど、綺麗になりたい女の子を後押しする私にとっては痛くも痒くもないんだから。
 そして、今日もまた一人。サンドの背中みたいな乾燥肌に、角張った顔がお悩みの読者モデルが一時間かけて小顔の白磁肌美人に大変身。
「はい、メイク完了です!」
 自信たっぷりに読者モデルの肩を叩くと、頑張って終始目を閉じていた彼女は瞼を持ち上げ、スタジオの隅々まで響き渡る歓声を上げた。
「うっわあー! すごーい、別人みたい!」
 撮影スタッフやスタイリストが次々と鏡台を覗き、そのたびに沸き上がって拍手まで生まれる。この仕事で最も達成感のある瞬間だ。
「さすがユメコちゃん、肌も滑らかだし顔も一回り位小さく見える!」
「“先生”、ポイントは?」
 男性ライターがインタビュアー気取りで私に尋ねた。それではお答えしましょう、まずはヘアスタイルから。
「まず、髪は巻いてボリュームを出し相対的に小顔に見せます。顔周りの髪を特に強くカールさせると輪郭がぼやけ、お悩みのエラ張りホームベース顔もカバーできますよ」
 顔周りに自信がない子は、この理由でミディアム丈の巻き髪にした方がいい。さて、お次は十八番であるメイクの解説を。
「次にメイク……モデルさんは乾燥肌だから、保湿をしっかりしてから化粧を始めることです。こうすれば時間がたっても肌が粉を吹かないからね。カバー力の高い下地クリームを塗りこみ、シミなど気になる部分はコンシーラーで消します。ファンデーションは肌呼吸ができるパウダータイプを使いましょう。これだけでガサガサのサンド肌じゃなくなるから」
 ベースメイクは下地クリームを塗ってからファンデーションをはたく、という流れが一般的だけど、この作業の前に保湿をしっかりしていない子が多いのよね。朝は余裕がないのは分かるけど、少し早起きして手間をかけるだけでぐっと表情は良くなるから、もっと実践してほしいな。
「そして顔周りにブラウンのチークを乗せ、輪郭に陰影をつけるとより小顔に見えます。最後に、他人の視線が気になっている輪郭を注目させないことね。アイメイクを濃くしたの。一重瞼は二重に、付け睫毛二枚重ねで瞳をくっきり見せるコンタクトを装着――どう、この圧倒的な目力!」
 コンプレックスをカバーする一番手っ取り早い方法は、気になる部分から視線を逸らすこと。特にアイメイクは変化が一目瞭然だから、今回のような“コンプレックスカバーメイク術特集”の仕事では必ず用いている方法だ。こうして劇的に分かりやすい変化を遂げることで、容姿に悩んでいたモデルさんの表情も途端に輝き出す。そうすると自信がつき、内面からも変われるんだ。
「ありがとうございますっ、ユメコさんのお陰です!」
 ほんの一時間前まで臆病になっていたモデルさんの態度が嘘のよう、今はとてもイキイキとしている。この心から眩い笑顔を見るのが好きなんだ。つられて頬が緩み、私も喜びを分けて貰っちゃう。一石二鳥、天職かもしれない。

 私は高校卒業後、メイクの仕事を志して専門学校で学び、現場で修行を積みながら頑張ってきた。三年前に独立してフリーのメイクアップアーティストとなり、二十八歳の今年、ようやく仕事が安定してきたところ。女性誌のメイクコーナーを担当することも多い。その代表例が雑誌「ニコル」。大手出版社が発行しているこの雑誌は国内女性ファッション誌売り上げナンバーワン、“大人の洗練された可愛らしさ”を提案し、若い女の子からの支持が最も高い。だから表紙は毎月ジムリーダーや四天王などの人気美女トレーナー、三ヶ月に一度は海外のトップモデル・カミツレが飾るものだから個人的にも気合が入る。
 そして今回、運良くメイクコーナーを担当することになったニコル最新十月号の表紙もそのカミツレちゃんだ。彼女がトップの号は売上部数が通常の倍伸びるだけあり、便乗してメイクアップアーティスト・ユメコを宣伝するチャンスだ。そんな訳で最新号の打ち合わせには張り切って参加していたのだが――真紅のルージュが似合う美人編集者さんが提案してきたのは、度肝を抜かれるようなトンデモ企画だった。
「十月号のメイクコーナーは“簡単テクニックで差をつける! ハロウィンメイク特集”でいこうかなって」
 女性誌のメイク特集と言えば、その大半が新作コスメや私が得意とする気になる部分をカバーするメイク方法などを紹介する内容ばかりである。
「随分とピンポイントな特集ですね」
「ええ、だけどこの国にも大分ハロウィンが浸透してきたし、イベント好きなニコル読者には受けがいいんじゃないかしら」
「あたしもハロウィン大好きなんですっ。毎年ポケモンちゃんたちと仮装してパーティするんですよ〜」
 メイク専門モデルのモモちゃんがすかさず食いついた。彼女は着せ替え人形に知性以外の男の好きな要素を吹き込んで具現化したような女の子だ。今日も目力があるのに清楚な雰囲気のメイクが決まっている。
「思いっきり仮装を楽しめる日でもありますしね。ポケモンと一緒にコスプレすると楽しいかも。定番は魔女とか……」
 と、私が浮かんだアイディアを提案するなり、モモちゃんは「それいいー!」と可憐な猫撫で声を上げる。
「あたし、グライオンと一緒に撮りたいなー! この子超イケメンなんですよお」
 そして周りの反応も見ずに、実用性のないクラッチバッグの中からキラキラにデコレーションされたモンスターボールを取り出し、ご自慢のポケモンをその場に召喚した。スタジオ内だから窮屈ではないが、普通断りもなく二メートル近いグライオンを出すか? 他のスタッフも少々呆れ顔。だけどこのオスのグライオンは隅々まで手入れが行き届いており、チャームポイントの爪は艶やかでこちらの顔まで映るほど。モモちゃんの長い自慢話によれば、コンテストで何度も優勝した折り紙付きのイケメンポケモンらしい。
「そういえばユメコさんもハロウィン向けのポケモン持ってましたよね」
 いい加減モモちゃんの話に飽きてきた中堅カメラマンが、苦笑しながら私に尋ねる。
「ええ、メスのゴルバットが。手持ちはこの子一匹だけです」
 そう言って、私はカットソーのポケットからモンスターボールを取り出し、パートナーのゴルバットを彼に見せた。この子は専門学生時代、ズバットの時に防犯目的で捕獲したポケモンだ。私はバトルが苦手で、かれこれ十年くらいの付き合いなのに昨年ようやくゴルバットに進化したという体たらく。仲良しだから気にしていないけど。
 何故かボール越しにグライオンを凝視するゴルバットを見て、カメラマンは膝を打った。
「二匹ともコウモリ的ルックスだし、ハロウィン企画にちょうどいいじゃないですか。共演させましょうよ。タレントポケモンのオファーって結構大変なので、協力していただけると助かります」
 そう告げる彼やスタッフたちの眼差しは、私に拒否する隙を与えない。とはいえ、断る理由もないけれど。
「分かりました。では、ちょっと出してみます」
 開閉スイッチを押し、ボールを軽く放り投げると私の背後にゴルバットが姿を現す。グライオン向けて控えめに鳴き、大きな翼を広げてキュートな笑顔を見せた。今日はいつになくご機嫌だな。もしかして、彼のこと気になっているのかも?
 一方、スタッフからは次々に称賛が湧いていた。美容師の手持ちとして、彼女の手入れは欠かしていない。あのグライオンには及ばないけど――と謙遜する前から、モモちゃんは既に敵意を剥き出しにしている。
「モモちゃんのグライオンには敵いませんよ」
 苦笑すると彼女は唇を横へ伸ばし、意地悪そうに微笑んだ。
「って言うか、ユメコちゃんがゴルバット持ちなんて意外ー! もっと可愛いの持ってるかと思った」
 さりげなく蔑むんだから、この子は。だけどデビュー時からニコルの人気メイクモデルとしてちやほやされてきたから、仕方がない部分もあるのかな。こちらが大人になるべきだと思い、気にせず流した。
「不規則な生活をしているので、夜も平気なこの子がガードしてくれるんです」
 そう言うと、ゴルバットは得意げにグライオン向けて胸を張る。
「ふーん、でもそれならブラッキーとかいるでしょ」
「ああ、そこまで気が回りませんでした。ズバットの頃捕獲したんですけど……ほら、ズバットって手軽に見つけられるじゃないですか。楽しちゃいました」
「おっきなお口が怖いねー、グライオン」
 モモちゃんが残酷に笑うと、グライオンも便乗してゴルバットの大きな口をからかい始めた。ポケモンとトレーナーの性格は似ると言うけれど、ここまで酷似しているのも珍しい。相棒を馬鹿にされ、怒りが沸き立ってくるが、私はフリーになってまだ三年。余計なトラブルは招きたくない。両翼で口元を隠し、身体を丸めるゴルバットをそっと抱き寄せることしかできなかった。悔しいが、周囲のスタッフはモモちゃんの発言に眉をひそめているから、私たちにマイナスの影響が出ることはないはず。
「まあまあ、どこを気に入るかは人それぞれでしょう。それじゃあ最新号の特集はハロウィンで進めますからね。後の打ち合わせは現場スタッフで行います。モモちゃん、お疲れ様」
 険悪な空気を取り払うように編集さんがモモちゃんを追いだした。彼女は特に気にも留めず、可愛らしく見える角度を維持した笑顔を振りまきながら、颯爽とスタジオを出て行った。グライオンも後に続くかと思いきや、うちの子にトドメを刺すように白い歯を見せ、気まぐれに飛びながら主人の後を追う。その腹に冷凍ビームを打ち込んでやりたいくらい腹の立つ笑顔だった。ますます落ち込むゴルバットを抱きしめながら歯を打ち鳴らしていると、カメラマンが呆れながら慰めてくれた。
「気にしなくていいよ。モデルは自分以外の人間が注目されるのが嫌なんだ。プロのトレーナーさんが表紙の撮影で来てる時は大人しいけど、基本は皆しょっちゅう張り合ってるんだよね。何だかなぁ」
 もちろん例外はいるだろうけど、こういう華やかな世界ではよくあること。だけど、他人のポケモンを卑下するのはいただけない。
「ごめんね、ゴルバット。もっと頑張って、発言力のあるメイクになるから……」
 私は席の隣で口元を覆い、しょんぼりと座り込んでいるゴルバットの頭を撫でた。彼女はそれからの打ち合わせ中、終始翼を畳んで大人しく私の傍に寄り添い続けていた。専門学生として一人暮らしを始めた際に捕獲し、それから十年近い付き合いになるけど、こんなに元気がないのは初めてかもしれない。もしかすると病気かな。念のため、明日ポケモンセンターへ行ってみよう。

+++

「はい、お預かりしたポケモンは元気になりましたよ。またのご利用、お待ちしております」
 コンサバティブなメイクのポケモンセンター職員が、私の前に回復が済んだボールを返却する。何となく予想していたが、ゴルバットの表情は昨日の打ち合わせから変化がない。
「うちのゴルバット、どう見ても元気になっていませんけど……」
 念のため職員の顔を覗き込んでみたが、彼女は苦笑いを浮かべながら面倒くさそうに説明した。 
「メンタル的なものではないのでしょうか。当施設はポケモンの軽い外傷及び疲労は回復できますが、精神面になりますと対応外です」
「で、ですよね……」
「長引くようでしたらメンタルクリニックの受診をお勧め致します」
 そう言ってカウンターの中からクリニックのパンフレットを五冊取り出し、私の前に均一に並べて提示した。これ以上文句を言わせないロイヤルストレートフラッシュ。私はショルダーバッグの専用ポケットにゴルバットが入ったボールをしまい、そのままポケモンセンターを出た。
 ゴルバットが心の病でないことは察していたので、フレンドリィショップのゴミ箱にパンフレットをまとめて投げ入れ、そのまま街を散歩する。今日はオフだから特に仕事もないけど、ハロウィンメイクを考えなければ。撮影は二週間後とあまり余裕がない。とはいえ、相方の様子も気になる。外に出ればあの子の気も紛れるかと思い、ボールから出してみるが、彼女は相変わらず大きな口を翼で隠しながら、私の後ろをトコトコついてくる。
「口元隠してると、飛べないよ」
 ゴルバットは飛びながらトレーナーの後ろをついてくるのが一般的だ。それが特徴的な口を翼で覆い、大きな身体を左右に揺らしながら歩いているんだから、大変周囲の目を引いた。注目する視線が重なり、私は耐え切れなくなって彼女に振り返る。
「もしかして、グライオンに馬鹿にされたこと気にしてるの?」
 ゴルバットは無言のまま、視線をブティック入り口のポスターへ向けた。この分かりやすい反応はビンゴだな。私は両手で彼女の頬を押さえ、ショーウィンドウのガラス面へ顔を向けさせた。華やかな装飾を背景に、ベリーショートの派手メイク女と、自信のないコウモリがうっすらと浮かび上がる。長年のパートナーなのに、なんだか対照的な構図だ。
「こんな可愛いコウモリちゃん、他にいる?」
 食いしん坊だから平均的なゴルバットよりふくよかではあるけれど、毛並みのお手入れは怠っていないからコンテストに出場すればきっと上位に食い込める。私にはそれくらい美人に見えるが、彼女は違うようだ。後ろを横切るトレーナーとイーブイを見て、恨めしそうな眼差しをそちらへ向けた。
「ゴルバットとイーブイは全く別の生き物だから比べられないよ」
 苦笑しながらフォローするが、ゴルバットは納得しない。この自信のない萎れた表情――見覚えがある。そう、コンプレックスカバーメイク時に担当する読者モデルさんと同じだ。持って生まれた自分のパーツが気に入らなくて、鏡から目を逸らしている。だけどポケモンが同様の状況に陥るとは思わなかった。ありのままの外見に何ら疑問を抱かない子が多いはずだし、ゴルバットも今までそうだった。とすればこの心境の変化――真っ先に浮かんだ原因が口を突く。
「もしかしてグライオンのこと好きになっちゃった?」
 ゴルバットはこちらに背を向け、黙秘を続けた。認めたくないような、モモちゃんが苦手な私に気を遣っているような、そんな反応だ。予想は当たりと見て間違いない。
「よしよし、ちょっと女子会しよ。この近くにパンケーキが美味しいカフェがあるらしいよ」
 それを聞くなり、食欲旺盛なゴルバットは耳をぴんと立てて表情を一変させた。翼を広げ、デザート好きな女の子みたいに目を輝かせながら私の傍を飛んでいく。分かりやすい切り替えに戸惑ってしまうが、十年くらい飼っているからだろうか、野生の頃と比べると随分人間味が出てきたような。だから余計に、恋に悩む姿は気にかかるのだ。

 ゴルバットの様子に目を配りつつ、ランチも兼ねて街角のオープンカフェに入った。ポケモンも休めるテラス席で一番人気のフルーツパンケーキを注文し、待つこと二十分。色とりどりのフルーツが山盛り乗せられ、クリームを散らした分厚いパンケーキがやってきた。一体何キロカロリーあるんだろうと怯み上がったが、フルーツの配置はセンス良く、色遣いは洗練されている。メイクの参考になるかもしれないと、急いでデジカメをバッグから取り出そうとしたとき、ゴルバットが皿へ舌を伸ばした。
「あーっ、待って! 写真撮ってから!」
 翼を振って駄々をこねるゴルバットを説得しつつ、急いでシャッターを押す。しまった、料理撮影モードにしてなかった。さびれた定食屋のメニュー写真みたいな仕上がりになってしまい、いかにも不味そう。
「ごめん、もう一回」
 相方はキーキー喚きながら反発する。散々急かされ、三回目でようやく納得できる写真が撮れた。ほっとしている主人をよそに、ゴルバットは嬉々としてパンケーキに盛られたフルーツやクリームを平らげていく。本来の好物は血液らしいが、うちの子は捕獲からの十年間で人間の食べ物にすっかり慣れてしまい、特に甘い物には目がない。油断している隙に好物の苺がなくなり、それに腹が立った私は思わず悪態をついた。
「食欲旺盛なのは構わないけど、最近太り気味じゃないのお? グライオンに笑われたらどうするの」
 ゴルバットはたちまち硬直し、再び身体を丸めてテーブルの下に潜り込んだ。この子がデザートを放り出すなんて重症だ。確かゴルバットとグライオンではタマゴが産まれないし、苦手なモモちゃんと仕事以外で関わりたくないけど――十年来のパートナーがここまで恋愛で悩んでいるなら、放ってはおけない。今こそメイクアップアーティストの力を活かす時じゃないか? こういう子にこそ、私のメイクの力が必要なんだ。ポケモンは専門外だけど、人間で培ったスキルは必ず活かせる。
 決意した私はテーブルの下に潜り込み、ゴルバットの顔を覗き込んだ。
「翼で包んでも痩せないし、口も小さくならないよっ」
 悲痛な面持ちの彼女に、私はにっこりと微笑んだ。  
「だけど、可愛く見せることはできる」
 ゴルバットの耳が直立し、興味を示す。やっぱり、メイク前の読者モデルと全く同じ顔をしてる。ヘアメイクに対するほんの少しの関心と期待、これだけ持ってくれれば、後は私の“手品”を楽しんでくれるはず。
「さあ、椅子の上に乗って翼を広げて! さもなくばイタズラするぞー!」
 テーブルの下に潜っていたゴルバットを椅子へと追い立て、人もまばらなカフェテラスで大きな翼を広げさせると、その身体を隅々までチェックした。
「今度の撮影で、モモちゃんに負けないくらいの美人にしてあげる。そしたらグライオンも振り向くかも! 悩んでないで、行動に移そうじゃあないか、相棒よ。思い立ったが吉日、今からお店を巡って可愛く変身だ!」
 不安げな彼女だったけど、明るく親しみやすい口調で説明すれば納得した。
「じゃあまずは身体を絞ることだね。お店を出たら、私の後ろを飛んでついてくるんだよ。運動不足解消として、なるべくボールから出しておくからね」
 食べかけのパンケーキを二人で半分こし、クリームは私が食べて店を出る。このあとたっぷりと動き、夕食はお互いトマトジュースだけにしてカロリー調整すれば、身体への影響も少ないし罪悪感もない。

 私は一度熱が入ればとことん夢中になる人間だ。それを仕事にしたのがヘアメイク。プロとして、今一番傍にいてくれるパートナーを変えてみせるんだ。目についたポケモン専用ブティックに入り、アクセサリーや専用の化粧品を吟味する。化粧品と言っても当然人間並みには装えないし、道徳的な問題もあるから毛色を少し染める粉くらいしかない。
「ねえ、ゴルバットちょっと来て!」
 天の川のように輝くクリスタルビーズのアンクレット類に釘付けのゴルバットを呼びつけ、染粉のテスターを肌に付けてみた。ボディラインの紺色の毛並みに黒い粉を馴染ませ、身体の内側に向けて色をぼかしていく。すると身体の輪郭が黒で強調され、引き締まったように見えるのだ。次に金と紅色の粉を手の甲で混ぜ合わせ、ゴルバットの瞼へ塗り込むとラメ入りアイシャドウの完成。黒い粉で目の周りを囲めばアイラインも出来上がる。これだけでゴルバットの色気がぐっと増し、目元のインパクトが口の大きさを中和してくれる。まずはひと段落――息をつくと、若い女店員の視線が突き刺さった。
 しまった、試し過ぎたかもしれない。これじゃあまるでドラッグストアにすっぴんで入店し、テスターで化粧を済ませる自堕落女じゃないか。
「か、買いますんで! アレルギー反応や発色を確認したかっただけで……」
 慌てて弁解すると、吹き出物で苦労してそうな肌の店員は私の手を取り、黄色い声を弾ませた。 
「お客様、すごいですね。まるでお化粧みたい! ゴルバットちゃんがとっても可愛らしくなった!」
 感激する彼女の反応に弾かれ、ゴルバットは姿見へと飛び、今まで聞いたこともないような歓声を上げる。その変貌ぶりに興奮したのか、翼をばたつかせ傍に陳列してあったアクセサリーを撒き散らした。私の身体からたちまち血の気が引いていく。
「何してんの、喜びすぎだってば! すみません……すぐ拾いますね」
 高そうなネックレスやリボンが滅茶苦茶。急いで拾い上げながらも、今どきのポケモンって人間顔負けの装飾品を身に付けているんだなぁと感心した。お値段もなかなか上等である。
「ああ、お気になさらず。美人になって嬉しいんだよねー、ゴルバットちゃん」
 女店員は呑気に商品を拾いながら、はしゃいでいるゴルバットへ微笑んだ。彼女は嬉しそうに鳴いて答える。派手に暴れたお陰で、その翼にはレースのテーブルクロスが引っ掛かっていた。カーテンの上飾りみたいで、より華やかになったような。
「レースの翼もお洒落ねえ! 人間顔負けかも」
 店員も同じことを考えていたようで、大はしゃぎしながらゴルバットに次々商品を飾り付けていく。その姿はまるでシャンデリア、さすがにやりすぎだ。ひとしきり終わったらコーディネートをまるごと買わせるつもりなんだろうが、その手には乗らん。だけど当のゴルバットはコンプレックスである口の印象を霞ませる化粧とアクセサリーを施され、心の底から幸せそうだった。鏡を眺めながら宙を舞っている姿は、まるで初めてお洒落をした女の子。これじゃ逆に、シンプルなニットと細身のパンツ姿の私が地味すぎる。一人苦笑してしまうけど――それはすぐにアイディアへと変わった。そうだ、トレーナーがポケモンに合わせればいいじゃない。

+++

 そんなわけで撮影当日、私がモモちゃんに施したのはグライオン風のヘアメイクである。ブラウンのロングヘアを緩く一本の三つ編みにして横へ垂らし、キバサソリの尾をイメージ。頭には赤いリボンが付いたコウモリの翼型カチューシャを、目元は刺激的なイエロー系のアイメイク。そして服装は小柄な女性スタイリストに頼み、紫色のワンピースに赤い大きなベルトを合わせるコーディネートにしてもらった。彼女の私物だと言う派手なカボチャモチーフのネックレスまで付けてくれて、ハロウィン感は満点である。
「いかがでしょう、簡単ポケモンメイクです。普段挑戦するにはちょっと勇気がいるけれど、今回はハロウィンですから。過度に仮装しないことで、“大人可愛い”ニコル読者にも受けがいいかと」
 渾身の出来に、スタッフ一同から称賛の声が上がる。特にモモちゃんは大感激で、グライオンと一緒に自撮り写真を何十枚も撮影し、わざわざ私の手を取って何度も何度も礼を言ってくれた。こんなに無邪気に喜んでいる姿は見たことがなく、私もちょっとだけ誇らしい。
「本当に可愛いっ! ありがとう、ユメコちゃん。グライオンとお揃いだし、すごくお洒落!」
「ありがとうございます。この後クロバット、ムウマージ、ジュペッタ、ココロモリのヘアメイクがありますので撮影頑張りましょう」
 今日中にきっちりスケジュールをこなさなければならないため、この後は時間との勝負になる。モモちゃんは「えー、これ崩したくないなー」と不満を漏らしつつも、赤い蝶ネクタイを付けたグライオンと共にスタジオセットの中へ入って行った。オレンジを基調とした背景に、黒いレースをたっぷり飾りつけたファッション誌ならではの洗練されたセットは、誰も見た事のない“可愛らしさ”に溢れており、この舞台で私の考案したヘアメイクをお披露目できることは誇りだ。私のメイク特集を読んで化粧を真似し、参考にしてくれる女の子がいる。場合によっては定番にしてくれる――これ以上ない、幸福かもしれない。そして、今回はうちの子もここに加わることができるのだ。
「ゴルバットちゃんお願いしまーす」
 呼び出しがかかり、足元から緊張が押し寄せてきた。メイク道具をしまう黒いウエストポーチに忍ばせていたボールを取り出し、中の相方と目を合わせた。うん、バッチリ決まってる。自信たっぷりに宙へとボールを投げ、満を持して登場したのは、間違いなく世界一お洒落なゴルバット。
 二週間で身体を絞り、染粉のメイクで表情を華やかに。鋭い目元は柔らかく、だけど視線を引きつける艶っぽい仕上がりにした。耳や足首には照明に煌めくクリスタルビーズのアクセサリーを、大きな両翼にはバレエのチュチュスカートなどに使われる細かい網目模様のチュールレースを垂らし、その上から黒いアンティークレースを重ねてハロウィン向けのゴシックだけど可憐な飾り付け。メイクアップアーティスト・ユメコの自信作だ。
「うわあ、素敵! ポケモンにヘアメイクをしたんですか」
 スタジオのあちこちから湧き上がる拍手喝采が心地良い。ゴルバットも得意げになり、セット内で待機しているグライオンへ自信たっぷりの情熱的な眼差しを送っていた。美人になって心も晴れやかな姿には私もついつい頬が緩み、解説する口調も軽やかになる。
「専用の染粉を組み合わせて疑似メイクを施してみたんです。皮膚に害はないし、華やかになりますよ」
「見違えるくらい美人さんになったねー。翼やアクセに目が行くから、お口もあんまり気にならないかも。ちょっと身体を曲げて飛んでくれたらもっと小さく見えるよ」
 カメラマンがゴルバットを褒めながら、セット内のポジションへと案内した。さすが、彼は見せ方が分かっている。ゴルバットに向けてお腹を曲げるようジェスチャーすると、彼女は必死にその体勢をキープしながらモモちゃんの横についた。なかなか苦しそうだけど、写真写りとグライオンを気にする姿は乙女そのもの。あまりに可憐なので、私はちょっとだけ吹き出した。ちなみにモモちゃんを挟んで反対側にいるグライオンはというと、珍しげにゴルバットを凝視している。どうかな、君の琴線に触れるかい? このまま良い流れになってくれれば――淡い期待を抱いたその瞬間、モモちゃんが素っ頓狂な声を上げた。
「こんなの詐欺じゃん!」
 そのたった一言がスタジオの空気を凍りつかせる。
「ポケモンにメイクするなんてありえないしー! 盛りすぎ、ケバいよ」
「そうかな。飾り立て過ぎず、怖いイメージを抱く人が多いゴルバットが華やかで可愛く見えて素敵だよ。ポケモンへのヘアメイクと言っても、これくらいは許容範囲でしょ」
 すかさずスタイリストがフォローし、周囲のスタッフも頷いた。ゴルバットが納得しているとはいえ、私もポケモンへのメイクにはちょっとだけ後ろめたさがあったから、肯定派が多くて安心した。だけどモモちゃんは腑に落ちないようだ。きっと自分だけ注目されたいのだろう。そのモデル根性は見上げたものだけど、あからさまに不満げな顔をするのはやめてほしい。
「口を小さく見せても、実際のサイズは変わらないんだよ。ねー、グライオン」
 モモちゃんはゴルバットを指差し、グライオンと笑い合う。頑張って身体を折り曲げていたゴルバットはショックを隠せない様子だった。あまりの傍若無人さに私も唖然としたが――これじゃまたあの子は翼で口元を隠し、何もかも台無しになる。もう黙ってはいられない。穏便に済ませようとするスタッフたちの視線を振り切り、私はセットに足を踏み入れた。
「ちょっと、言い過ぎでしょう。それを言うならモモちゃんのアイメイクだって同じじゃない。目を大きく見せてるだけなんだから。勿論どっちも詐欺じゃない、可愛くなるための技術みたいなものよ。人間と同じようにお洒落したい、コンプレックスをカバーしたい……そんなポケモンの希望を叶えちゃ駄目なワケ?」
 私の剣幕に押されたのか、モモちゃんは一瞬目を丸くしたが――すぐ誤魔化すように笑い飛ばした。
「なんかユメコちゃん真面目ー」
「自分のポケモン馬鹿にされて、黙ってる“おや”はいないわよ」
「だって本当の事だもん。だよねー、グライオン」
 グライオンは調子に乗ってケタケタと笑いながら、ゴルバットの翼に掛かっているレースを尻尾の先で小突き始める。あの鋭い切っ先に繊細なレースが引っかかったら台無しだ――青ざめる私を察したのか、ゴルバットが翼を翻し、鋭利な尾を軽く振り払った。
「あっ! うちの子に何するの!」
「何って、ちょっかい出したのはモモちゃんでしょ? プロなんだからさ、空気読んで穏便に撮影しましょ」
 やけに慌てふためくモモちゃんを諭そうと、美人編集さん始めとするスタッフ、彼女のマネージャーが次々に駆け寄ってくる。私は落ち込んでいるゴルバットを安心させようとしたが、背後で殺気を感じて振り返った。その瞬間、首筋にグライオンの尾が飛んでくる。間一髪でゴルバットが私の腕を掴んで引っ張り、セットの端へ回避させた。し、死ぬところだった……勇敢な相棒を褒めつつ、苛立ちながらグライオンを睨み付けると、そこには私より遥かに憎悪を露わにしている禍々しいポケモンが居た。
「ちょ、ちょっとモモちゃん! なんであんなに怒ってるわけ!?」
 先ほどまでの軽妙な雰囲気からはとても想像できないグライオンの姿に、サッと血の気が引いていく。スタッフもモモちゃんも、一目散にセットから逃げ出した。おいおい、トレーナーが逃げちゃだめだろう。彼女はいつも苦労を掛けている女マネージャーに抱きつきながら、涙目で私に教えてくれた。
「その子超短気で、ちょっと叩いただけですごーく怒るんだ……」
「はあ!? 野生のポケモン並じゃん、ちゃんと躾してるの?」
「……元彼が置いてったポケモンなの。いい子いい子してればご機嫌なんだけど、ちょっと気に入らないことがあるとすぐキレちゃって……あたしバッジ一個も持ってないし、手懐けられてないの。どうしようー!」
 なるほど、今まで我が儘放題に育てられていたからヤンキーみたいなポケモンになったという訳ね。ゴルバットに向けられている眼差しは、戦闘本能を剥き出しにしている野生ポケモンの気迫そのもの。これは不味い、なんとか場を収めなければ撮影が台無しになる。私はスタジオ内にいる、十数名のスタッフ向けて声を張り上げた。
「だ、誰か他にポケモン持っててバトルが得意な方!」
 皆、頼りなくかぶりを振る。予想はしていたが、一人も協力が得られないとは。
「持ってるけど……バトル下手くそだし、あんなのに勝てる気がしない……」
 傍にいたスタイリストは、ボール内で震えているクマシュンを私に差し出した。鼻水が倍に伸びており、どう見ても戦うのは無理だ。
「とりあえず、機材避難させて他のスタジオにポケモンバトル得意な人がいないか探してきて!」
 現場を取り仕切る編集さんが男スタッフらに機材をどけさせ、スタイリストやライターが他のスタジオへと走る。カメラマンは自身の命とも呼べる上等なカメラを抱え、モモちゃんはマネージャーとスタジオの隅っこに避難、とりあえず場をしのごうと思った矢先に私とゴルバット目掛けてグライオンが飛びかかってきた。
「ゴ、ゴルバット……かげぶんしん!」
 バトル経験はないが、夜道で野生ポケモンに遭遇するとこれで翻弄し、隙を見て逃げるのが定石だった。なのでこの技だけは繰り出すのが早く、ゴルバットは分身するように高速で移動し、私を守りながら見事に攻撃を回避する。翼を飾るレースもなんとか崩れなかった。
「ナイス、ユメコちゃん。とりあえず助っ人が来るまで、それでしのごう」
 編集さんが指を鳴らし、スタジオに残ったスタッフを部屋の隅に避難させる。
「いや……でもこれは限界があります!」
 ヤケクソになり、“かげぶんしん”を連呼しながらひたすら逃げ回っているけれど、ゴルバットは既にヘトヘト、グライオンの方も全く攻撃が当たらず苛立ち始めている。状況はあまり良くない。
「こういう時に経験豊富な人間がいれば……今度からバトル考察雑誌経験者を撮影チームに入れるべきね。それから身の丈に合っていないポケモンを持つモデルには、事務所からバッジ取得を義務付けてもらわなくちゃ」
 編集さんは頭を抱えながら隅で震えているモモちゃんを睨み付けた。そういえば、この出版社ってトレーナー向けの雑誌も多く出しているんだっけ。これは使えるかもしれない。
「編集さん! それです、それ。出版社で発行してるトレーナー雑誌を参考に戦いましょう」
 逃げるゴルバットを追うグライオンは、スタジオの壁を尾の切っ先で引っ掻きながらあちこち傷付けている。放っておけばセットも壊されてしまうだろう。これ以上、滅茶苦茶にされてなるものか。応戦するしかないと、私は逃げ回るゴルバットに目配せした。彼女も逃げ回ることに限界を感じていたようで、アクセサリーなどを名残惜しげに見つめつつ、納得したように頷いた。相手はろくに躾けられていない野生みたいなポケモン、マニュアルに沿って戦えば、バトル経験の少ない私でも何とか封じ込められるはず。
「分かった、それで行きましょう。初心者トレーナー向け雑誌“ビギナーズ”が参考になるんじゃないかしら……」
 編集さんはグライオンの攻撃を気にしつつ、私物のショルダーバッグから会社配布のタブレット端末を取り出し、私の傍へ駆け寄ってきた。昨今の雑誌は全て電子化されており、これでバックナンバーを確認できる。便利な時代で助かった。編集さんは赤いネイルが塗られた指先で流れるように当該の雑誌を探し、タチワキシティジムリーダーのホミカちゃんが表紙になっている号で興奮気味に声を上げた。
「“毒ポケモン育成特集”! これ、載ってるんじゃない?」
 編集さんからタブレットを受け取り、画面を引っ掻くようにスライドしていく。そうこうしているうちに、グライオンは怒り心頭のままゴルバットの視界へ飛び込んできた。鋭利な尾が振り上げられると同時に、ゴルバットの頁に辿り着く。熟読している暇はない、目に飛び込んできた技を叫んだ。
「ゴルバット、“あやしいひかり”!」
 グライオンが尾を振るうより早く、ゴルバットが全身から鈍い光を放出し相手を眩ませる。彼女はまだ未練が残っているらしく、やや心配げにグライオンの顔を覗き込んでいる。私としてもあまり攻撃したくない。目を眩ませたグライオンが自我を失っている隙に、ゴルバットの解説を読んだ。
「相手と実力差がある時は“どくどく”を使いましょう。“あやしいひかり”、“ちょうおんぱ”などの技で翻弄し、逃げ回って体力を削るのがベター。また、ゴルバットは一度に三百ccもの血液を吸い取ってしまうので、“きゅうけつ”で貧血にさせ弱らせるのも手です」
 路上バトルでこんなことしてたらトレーナーに因縁つけられそうだ……一瞬辟易していたところ、編集さんが画面を覗き込む。
「グライオンって毒が効かない子がいるって聞いたことがあるけど……ねえモモちゃん、念のため聞くけどこの子はどうなの?」
 二人で視線を向けた先で、モモちゃんは今にも泣き出しそうになりながら三つ編み頭を傾げた。まあこれは予想していたこと。
「とりあえず毒攻撃は控えます。ゴルバット、“きゅうけつ”!」
 その指示にゴルバットは躊躇っていたものの、すぐに意を決し、アクセサリーを鳴らしながらグライオンの肩へ噛み付いた。好きな子とのハグがこんな形になってしまってごめん、せめてたっぷり血を吸って気絶させてくれれば――淡い期待を抱いたが、混乱状態のグライオンはがむしゃらに身体を振り乱し、その尾でゴルバットの翼を貫いた。それと共にレースが引き千切られ、彼女は悲痛の叫びを上げる。
「ゴルバット!」
 ゴルバットは無残に宙を舞い、スタジオの床へと落下していく。私はタブレットを編集さんに預け、落下点へ走った。こんなことになるなら、ちゃんとバトルの練習をすればよかった。路上でトレーナーに試合を持ち掛けられても逃げてばかり。
 やはりポケモンは、お洒落よりバトルの方を磨くべきなのかもしれない。
 後悔が涙になって滲んだ。無残に引き裂かれたレースが、ゴルバットの両目に引っかかる――直後、力なく落下していた彼女の顔つきが一変した。私が伸ばした両手の間をすり抜け、空中で大きく弧を描きながら軽やかにグライオンへ飛びかかった。ボロボロのレース飾りが残っている翼で相手の頭を斬り付けると、貧血気味のグライオンは眩暈を起こしてセットの上に倒れ込む。ゴルバットはざまあみろ、と言わんばかりの表情で彼を見下ろしていた。
 僅か数十秒の逆転劇に、スタジオ内の誰もがぽかんと口を開け立ち尽くしていた。それは私も同じで、ゴルバットが何故豹変したのかまるで理解できなかった。あんなアクロバティックな技できるんだ、と他人事のように感心しているほど。
「いやあっ、グライオン!」
 ようやく沈黙を破ったのは、耳を劈くようなモモちゃんの悲鳴だった。セットへ走り、グライオンを抱き起す。なんだ、結構優しいところあるじゃん――と見直し、その場面にちゃっかりレンズを向けるカメラマンに呆れたのも束の間、グライオンが唸り声を上げながらモモちゃんを押しのけ、余力を振り絞ってゴルバットに襲い掛かる。
「危ない! も、もっかい“あやしいひかり”!」 
 私の裏返った絶叫より先行して、ゴルバットが鈍い光を放つ。目を見張ったその瞬間――彼女の腰からもう二つの翼が生えたかと思うと、みるみる姿が変化していった。耳が伸び、口が縮んで身体は一回り大きくなっていく。私は目を疑った。まさかこんな状況で、人生で二度目の進化の瞬間に立ち会えるなんて!
 あの子がクロバットに進化するなんて!
 誰もが仰天し、カメラのフラッシュも瞬いた時――彼女はスタジオ内を震わせるように猛り立った。鼓膜を麻痺させる鳴き声に全身が痙攣し、身動きが取れない。
 グライオンもたちまち怯み上がり、股の間に尾を挟んでセットの上でへたり込んでいるモモちゃんへ縋りついた。その様子からはすっかり戦意が抜け出し、これ以上手出しする必要はなさそうだ。ようやく安堵したところへ、慌ただしい足音を響かせながら小太りの同業者を連れたスタイリストが現れる。
「第四スタジオからバッジ六個の強豪連れてきましたっ!」
 そしてタッチの差で事態が収束した現場を目の当たりにし、引っ張ってきた汗だくの助っ人と顔を見合わせる。お約束すぎる流れに私は思わず吹き出し、それが次々と連鎖して緊迫していたスタジオの空気はすっかりと和らいだ。これだけでも彼女の功績は大きい。気持ちも落ち着いてきたところに、進化した相棒が耳を折り曲げながらしょんぼりと帰還した。スリムになった翼に引っかかっている、ぼろ切れみたいなレースを見せ、掠れる声で鳴きながら悲しみを露わにしている。さっきの勇猛果敢な姿はどこへやら。でも、それを見て私はピンときた。
「もしかして、レースを破られたから反撃したの?」
 クロバットは小刻みに頷く。グライオンを振り向かせるためにお洒落したはずなのに、なんで私に申し訳ない顔をするんだ。本末転倒だぞ。だけど、彼女こそ私のパートナーなんだと嬉しくなった。胸のあたりが激しく熱を帯び、スタジオ内じゃなかったら泣いていたかも。今は仕事中だから涙は見せられない、だから笑顔に変えよう。
「そんなのまた作り直せばいいよ。それより、これ見て!」
 私はウエストポーチから手鏡を取り出し、クロバットの前に向けた。
「口が小さくなってる!」
 三分の一以下に縮んだ口元を突っつきながら微笑むと、クロバットの表情にも眩い光が広がった。身体をあちこち動かしながら小さな鏡に映る小さな口を楽しげに眺める姿は、お洒落に目覚めた女の子そのもの。こちらも心地良くなるくらい可愛くて、早く仕事を終わらせレース飾りを作り直し、たっぷりお洒落してあげたい衝動に駆られるのだった。

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 自宅マンションのリビングに、新しく飾った写真がある。
 ぼろぼろのレースに取れかけのメイクを施したクロバットが、グライオンとそれに似た格好をしたニコル人気モデル・モモを驚かせている構図になっていて、オレンジと黒の背景がハロウィンらしさを醸し出している作品だ。クロバットが進化した直後にシャッターを切ったカメラマンのファインプレーで生まれ、自然体の表情が関係者内で大好評、見事ハロウィンメイク特集の一ページ目を飾ることができた。とてもいい写真なので、彼に頼んで大きく引き伸ばしてもらい、額に入れて飾っているのだ。
 だけどクロバットはこれが気に入らないらしく、写真が目に入るたびに緩い風を起こして額を倒し、視界から消している。これで何十回目だろう。もうすっかり慣れた私は、すぐに拾い上げて元の場所に戻した。
「もー、いい写真じゃん! これ、読者からも人気高いらしいんだよ」
 むくれているクロバットは抱え込んでいた貰い物の高級クッキー缶に後ろ羽を突っ込むと、器用にチョコクッキーを一枚だけ弾き飛ばし、口の中へ放り込んだ。その耳にはサテン地の上品なシュシュ、前の翼二枚にはフェイクファーが飾り付けられており、上品で華やかな印象を与えている。あの撮影からすっかりお洒落に目覚めた彼女は毎日コーディネートを要求するようになり、私もそれに乗ったものだから、このボロボロの装いをしている写真が気に入らないのだ。片思いしていたグライオンも写っているしね。だけどこちらにはすっかり未練はなく、その情熱はお洒落と食べ物にシフトしちゃったようだけど。まさに女心と秋の空ってやつか。
「これ飾っとくのも今日までだからさ、大目に見てよ」
 クロバットに苦笑すると、室内にインターフォンが鳴り響く。来た、来た。
「はーい、今行きます」
 モニターで来客を確認し、キッチンに置いていた小分けのお菓子入りバスケットを抱えて玄関へ向かう。リビングで再び額が落ちる音が聞こえたが、戻っている暇はない。ハロウィンの写真を飾っておくのも、そのイベント当日まで。玄関の扉を開けた途端、様々なお化けの仮装をした小中学生くらいの子供たちが声を揃えて挨拶してくれた。
「トリックオアトリート!」
 これはファミリー暮らしが多いうちの賃貸マンションで、毎年ハロウィンに行われているイベントだ。協力してくれる家々をお菓子をもらって回る。今年から参加してみたけど、皆仮装が凝っていて職業柄、お菓子そっちのけでじっくり観察してしまう――と、その奥に見覚えのあるヘアメイクをした中学生らしき女の子二人組が居た。一人は片側へ垂らした三つ編みに、頭にはコウモリの翼型カチューシャ、紫と赤の服。それからもう一人は、同じ形のカチューシャに低めの位置で結んだツインテール。赤系のアイメイクに、紫色の服――私が提案した、クロバット風ヘアメイクだ。
「ねえ、その格好……」
 私は今、心臓が飛び出しそうなほど興奮している。喜びがとめどなく溢れ、バスケットを抱える腕が小刻みに震えていた。思えば“私の技術”だとはっきり分かる企画はあのハロウィンメイクまで請け負ったことがなかった。だけどプロ三年目にして初めてこの目で確信したんだ。私が考えたヘアメイクを、読者が真似してくれている!
「姉がニコルを読んでるんですけど、今月号に載ってたメイクが可愛くてやってもらったんです」
 グライオンメイクの女の子が照れくさそうに微笑んだ。アイラインが歪んでいるなど荒はあったが、そんなのどうでもいい。昇天しそうなくらい嬉しくて息が詰まり、言葉を返せないでいると、猫耳を付けた小さな魔女が私のニットの裾を引っ張った。
「ねえねえ、お姉ちゃん、お菓子!」
「これあげる!」
 私は反射的に、お菓子の詰め合わせが入っているバスケットをその子に押し付けた。だけど、今はもっとお礼がしたい気分だ。こんな一袋当たり百円程度の詰め合わせじゃ恩を返せない。
「あと、ちょっと待ってね……!」
 踵を返し、リビングへ疾駆した。変な住人だと誤解を生みそうだが、今はそんなこと後回し。部屋に滑り込んできた私を見て、クロバットが身体を大きく跳ね上がらせ、高級クッキー缶が宙に浮く。これだ。彼女より早くキャッチし、再び玄関へ急いだ。キーキーと煩く喚かれたが、あの子は最近食べ過ぎだから気にしない。
「お、お待たせ! これもあげるねっ!」
 玄関でお菓子を分け合っている子供たちの輪の中へ、クッキー缶を突っ込んだ。うちのコウモリが二、三枚つまみ食いしちゃったけど皆気にすることなく歓喜し、好みのクッキーを次々選び取っていく。私は今、最高にいい気分だ。ああ、何か叫びたい。そうだ、「トリックオアトリート」と言われたら定番の返答があったな。便乗しちゃおう。私は口々に礼を言う子供たちを零れ落ちそうな笑顔で見送りながら、喜びを放出した。
「ありがとう、また来てね! ハッピーハロウィン!」

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