波乗りニューラ

 イケメンジムリーダーでサーフィンも上手い。この条件でモテないはずがない。
 ソウタは防波堤の端に腰かけ、そんなことをぼんやり考えていた。あらゆる青色をかき混ぜたようなムロタウンの鮮麗な海は、この雲一つない晴天にも関わらずやや荒っぽく波打っている。それはサーファーにとって絶好の環境だった。この日も沢山の地元サーファーが集まっていたのだが、皆波に乗らず、海面に漂いながら同じ方向を眺めている。“彼”に注目しているのだ。
 次の瞬間、押し寄せる高めの波――これは難易度が高い。大きく壁を成す前に、海面から様子を伺っていた“彼”がナックルバッジ柄のボードへ立ち上がり、軽やかに波に乗った。波しぶきの上を滑っていく様は誰が見ても爽快で、砂浜でこの模様を見ているビキニ姿の娘たちも携帯片手に黄色い歓声を上げる。
「トウキさん、超かっこいー!」
 彼の耳にはギャルの声援だけ届いていたらしく、水上で右手を掲げながらにこやかに反応した。そんなことだから、彼女たちはトウキに夢中である。
「こりゃ来月の大会もあいつで決まりだな……」
 ソウタの傍でこの様子を眺めていた一般サーファーが、肩を落としながら海へと向かって行く。立派に日焼けした背中を眺めながら、ソウタは両膝を抱えて溜め息をついた。自分の皮膚はほんのり焦げている程度、傍に置いている新品同然の赤いサーフボードと相まって経験の浅さが露呈している。そして美形のトウキにはとても敵わない、あっさりした醤油顔。
「……何だよ、世の中は不公平だな」
 彼はむくれながら、足元に転がっている小石を砂浜めがけて蹴り上げた。それと入れ替わる様に、パタパタと相棒の足音が聞こえて来る。一メートルに満たない濡れ羽色の小さな身体――雄のニューラである。両手にはジュースの缶が二つ握られていた。
「お、ありがと」
 彼はニューラの頭を撫でつつ、差し出されたコーラの缶を開ける。同様に相棒も鉤爪を使って器用にプルトップを開け、お気に入りのアセロラジュースを口にした。
「さっき上手い奴が滑ったんだけど、アレ見てたら海に入る気なくしたわ……ここで背中焼いてようかな。どうせ来月のサーフィン大会もトウキが優勝だろうさ」
 弱気な主人を見て、ニューラは慰める様に肩をポンポンと叩いた。彼は十八歳になる現在までネガティブ思考が強く、すぐに物事から逃避するきらいがある。相棒のニューラはそんな彼の一番の慰め役であった。折角海へ来たのだから一度は滑っておけとアピールしていると、背後からビーチサンダルが駆けてくる足音がして、ニット地のカラフルなビキニを着た娘が現れた。
「ソウタ! もしかして、もうトウキさん滑り終わっちゃった!?」
 下から見上げたその美少女は、キャラメル色のポニーテールを揺らし少し日焼けした滑らかで瑞々しい肌を惜しげもなく晒していた。その可憐な顔よりも、ソウタはたわわな胸に釘付けだ。彼女はクラスメイトのアオイである。
「ついさっきね」
 ソウタは冷静さを装いつつ、得意げに告げる。
「嘘〜っ! マジショックなんだけど……折角勝負ビキニで来たのに」
 残念そうに顔を歪ませながら、アオイは汗で張り付いているビキニの肩紐を引っ張り、ぱちんと弾いた。身体を覆う僅かな布がほんの一部分、数秒離れただけでソウタの心がざわめき立ち、ひた隠しにしている淡い想いが零れてしまいそうになる。それでは何となく格好悪いと、彼は皮肉っぽく白い歯を見せた。
「まだ探せばいるんじゃない? “お持ち帰り”してくれるかも」
「うん、分かった! 探してみる」
 あっさりと了解するアオイに、ソウタの心が下げ潮のように引いていった。彼女は高校一年の頃からずっとトウキに憧れており、付け入る隙も与えてくれない。現状彼女を攻略することは、ムロタウンに時折押し寄せるビッグウェーブに乗るより難しいのだ。
 そんなソウタの気持ちも露知らず、アオイはポニーテールを揺らしながら彼に尋ねる。
「ところでソウタ、あんた海へ行かないの? 今日は波もそんなに高くないよ、絶好のビギナー日和じゃん」
 大きな丸い目と視線が合い、彼は照れを隠すようにコーラを口にした。「……こ、これ飲んだら行く!」その隣で、ニューラが呆れながら肩をすくめる。すると、アオイはにこやかにその頭を撫でた。彼女は無類の悪ポケモン好きだ。
「ニューラも頑張ってね! ところで来月の大会には出るの?」
「お、おう……一応二つともエントリーした」
 彼はぎこちなく、自信ありげに頷いた。
 ここムロタウンでは、毎年八月に大規模なサーフィン大会が実施されている。個人の部とトレーナーとポケモンのタンデム(二人乗り)サーフィン部門の二種があり、各自その磨き上げたテクニックを競い合うのだ。ここ数年は地元ジムリーダーのトウキとそのポケモンが表彰台を独占している。
「うっそ、まだサーフィン始めて半年じゃなかった? クラスでも全部エントリーしてる人、他にいないよ」
 アオイは目を丸くしながら素っ頓狂な声を上げた。ソウタは昨年末に部活を辞め、サーフィンを始めたばかりビギナーである。元々“なみのり”を体得しているニューラはともかく、いきなり全ての種目にエントリーするなど無謀でしかない。
「オレ、結構才能あるからさー……努力の壁は天才しか越えられない、っていうか」
 強がりつつも、ひきつった笑みからは後悔が滲んでいる。アオイはお見通しとばかりに、からかうように微笑んだ。
「ふう〜ん。まあ頑張ってね」
「トウキさんのついでに応援してよ」
 本当は自分だけを見てほしいのだが。その願いはまだ叶わない。
「うん、それならいいよ! じゃ、練習さぼらず頑張りなよ!」
 彼女は太陽のように眩い笑顔を見せると防波堤を飛び下り、二メートル下の砂浜へ着地。そのまま海へと駈け出して行った。引き締まった足が砂を蹴り上げ、アオイの姿を霞ませる。砂塵の向こう側に揺れる、カラフルなビキニに包まれた小ぶりのヒップがソウタの心をくすぐった。
 サーフィンを始めた動機も彼女だった。
 健康的で明るく、積極的。そしてなによりあの美貌――このムロタウンにぴったりの、ハイビスカスのようなロコガールである。やや受け身のソウタには理想の女性だった。
 だからこそ、その目をトウキから自分へ向けさせたい。ならばサーフィンの腕を磨くしかないだろう。
「……ニューラ。オレは割と本気で、来月の大会に優勝したい」
 主人からふつふつと湧き上がってくる闘志を、相棒も敏感に感じ取っていた。ニューラは飲み終えたジュースの缶を律儀に握りつぶしながら頷く。
「打倒、トウキだ! 行くぞ!」
 彼はコンクリートに張り付いていた尻を上げ、新品同然のサーフボードを抱えて立ち上がった。雲一つない青空の下、ムロの海は太陽光が反射してきらきらと輝きながら波打っている。ソウタは深呼吸すると、水着のポケットからサーフィン用のスポーツサングラスをかけ、気弱な相貌を覆い隠す。そして防波堤を踏み切って豪快に砂浜へ飛び降りると、ニューラと共に真夏の海へと駆け出して行った。

+++
 
 夏休みに入るとサーファーの数はぐっと増加する。高校三年のソウタは受験勉強もそこそこに、毎日海へ通っては波乗りに励んでいた。そうしているうちに混雑する人気エリアを避け、比較的人の少ないサーフポイントを選ぶようになってくる。しかしそういった場所は上級者が多いのだ。
「行くぞ、ニューラ」
 彼はサーフボードの先頭にニューラを立たせながら、海面でパドリングを始める。両手でボードを漕ぐ背後から鼻で笑うような声が聞こえた。
「あいつ動きがカッチカチだなぁ。初心者はスープで練習した方がいいんじゃねぇの」
 ソウタは気にしないふりをしたが、心無い言葉は弱いメンタルに突き刺さる。ニューラが頭を後ろへ向けて、気にするなとばかりに彼を睨んだ。
「お、おう……全然平気」
 それより今は背後に迫る波に乗ることが重要である。押し寄せる海水が膨れ上がって、反り立つ壁と化して彼に襲いかかってきた。ソウタは反射的にボードの上に立つ――その技『テイクオフ』成功。身体は小刻みに揺れ、油断すれば振り落されてしまいそうだったが、バランス感覚をニューラが補ってくれたので、なんとか波に乗ることができた。
 “なみのり”が得意な多くのポケモンは、人間より身体能力に優れており大変に頼もしい。ソウタが所有するニューラもその一匹で、アオイが悪ポケモン好きということで捕獲したものの、今ではいい相棒になっている。
「お、おお〜っ! いいぞいいぞー! ニューラ最高っ!!」
 ニューラにリードされているのはやや情けないが、波乗りの爽快感がそれを帳消しにした。軽やかに波の中腹部を滑っていると、先ほど陰口を叩いていたサーファーが「やるじゃん」と感心の声を漏らす。それがとても誇らしくて、ソウタは思わず歓声と共に両腕を上げるが――その途端、バランスを崩して波に飲み込まれた。
 海中では美しい蒼の世界にダイヤモンドのような無数の泡が燦然と輝いている。温かな海に包まれ、永遠に眺めていたい絶景だが、たちまち息苦しくなって海面に上がった。サーフボードに乗ったニューラがパドリングで近寄ってくる。
「超気持ちよかったな! 毎日練習すれば優勝狙えるかもよ」
 波乗りの途中で足を引っ張られたニューラは不服そうにしていたものの、嬉しそうな主人にその頬はすぐに綻んだ。ソウタはニューラとハイタッチすると、再び波を目指してボードを漕ぎ始めた。

+++

 台風の翌日は絶好のサーフィン日和である。
 前日、大型の台風がムロタウンに接近し、ソウタは心躍らせながら大荒れの窓の外を眺めていた。勉強は一切手につかず、ニューラに呆れられる有様。しかし練習に確かな手ごたえを感じ取っている今は、サーフィンしか頭に入ってこなかった。
 この日は早朝からサーフボードをマウンテンバイクに装着し、ボードの上にニューラを乗せて海岸へと走る。サーフボードと体重二十八キロのポケモンは重い荷物だったが、徐々に海が見えてくるとペダルを漕ぐ足も軽くなった。
 延々と澄み渡るブルーの空の下、荒れ狂う濁った海。早朝だというのに、既に砂浜はスリルを求める勇敢なサーファーたちが集まっている。
「もうあんなにいる!」
 彼は駐輪場にマウンテンバイクをとめると、Tシャツを脱いで海へと走った。比較的涼しい時間帯とはいえ、七月下旬のムロタウンの太陽がじりじりと照りつけ、ソウタの身体に汗を吹き上がらせる。まるで早く海へ入れと言わんばかり。
「ニューラ急げ!」
 汗だくになっている相棒を急かしながらようやく砂浜を踏みしめた時、見慣れた娘の後姿が目に入った。カラフルなチェックのビキニが透けるシフォン地の白いノースリーブブラウスに、デニムのショートパンツ。そこからすらりと伸びた足に視線が移動するなり、彼女がポニーテールを揺らしながら振り返った。
「あ、ソウタ! おっはよう」
 大きくうねる波への魅力すら霞ませるアオイの笑顔に、ソウタは思わず息を呑む。 
「お、おはよう……」
 口ごもる彼を気にせず、アオイはニューラの頬を両手で挟んでぐりぐりといじくり始めた。
「ニューラもおはよ〜う!」
 ソウタには理解不能な行動だが、今は相棒が羨ましくて仕方がない。赤いサーフボードが目に付いたアオイが、ようやく彼に視線を戻してくれた。
「もしかして滑るの〜? 大丈夫?」
「へ、平気だよ!夏休み入ってからほぼ毎日練習して、こないだ一回だけオフザリップが成功した」
 オフザリップは波の上で素早くボードを回転させる、高度なターン技である。ニューラと練習中に出来心で挑戦したところ、見事成功することができたのだ。まごうことなきビギナーズラックだが、ソウタはあたかも練習の賜物と言わんばかりに語っていた。
「わお、凄いじゃん! 上達早いんだね」
「これはマジで優勝狙えるかもなっ!」
 と、調子づく彼に対し、アオイは「どうかなぁ」と苦笑しながら視線を海に向ける。誰かを探しているようだが、ソウタはすぐに察しがついた。「あっ、トウキさんが滑るよ!」彼女は動画撮影モードになっているスマートフォンをそちらへ掲げた。
 ソウタにとっては大変面白くない行動だが、サーファーたちのどよめきが起こり、すぐに彼の興味もそちらに移る。大きくうねるグランドスウェルと呼ばれる波が沖に形成され、サーファーたちに牙を向けた。そこへ挑むのはたった一人の勇敢な戦士と、そのポケモン。トウキはサーフボードを持ったニョロボンと並んでパドリングしながら、大波を掴むようにテイクオフ。彼らは同じタイミングで軽やかに波の上段へ乗り上げた。
(すっげ……)
 グランドスウェルの波ではボードに立つ動作、つまりテイクオフを決めることすら難しい。これだけでソウタはトウキとの実力差を思い知らされる。彼は崩れていく大波の上を、水しぶきを立てながらニョロボンと共に豪快に進んでいった。時折ターンを決め、トウキの指示でニョロボンがダイナミックな技を決めてはその度に歓声が沸き上がり、ソウタの焦燥を駆り立てる。
「やばっ、超カッコいいトウキさん撮れた! 見て見て!」
 隣ではしゃいでいたアオイが携帯の画面を見せてくれた。最新機種の高解像度カメラで撮影された動画は、不愉快なほど鮮明で勇ましいトウキの姿を捉えている。
「いいんじゃない」
 不満げな口調で答えるソウタに対し、アオイは嬉しそうに「待ち受けにしよっと!」と動画の一部を抜き取って壁紙設定を施していた。
 ――その待ち受けが、オレになる時は来るのだろうか?
 そんな不安は次第に焦りへと変わっていく。じっくり時間をかけて練習に励めば、きっとトウキに近付き、追い抜くことも可能だろう。しかしソウタは“今すぐに”その壁を越えたかった。
(努力の壁を破れるのは、天才だけだ。上達が早いオレならきっとやれる……!)
 経験が浅いことは確かだが、世の中には一年足らずの修行でポケモンリーグチャンピオンになった子供トレーナーもいる。自分だって可能性はあるはずだ。
 彼はボードを抱え上げると、意を決して海へと向き直った。
「行くぞ、ニューラ」
 この高波にニューラはやや不安げだったが、主人の真剣な眼差しを見ると引き止めるのも野暮に感じられた。他のサーファー達もトウキの後に続けとばかり、次々に沖へと向かっていく。そして予想以上の高さの波にぶつかっては海の中へ沈んでいった。
 同じようにはならない――ソウタはいつも通り、サーフボードの先にニューラを乗せてパドリングを開始した。海は浜辺から見るよりずっと乱暴で、サーファーたちを海中へ引きずり込もうと狙っているようにさえ思える。恐怖心が芽生えたが、渚から飛んできた声援がソウタを勇気づけた。
「頑張れ、ソウタ! 無理すんなよぉ〜」
 アオイが自分を応援してくれている、と思えば不安も幾分和らいだ。暴れる波が大きくうねり、膨れ上がってギャラドスのように襲いかかってくる。あまりの高さに息を呑んだが、躊躇っていては壁を越えられない。
「……ニューラ! やるぞっ!」
 ソウタは覚悟を決めてテイクオフを試みる。しかしうねる波はそれを許さず、彼らを揺さぶって横転させようと仕掛けるが――こんな時こそポケモンの出番である。彼は震える声で「こごえるかぜ!」と指示を出した。ニューラがサーフボードの周囲に冷気を吹きかけ、僅かな時間海面を凍らせて固定させたところで、ソウタはボードの上に立ち上がった。
「よ、よっしゃあ立てた!」
 湧き上がる興奮を抑えながら、ニューラの先導で眼前にそびえる反り立つ壁へと突っ込んでいく。バランスを取って必死に波の中腹を滑っていくと、グランドスウェルを支配する感覚が徐々に彼と相棒へ浸透していった。他のサーファーたちを翻弄していた凶悪ポケモンのような波の上を軽やかに流れていく様は、非常に爽快で達成感と優越感に満たされる。アオイやギャラリーの視線も気にならない、受験などの不安も吹き飛び、ただサーフィンに夢中になれる瞬間だった。
 しかし波は崩れることなく膨れ上がっていき、ソウタの身長の二倍はあろう高さまで伸びていた。そのまま海の壁は大きく巻き上がり、目の前にはチューブ状の道が一本に伸びている。
(これは……チューブいけるか!?)
 ソウタの脳裏に浮かんだのは、チューブライディングと呼ばれる、誰もが憧れるサーフィンの大技である。大きく巻いたトンネル状の波の中を滑走していくのだが、非常に難易度が高く、ソウタも未経験だった。このハイレベル技を大会で見せつければ、優勝の可能性はぐっと上昇するだろう。おそらくトウキも成功したことはないはずだ。
(この波に乗れてるんだ、今のオレならできる!)
 目指すはトンネルの先。あそこを出れば、きっと栄光が待っている。
 「行くぞ!」ソウタは相棒の肩を叩き、そのままチューブを抜けるよう指示を出した。ニューラはただ頷き、主と同様に出口を目指す。
「うおおっ、チューブやるのかよー!」
 浜辺の歓声も彼の耳には届かない。背後に迫る波は次々進んだ道を飲み込んでいき、逃げる様に出口を目指すのみ。ゴールまで十数メートル程度の距離はひどく遠く感じられるが、スリルと爽快感でソウタの心は高ぶっていた。
(やば……今日最高だ) 
 だがその刹那――ボードの先に立つニューラの肩に波がぶつかり、彼らは大きくバランスを崩した。瞬く間にトンネルの出口は閉鎖され、海は容赦なく牙を剥く。
「え……」
 ソウタが動揺したときには、身体は既に水中に沈んでいた。咄嗟にニューラは腕を伸ばしたが、それも手遅れである。台風通過で茶色く濁った海の中に引きずり込まれ、身動き一つとれず、乱暴な海流に打ちのめされた。
(……オレもう死ぬの)
 経験したことのない激しい痛みに、彼は最期を覚悟した。だがすぐに伸びてきた鉤爪がソウタの右腕を器用にすくい取り、離さないようしっかり掴んで水面へと向かって行く。薄暗くくすんだ世界の中で、彼を救出しようとする黒い影は何より頼もしく感じられた。
(ニューラ、ありがとう……)
 安堵に心を緩ませると、彼の意識はそこで途切れた。
 
 次に目を開けると、薄汚く濁っていた視界は清潔感のあるペールブルーの天井へと変わっていた。医療機器の音が一定間隔で響き、ソウタは病院のベッドの上にいることをすぐに理解する。ベッド脇に置かれた丸椅子の上に乗っていたニューラが、首を伸ばして彼の視界に入りこんだ。
「……オレ生きてたんだな」
 ニューラは頷くとすぐに椅子から飛び降り、個室のドアを開けて廊下へ顔を出す。遠くから「ソウタの意識戻ったの!?」という聞き慣れた母親の声が響いてきた。一体どれくらい眠っていたのだろう。不思議と身体の痛みはないが、右足に違和感があった。
「ソウタ、あんたやっと起きたのね!」
 ニューラと共に母親が病室へ駆け込んできた。まるで休日の朝の様だ、と彼は思った。ベッドから出てダイニングへ行けば朝食が用意されているかもしれない。しかし慌ててナースコールを押す親を見ると、やはりここは病院なのだと気付かされる。
「オレどれくらい寝てたの?」
 普段通りの息子の口調に、母は目を丸くしつつ丸椅子に腰を下ろした。
「まあ一時間くらいかしら。普通に会話できるのね」
「そんなもんなんだ。入院とか大げさすぎねえ?」
「何言ってるの! 溺れて右足骨折していたのよ! お母さんすごく心配したんだから。ニューラがいなかったら、あんた死んでたよ」
 椅子を盗られ、ベッド脇にちょこんと座ったニューラの頭を母親が撫で回した。そんな平和な光景の端に見える、包帯が巻かれ、吊り上げられた自分の右足。やや大げさな気がするし、痛みも感じないのでまたすぐにサーフィンができるような気がした。
「……骨折って全治“何日”?」
 あえて日数で尋ねてみたが、母親は呆気にとられながら肩をすくめた。
「またサーフィンするつもり!?馬鹿だね、完治にはリハビリ込みで一か月以上かかるよ。もう無茶は辞めてよね」
「いっ……一か月……!!」
 あと三週間後に迫っている大会には間に合わない。ソウタの夢や希望が引き潮に乗って去り、海の底へと沈んでいくような気がした。会話の内容はニューラも何となく分かっていたようで、残念そうに俯いている。息子とそのポケモンの落胆を見て、母親はそれ以上追い立てるのを辞めた。
「……お母さん、お父さん達に連絡してくるね」
 母親は腰を上げ、携帯片手にいそいそと病室を後にした。重苦しい空気が流れる中、ニューラがちらりと主人を見る。
「オレのここまでの頑張りは何だったんだろ……」
 ソウタは天井を見上げながら、深く溜め息をついた。空をイメージしたような色で塗られているが、ムロの海の上に広がる抜ける様な青空には程遠い。
「努力を越えられるのは天才だって言ったけど、オレはただの凡人だったな」
 ニューラは必死にかぶりを振るが、ソウタの後ろ向きな思考に拍車がかかるとサーフィンへの情熱もあっという間に冷えていった。
「……まあ、サーフィン始めたのもアオイの気を引くためだったし。トウキさんを越えたかったけど、サーフィンもポケモンも顔も……ぶっちゃけ何もかも劣ってる」
 ニューラは弱音を振り払うように頭を左右に振り続けていた。ここまでポケモンに気遣われるとは思わず、ソウタは苦笑しながら相棒の頭を撫でる。
「そこまでブサじゃないって?ありがとよ」
 しかし内心は絶望感でいっぱいだった。
 最も多くの時間をつぎ込んでいたサーフィンが突然中断し、大会への道が絶たれてはすぐに立ち直ることができない。この先は進学に向けて勉強に注力する必要があり、練習の時間は激減してしまう。
「もうサーフィン辞めて、受験勉強に専念するかぁ……」
 彼は擦れるような声でがっくりと項垂れた。
 自信の火が消えた主人の姿を見ていると居たたまれなくなり、ニューラはそっと病室を後にした。一匹でソウタの自宅へ戻ることは可能なので、人目を避けながら病院を出る。
 主人が大波に挑もうとした時、あなたにはまだ無理だと止めればよかった。ニューラの心の中に、そんな罪悪感が染みついて離れない。あの時無理にでも制止していれば、こんなことにはならなかったのに。明日からまた一緒にサーフィンを楽しむことができたのに……。
 主人の補助で始めたサーフィンだが、ニューラ自身もいつの間にかその魅力に取り憑かれていた。このスポーツで主と喜びを共有することは、ポケモンバトルに勝利することと同じくらい充実感を得られるのだ。
 ニューラが駐車場の茂みを越えて帰路を目指そうとしたとき、ふとソウタ家の自家用車が目に入った。屋根部分には彼の赤いサーフボードが取り付けられている。もう新品の面影はない。ほぼ毎日ソウタと海へ通って使い込み、その経験があちこちに刻まれていた――このまま終わらしていいものか?
 ニューラの足は勝手にそちらへ動いていた。サーフボードを固定しているロープを鉤爪で切り裂き、ボードを抱えて海岸へと走る。道中すれ違う誰もが目を疑い、振り返ったが、少しも気にならなかった。
 まだ日は高く、海はギャラドスの如く暴れながらサーファーたちを弄んでいる。砂浜に到着したニューラはサーフボードを抱え、鋭い双眸で荒れ狂う大波を睨み据えた。生暖かい浜風に長い左耳がふわりと揺れる。彼は意を決すると、そのまま渚へと突撃していった。

+++
 
 入院は一週間程度で済み、ソウタは退院後リハビリを続けながら、自宅や学習塾で受験勉強を進めていた。母親はようやく勉強に本腰を入れてくれた息子に満足しているようだが、情熱を失った彼の表情はまだ虚ろだ。相棒と戯れる時間もなく、ここ最近は一日ニューラの姿を見ないことも少なくなかった。
「ああ……来週は大会だな」
 ふと学習机に置かれたニューラのカレンダーに目をやると、来週土曜日の日付の上に大きな花丸が印されていた。元々エントリー時に日付を丸で囲っていただけなのだが、実力が伴い始めてから嬉しくなってニューラの前で花弁を追加したのだ。そんな些細な記憶を思い返すと、胸がつかえる様に苦しくなった。
「……そういえばオレ、エントリー取り消してなかったなぁ」
 怪我をしてから多忙になり、大会事務局へ不参加の連絡することも忘れていた。モラルには反するが、気持ちの整理がついていない今は連絡先の番号を携帯へ打ち込むことにも恐怖を覚える。
「別に連絡サボったくらいで怒られることはないっしょ……」
 罪悪感を拭うように英単語の書き取りをしていると、手元に置いてあったスマートフォンが振動し、クラスのSNSグループへメッセージが一件入ったことを知らせていた。発信者はアオイである。ソウタはすぐに画面をタップした。
『来週の大会で売り子をするから来てね。飲み物はあたしから買うように』
 という内容が、手間のかかるギャル文字で書かれていた。大会のビアガールといえば顔とスタイルに優れた女の子たちがビキニで接客する、試合に次ぐ目玉企画である。このまま勉強漬けになり、もうアオイの水着姿を拝めないのは悔やまれる。
(……行こうかな)
 
 サーフィン大会当日は混じりけのない快晴の下、同じように美しいムロの海が広がっていた。風向きはオフショアと呼ばれる岸から海へと流れる風が吹いており、やや高め。絶好のサーフィン日和である。浜辺は出店が立ち並び、多くの観客と参加サーファーたちでごった返している。この大会はムロタウンの誇る大イベントであり、砂浜は勿論のこと防波堤の上まで人で埋め尽くされていた。
 最初に実施された個人部門では、下馬評通りトウキが圧倒的な実力を見せつけ見事優勝に輝いた。その磨かれた技術は観客たちを魅了し、イベントを過熱させる。そんな中――ソウタは海の家前のベンチに腰を下ろし、この熱気溢れる様子を無気力な目で眺めていた。ポロシャツにハーフパンツというシンプルな服装にあっさりした顔つきが相まって、完全に景色と一体化している。しかし売り子の少女はそれをクラスメイトとすぐに判別し、太陽にも負けない笑みで彼に近寄ってきた。
「やっほー! 来てくれたんだぁ! 何飲む!?」
 突然視界に入りこんできたアオイに、ソウタは仰天しながらも「コ、コーラ……」と咄嗟に返答した。ちらりと盗み見た水着は、マルチカラーのカラフルで刺激的なビキニである。頭のポニーテールは青いシュシュでまとめられ、ハイビスカスの造花が縫いつけられていた。
「五百円になりまーす! ふふ、歩合制だから飲み物欲しい時はあたしに言ってね!」
 彼女は笑顔でハイビスカスのピアスを揺らしながら、盆に載せていたコーラの紙コップをソウタに差し出した。
「はいはい、お前から買うよ。今日は天気もいいから売れるんじゃない?」
「うん、絶好調! トウキさんのお陰で超盛り上がってるもん」と、アオイは嬉しそうに破顔しながらソウタの周囲を見回した。「ところでニューラは?」
「朝から見てない。今日も暑いからどっかで涼んでるんじゃない?」
 ソウタは素っ気なく呟きながら視線を海へ戻す。既にタンデムサーフィンの部門が始まっており、参加者はポケモンと共に様々な技を見せつけている。彼は勢いよくコーラを吸い上げながら、悔しさを身体の奥底へ流し込んだ。
「えーっ、ちゃんと探してあげなよ! それでも“おや”?」
 アオイは唇を尖らせるが、ソウタは動く気配すら見せない。
「大丈夫だよ、いつも晩飯頃に帰ってくるしさ。最近勉強忙しくてあんまり構えない……」
「ふーん、まあ受験だからねえ。仕方ないかー」
 と、一応アオイを納得させることはできたものの、ソウタはここ最近ニューラから距離を置いていた。相棒を見ると怪我の記憶が蘇り、再びひどく落ち込んでしまうのだ。沖ではトレーナーサーファーとポケモンの技が連動した見事なサーフィンテクニックが披露され、周囲の観客たちが沸き上がる。
「そういえば松葉杖もう要らないんだ?」
 アオイがソウタの包帯を巻いた右足を見ながら尋ねた。
「うん、今何とか歩けてるとこ。もうすぐリハビリ終わる」
「そしたらまたサーフィンできるね!」
 彼女の純粋な励ましは時に残酷だ。二人の間に生ぬるい浜風が吹き抜けていき、ソウタは俯き気味に口を開いた。
「……サーフィンは、当分休もうかなって」
「なんで? 好きだったんじゃないの?……ああ、受験だから?」
 アオイは目を丸くしながら首を傾げた。
 サーフィンを始めたきっかけも、練習に本腰を入れた理由も彼女のため。それなのに今はこんなにも情けない姿を晒している。あまり見つめないでほしい――と願っていると、トウキとニョロボンの番が来てアオイの関心はそちらに向いた。
「わあっ、トウキさんの番だー! ねえねえ、ドリンクちょっと見てて」
 彼女はソウタが了解する前に彼の隣にドリンクの乗った盆を置くと、おつりなどが入っているミニショルダーからスマートフォンを取り出してカメラを向けた。背伸びをしながら必死に動画を撮ろうとする姿は、ソウタの心を容赦なく抉る。
(オレの夏も終わりか……)
 いつまでも不毛な片思いなどしても仕方がない。身を退こうと決意した時、沖から一際高い波が出現した。観客も皆どよめくほどのビッグウェーブ。これにはソウタも唖然とし、恋愛感情など吹き飛ばされた。
「超おっきいの来た!」
 アオイは飛び跳ねながら興奮気味にカメラを掲げる。スマートフォンの画面には、ニョロボンと共に果敢にパドリングするトウキの姿がアップで映し出されていた。ここでボードに立ち、波に乗って上手く技を決めれば優勝間違いなし――誰もがそう期待していたのだが、波の威力は想像以上に高く、トウキとニョロボンを抱え込むように転覆させると、そのまま海中に飲み込んでしまった。
 渚へ押し寄せる大波に、近くにいた観客・スタッフたちが一斉に退避する。その間にようやくトウキが海面に顔を出し、不満そうに浜辺へと戻っていく姿が見えた。
「えーっ、ショック! これタンデム部門は分かんなくなったね」
 アオイは今にも泣きだしそうな表情で頭を抱える。彼女だけでなく、トウキの失敗はソウタにとっても衝撃だった。一番のライバルが揮わなかったということは、優勝するチャンスが十分にあったということだ。眼前の波の高さと比例するように、抑え込んでいたサーフィンへの欲望が噴きこぼれんばかりに熱を帯びる。
(ちくしょう、怪我さえしなければ……!!)
『次はソウタさんとニューラのタンデムになりますが……スタートポイントに来られていないため棄権とみなします』
 冷徹なアナウンスが場内に流れる。
 すぐにでも撤回し、ニューラを探して海に入りたかった。しかしこの状況では何一つ叶わない。
『さてお次は――』
 進行役が次のペアを告げようとした時、それをかき消すような鋭い鳴き声がムロの砂浜に響いた。耳を覆いたくなるような“いやなおと”。その場にいた誰もが一斉に音の方を向くと――ソウタが座っているベンチの真上、防波堤の頂に赤いサーフボードを抱えたニューラが仁王立ちしていた。
「ニューラ?」ざわつく観衆の声を耳にして、ソウタは弾かれるようにベンチから立ち上がる。
「ねえ、ソウタ! ニューラが――」
 アオイが驚愕すると同時に相棒は防波堤を軽やかに飛び降り、ソウタの傍へ着地する。地元サーファーなら誰もがやっている、防波堤から砂浜へ移動する手っ取り早い方法だ。
「お前……」 
 唖然とする主人を、ニューラが鋭く睨みつけた。元々目つきが悪いのだが、そこには憎悪や悪意はひとつもなく、覚悟のみを湛えている。ニューラは身を翻すと、そのまま波打ち際へと駆けだして行った。単騎で挑戦しようとするポケモンを大会スタッフたちが慌てて制止させようとするも、素早いポケモンの動きは人間には捕えられない。あっという間に潜り抜けられ、海へと入られてしまう。パドリングしながらビッグウェーブに向かっていく黒い小さな後姿を、ソウタは愕然と見つめていた。
「あいつ……」
「ソウタ、何やってるの! 傍に行ってあげなきゃ」
 アオイが彼の肩を叩きながら、やや乱暴に前へ押し出した。しかしソウタはまだ戸惑いを隠せない。
「で、でもどうすれば……」
 ポケモン一匹でサーフィンをしたところで、二人乗り部門においては失格になるだけだ。それどころかニューラのトレーナーとして責められるかもしれない――そんなリスクが脳裏をよぎったが、詰め寄ってきたアオイの言葉がすべてを打ち消した。
「決まってるじゃん、応援してあげるんだよ! これはタンデムだよ、一緒にボード乗った気になって後押ししてあげなよ! ニューラは相棒でしょ?」
 そう、ニューラは今までずっと一緒に努力してきた戦友だ。ポケモンと人間の壁など感じさせない、ソウタにとってもはや一番の親友と言っても過言ではない。そう考えた瞬間、ソウタは弾かれるように砂を蹴り、渚へと走り出していた。
「頑張れ!」
 背中を押してくれるようなアオイの言葉が追い風へと変わる。軋むような右足の違和感もまるで気にならなかった。
 大きくうねり、巻き上げていく紺碧の波――それを目の前にして、ニューラは軽やかにサーフボードに立ち上がった。テイクオフ成功。
「ちょっと、君! 勝手に海へ入らないでくれないか!?」
「オレはニューラの“相方”です!」
 ソウタは注意するスタッフを振り払い、無我夢中で波打ち際へと駆け込んでいく。ニューラが波の中腹を滑り出す動作は、最後にタンデムサーフィンをした時より格段に上達していた。そこで彼はようやく自分が受験勉強をしている間、相棒が毎日密かに練習に励んでいたことを悟る。
 このままニューラ単体で滑っても失格になるだろうが、そこまで細かいことはポケモンなので理解していないかもしれない。しかしソウタはこれだけは確信した。
 ニューラは諦めてはいない。
 彼は込み上げてくる熱い感情を開放するように、沖へ向かって絶叫した。
「ニューラ!」
 相棒の赤い左耳がぴくりと反応する。
「お前ならやれる! オレの分まで頑張ってくれ!」
 するとニューラは一瞬ソウタへ振り向き、自信たっぷりに微笑んだ。
 彼は壁を成す大波にも少しも怖気付くことなく、果敢に波の上を滑り抜けて行く。荒っぽく横揺れするサーフボードを上手くコントロールしていると、途端にニューラの視界が狭まった。頭上に形成された、抜けるように蒼い海の天井――大きく口を開くように巻き上がった波が、十数メートルに渡る壮大なトンネルを作り上げている。数週間前に経験し、失敗したチューブライディングへの環境が整ったのだ。ここまでくれば、あとはこの道を通り抜けるのみ。ニューラは出口を睨み付けながら、波の壁にぶつからないよう加速をかけた。
「行けえっ! ずっと努力してきたお前なら、できる!」
 共に波に挑むことはできないが、せめてこの声援がボードに寄り添い、力になってくれればいい――ソウタは手に汗握りながら、必死に声を張り上げた。
 いつの間にか周囲はその見事なテクニックに釘付けで、ブーイングをする者など誰もいない。トウキにアオイ、大会スタッフの視線もニューラ一点に注がれていた。波はのしかかる様に襲い掛かってくるが、黒い稲妻の如く疾走するニューラを捕えることはできない。
 長く感じられた試合だが、ものの数秒で決着がついた。ニューラが光溢れる空と風を感じると同時に、トンネルを突破する。彼はすかさず身体を捻ると、後から押し寄せてきたまだ傾斜の緩い波めがけて飛び移った。そのまま反り立つ波をボードで駆け上り、助走をつけて宙へ舞いながら華麗にターン。プロ顔負けのトリックに大歓声が起こったが――ソウタはまだ手放しでは喜べなかった。
 相棒のすぐ背後に、次の高波が迫っていたからだ。
 小柄なニューラを容易く握りつぶしてしまいそうな大波は、さながらそびえ立つ巨大な壁のようである。ニューラは空中でそれを確認し、一瞬目を疑ったが――芽吹いた不安をソウタの絶叫が吹き飛ばした。
「ニューラ! そんな壁なんてぶち破れーっ!」
 互いの想いがリンクする。ニューラは右腕を大きく振りかぶった。
「ブレイククロー!!」
 その指示と共に繰り出された鋭利な疾風が、ニューラの前に立ちはだかっていた巨大な波をあっという間に切り崩した。太陽光に反射して、しぶきが真珠の様に輝きながら空へと散らばる。神秘的な風景に、ソウタは息を飲んだ。
 崩れ落ちる波を潜り抜け、長い耳をなびかせながら相棒が波打際へ戻って来る。颯爽とソウタの前でボードを停め、両手を広げて成功をアピールした。
「ニューラ……!」
 感極まったソウタが相棒に飛びついた瞬間――浜辺に拍手喝采が巻き起こった。間違いなく今日一番の大歓声である。慣れない場面にソウタが硬直していると、大会スタッフが彼らの元へ駆け寄ってきた。
「き、君! すごかったけど、ポケモン単体で滑ったからこれは失格だよ」
 今は二人乗りのタンデム・サーフィン部門なので、一匹で海へ挑んだニューラはルールに違反しているのだ。声援をボードに乗せて脳内でタンデムを成立させていたソウタは我に返り、全身から血の気が引いていく。何も言えずに口ごもっていると、爽やかな声が割って入ってきた。
「まあいいじゃないですか。チューブやエアー決めて無効って、野暮じゃないですか?」
 咄嗟にスタッフが振り返ると、そこには地元ジムリーダーにして優勝候補トウキの姿があった。軽率そうな風貌だが、格闘ポケモン使いらしく、その身体はよく鍛え上げられているのが一目瞭然である。そしてアオイが惚れるのも納得する程の好青年。ソウタは驚きと同時に絶望感を味わった。
 スタッフは不服そうにしていたものの、他の参加者サーファー達もトウキの意見に納得しているので、先ほどのパフォーマンスは受け入れられる方向になりそうだ。ソウタはホッと胸を撫で下ろしつつ、トウキに勢いよく頭を下げる。
「フォローあざっす!」
「構わないよ! 正直、さっきのトリックはこの大会でも飛びぬけてるクオリティだと思うからさー。このままニューラが失格になって、オレが繰り上がり優勝でもしたら情けねーや」
 あっけらかんと笑い飛ばすジムリーダーは、ソウタが思っている以上にフランクでさっぱりした性格のようだ。一方的に嫉妬していた自分が恥ずかしくなる。
「ところで君さ、名前なんていうの?」
 突然名前を聞かれ、彼は目を丸くしつつ何とか言葉を紡ぎだした。
「え、あ、ソ、ソウタ……ッス」
 あまりの挙動不審な様子に、しっかりしろとニューラに小突かれる。しかしトウキは気に留めることなく、白い歯を見せた。
「ソウタくん、ね。よっしゃ、覚えたからな! 君のニューラ、最高にクールだね。サーフィンのセンス抜群じゃん、これからも期待してるよ。オレも次は失敗しないから」
 まさか彼がライバル視してくれるとは。消えかかっていたサーフィンへの小さな炎に勢いよく油が注がれ、一気に燃え上がった。
「も、勿論ッス! オレも負けませんから!」彼は迷いのない口調で言明する。「ぜ、絶対あなたに追いつきます!」
 トウキと握手を交わし別れたところで、人ごみから一際甲高い声が聞こえてきた。
「ニューラー!!」
 すかさず振り返ろうとした時――アオイがソウタの脇をすり抜け、隣にいた相棒に勢いよく抱きついた。小柄なニューラの頭を挟み込む、豊かで柔らかな感触。ソウタとニューラの目が点になる。
「さっきの超かっこよかったよー! 惚れちゃうじゃーん!」
 彼女は興奮気味にニューラの頬に口付けた。黒い体毛にピンク色のリップグロスが付着し、渚のように煌めいている。鼻の下を伸ばして照れる相棒を、ソウタは歯ぎしりしながら睨み付けた。
(こいつ……!)
 怪我をしなければ、きっと自分がキスをして貰えたかもしれないのに……。
 主人の嫉妬溢れる視線を感じたニューラは、天使の拘束から抜けることを考えたが――「ねえねえ、写メ撮ろーよ! 待ち受けにするー!」と笑顔を見せるアオイを突っぱねることなどできず、しばらくこの柔らかく心地よい空間に居座ることにした。

+++

 それから半月後、九月中旬。
 まだまだ残暑は厳しく、強い日差しがムロの浜辺を照り付けていた。今日の波はやや高めで、水面は美しく澄み渡っている。こんな日は風を感じながらサーフィンを楽しむのが最適だろう。照り返しの強いコンクリートの防波堤に、赤いサーフボードを抱えた少年とニューラが現れた。
「久しぶりだなー。今日はなかなかいい波じゃん。復帰には最適かも」
 少年ソウタは水平線を仰ぎながら、引き締まった上半身で穏やかな浜風を受ける。隣で黒いサーフボードを抱えているニューラの耳もふわりと揺れた。今日はソウタの怪我が完治してから初めてサーフィンを行うのだ。彼は傍で波を眺めているニューラに悪態をついた。
「こないだも言ったけど、もうお前とはタンデムしねぇからな!相棒解消!これからはライバルとして接する!!」
 片思いしているアオイの関心は何故かトウキからニューラに向いてしまい、彼女はすっかり夢中になっている。変わり身の早さに驚きつつ、よりにもよって自分のポケモンに彼女の心を奪われるなど、ソウタは悔しくて仕方がなかった。これはサーフィンで巻き返すしかない。
「しかもポケモンのくせに専用ボードなんか作って貰っちゃってさ〜。生意気だぞ!」
 サーフィン大会で見事優勝したニューラは、賞品として職人に特製のサーフボードを作ってもらったのだ。黒いボディに黄色い稲妻がペイントされているデザインで、“Black thunder”という筆記体のロゴが入っている。ニューラは得意げにボードを主人へ掲げて見せた。 
「何だよ、“Black thunder”って。ぷっ、駄菓子かよ!」
 と、鼻で笑う彼へ、ニューラは余裕たっぷりに右腕の毛に印字されている文字を見せた。ピンク色で『AOI』と染め抜かれたその横には、ハートマークまで添えられている。あまりの溺愛っぷりにソウタは憤慨した。
「お前……いつの間に! ふざけんなよ、マジふざけんな! 調子乗ってられるのも今のうちだ。次の大会じゃあな、絶対負けねえ! すぐに追い抜いてやるよ」
 激怒しているものの、すっかりサーフィン熱が戻った主人を見て、ニューラは心底嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。二人乗りができなくなったとはいえ、また共にサーフィンを楽しむことが出来そうだ。それはソウタも同じである。内心はこの海へ戻ってこられたことが何より幸せで、気分は有頂天だ。
「よーし、ニューラ行くぞっ!」
 ソウタはサーフボードを抱え直すと、ニューラと足並みを揃えながら防波堤を蹴り上げ、砂浜へと飛び出していった。

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