出待ち

 その1.ワタルとキョウ

 終業から一時間後。
 通用口へと続く通路で、ワタルはキョウと鉢合わせた。
「お疲れさまです」
 チャンピオンで、立場的には自分が優位。
 それでもキョウの方が年上で、キャリアもずっと長い。先に頭を下げるのは、当然こちらである。彼は会釈で返しながら、苦笑いを浮かべた。
「君と出るのは気が引けるな」
 数十メートル先にある出入り口の扉を開くと、そこから目と鼻の先にある駐車場までの道には沢山のファンが待ち構えている。自惚れではないが、チャンピオンという立場上、出待ちの数はセキエイリーグ所属のトレーナーで一番多い。彼はそれを気にしているのだろう。冗談っぽい表情だから、どこまで本気なのかは分からないのだが。
「キョウさんだって、ファンが多いじゃないですか」
 中高年の男性なら年が近い彼の方が支持されているのに、それでもキョウは自嘲する。
「二人並んで現れたら、君の方へ行くに決まってる」
「いやいや、そんなはずは……」
 ワタルは笑顔をひきつらせながら、目の前にある通用口の鉄扉に力強く手をかけた。同じくらいの割合で、ファンに囲まれますように。願いを込めながら出入り口を開けた途端、外で待っていた大勢のファンが口を揃える。
「あっ、ワタルさんが来た!」
 全ての視線がこちらに集中する。リーグに所属してから、これほど居心地の悪い瞬間はない。挙句、ワタルのファンは彼を無視して先を行くキョウを見て首を傾げる。
「ジムリーダーだった人だよね。どこの町だっけ」
「セキチク!」
 ワタルはそう叫ぶと、ファンサービスを放り出してキョウの後を追った。
 押し寄せる人混みをかき分け、子供のファンに会釈して関係者だけが立ち入れる駐車場へ。すると目の前に立派なセダンが現れ、後部座席から可愛らしい少女が飛び出してくる。彼の娘のアンズだ。
「父上、お疲れさまでーす!」
 次いで運転席から昔の弟子が降車し、キョウの荷物を預かってトランクに片付ける。アンズはワタルに挨拶すると、父親に乗車を促しながら「お腹すいたなー、今夜はお肉がいいな」と微笑んだ。弟子がつられて「賛成です」と甘えて、キョウが「そうしようか」と頬を緩ませる。彼は後部座席に乗り込む前に、ワタルを振り向いて首を傾けた。
「ファンサービスはしないのか」
 じわじわと湧き上がる悔しさを引っ張り上げる余裕の表情。こちらは気を遣って後を追って来たのに、彼の方は自分をピッピ人形扱いしたのかと邪推してしまう。
「忘れてました」
 ワタルは強張った笑顔を張りつけたまま会釈し、元来た道へ引き返すことにした。同じ出待ちなら、あちらの方がずっと羨ましい。今夜は地元にいるイブキや馴染みの友人を誘って、焼肉に行こうと決めた。
 

+++

 その2.シバとアカネと男の子

 少年のはじめての冒険は、エンジュからポケモンリーグへの遠征だった。
 まだポケモンを持てない年齢で、バッジ獲得なんて夢のまた夢。でも一週間も前から計画を立て、父親に切符を買ってもらい、電車やバスを乗り継いで一人でこの場所にやってきた。セキエイリーグの通用口外。
 残念ながら当日配布の観戦チケットの抽選は漏れてしまったけれど、すぐに通用口に回り込んでトレーナーが出てくるのをじっと待っていた。ここまで来たなら、会わずに帰る訳にはいかない。 
 四天王のシバさん。
 四歳の頃にテレビでバトル中継を観た時、豪快なプレースタイルと寡黙でストイックな姿が少年に鮮烈な印象を焼きつけた。それから三年、シバはずっと少年のヒーローだ。ポケモンが持てるようになったらシバのように格闘ポケモンを極め、いずれはシバと同じ四天王になりたいと願っている。今日はそれに繋がる第一歩だ。絶対に、憧れのヒーローに会いたい!
「君もシバファン?」
 そわそわと浮足立つ少年に後からやってきた若い女性が尋ねた。
 シバの名前がプリントされたタオルを首に巻き、格闘ポケモンのTシャツやトートバッグを身に付けた一目で同志だと分かる装いで、最近テレビでよく見かける顔だ。リーグの動向をテレビで逐一チェックしている少年は、その女性がコガネシティのジムリーダー、アカネだとすぐに気付く。
 少年はその気迫に縮み上がったが、アカネは肩書きなど気にせずにさっぱりと笑顔を見せた。
「うちもあのお方がデビューした頃からの大ファン。豪快なバトルに、『男は背中で語る』を体現した姿がたまらんよね!」
 そう、僕もそこが大好き。はにかみながらも何度も頷くうちに、アカネに対する畏怖が薄れていく。この人なら、出待ちのルールを教えてくれるかもしれない。真っ赤な顔で声を震わせ、アカネに尋ねる。
「こ、ここで待ってたら握手とかサイン、してもらえますか。僕、ここへ来るのは初めてで……」
「うーん、サインは本人の気分次第やろうけど……このまま一番前をキープしとったら、握手くらいはしてくれると思うよ。一応、ボールとか色紙は用意しとき。ただし、もらえなくても我慢すること。向こうは自分の時間を割いてまで対応するんやから」
「はいっ!」
 少年は背筋をぴんと伸ばし、威勢のいい返事を叫んだ。

 シバと握手できるだけでも夢のようだ。そのためなら何時間だって待っていられる。アカネとシバの話で盛り上がっているうちに日は傾き、通用口前は徐々に人が増えてやがて大きな人垣に膨れ上がる。
 少年は握手してもらえるのか不安になってきたが、それでも自分は通用口すぐそばの一番前をキープしている。サイン用の油性マジックとモンスターボールをズボンのポケットに突っこんで準備は万端。不安と期待が交互に鼓動を鳴らし、そのリズムが早まってきたところで扉が開いた。
 リーグのトレーナーでは一番早い、決まった時間にそこを出る情報は確かだった。目の前に飛び込んできたのは岩みたいにがっしりした身体つきの、憧れのヒーロー。
「シバさ……」
 声を上げる前に後ろから押し寄せる群衆の波が少年を飲み込み、後ろへ強く引っ張られた。視界は塞がり、身体中に痛みが走る。靴を踏まれ、リュックを潰され、洗濯機の中でぐちゃぐちゃにされている気分だ。真っ暗闇になった世界の奥で、アカネの罵声が力強く響き渡る。
「こらあ! ルールを守れ! 子供が押し潰されとるやろ!」
 その直後にぱっと視界が広がって、少年は列の一番前に戻っていた。それも人垣の目線より少し上。宙ぶらりんになったまま、ぽかんとする少年をシバが覗き込む。
「怪我はないか」
 心配しているのか、呆れているのか計りかねるクールな表情に息が止まりそうになった。自分を人混みから持ち上げてくれたのはシバの切り札、カイリキーだ。双碗作業機に支えられているような安定感なのに、脇を掴む感触はとても優しい。足を踏まれた痛みなんて、忘れてしまった。
 少年は緩む目元をぐっとこらえながら、何度も頷いて無事をアピールする。ありがとう、と言いたいのに緊張で喉が干からびて声が出ない。お礼、それから握手、もし余裕があれば――そこでようやく音が戻る。
「あの、サイン……」
 ポケットに突っ込んだ油性マジックを取り出し、次は空のボールを――そこで少年はポケットのふくらみが無くなっていることに気付いた。先ほどの混乱で、ボールだけ落としてしまったらしい。せき止めていた感情が溢れだし、視界が濡れる。
 するとシバは少年が握っていたペンをつまみ上げ、カイリキーが入っていたばかりのボールにサインを書いて、小さな手に握らせた。
「ほら。やる」
 掌に戻ってきたペンとボールは独特の力強いオーラに包まれ、いつまでも温かい。
 シバは口元を緩め、少年の肩をぽんと叩いた。それで、つっかえていたお礼がようやく口から飛び出る。
「ありがとう、ございます」
 カイリキーから下ろされ、見上げたシバは高峰のように大きく、遥か遠くの人に見えた。
「あの、僕、ずっと応援……」
 遮るようにアカネがシバの前に飛び出し、右手とペンを握った左手を同時に突き出しながら頭を下げる。
「あのーっ、うち二番目に並んでました! 握手お願いします! よかったらサインもください!」
 シバはさらりと握手に応じ、アカネが差し出したトートバッグにサインを書き込むと、「今日はここまで」と語気を強めて関係者駐車場へと向かっていた。カイリキーを引き連れ、まっすぐ前を歩く姿は誰も止められない。
 風のように過ぎ去った束の間のファンサービスだったが、サインボールは少年の手元にしっかりと残されたままだ。大きな背中をぼんやりと見送り、余韻に浸っている少年に、アカネがずかずかと割り込んでくる。
「触らして! 写真も撮らして!」
 少年は慌ててボールを差し出しながら、忘れないように礼を添えた。
「お姉ちゃんも、助けてくれてありがとう」
「うちが言う前に動いてたんやで、シバさん。めっちゃ格好良かったな! これだからあの人のファンは辞められへんわ。じゃ、写真撮ろ!」
 アカネは少年の肩を抱き、携帯のインカメラを起動する。サインボールを中央に二人のシバファンがフレームに収まった。この時だけは互いの立場は対等だ。ボールを構えた少年が頬を染めながら微笑んだ時、シャッターが下りる音が鳴る。
 

+++

 その3.イツキとカリン

 雨が降っていると、通用口へと続く通路は湿っぽくて息が詰まりそうになる。
 イツキは白い持ち手をした緑色の傘を軽快に一回転させた。特注の傘は中棒が赤、カバーが緑、先端の石突が黄色になっていてネイティオのモチーフである。雨の日に人前に出る時は、開かないと全体が分からないこの傘を使っていた。
「やっと上がれるのに、出待ちの対応がねえ」
 彼は隣を歩くカリンにちらりと視線をやりながら、不満をこぼした。
「有名税よね」
 前を向いたまま、カリンが微笑む。乗馬ブーツに似たブラウンのレインシューズと同じ色のシンプルな傘がベージュのスプリングコートによく馴染んでいた。こんな日にこそカラフルな雨具を身に付けようとする、イツキとは真逆の装いだ。
「帰りが遅くなっちゃいますね」
 顎を撫でるイツキに、カリンが頬を緩ませた。
「じゃあ、颯爽と通り過ぎてしまえばいいんじゃない? とてもクールよ」
「それはちょっとなあ……」
 シバやキョウは疲れていたり、負けた日の帰りはファンサービスを断って駐車場へ走る時がある。その気持ちはイツキも理解できるが、幼いころに憧れのトレーナーからサインをもらい損ねて落ち込んだ経験から、自分はなるべく時間いっぱい対応していた。そのため、帰りが一時間以上長引くことも少なくない。
 イツキが丁寧に対応する一方で、カリンには本人なりのポリシーがあるようだ。
「あたくしは入り待ちの対応だけはしないわ。四天王になったばかりの頃にそれをして負けが続いたの。縁起がよくないし、リーグでの準備も遅れるから、それだけはお断りしているわ」
 時に運が勝敗を左右するポケモンバトルを生業にしていると、トレーナーは神経質なほど縁起を気にする。イツキはその徹底ぶりに感心した。
「へえ、そんなジンクスがあるんですね。初めて聞きました」
 知らなかったのは入りの時間がカリンと被らないからだ。こうして二人で帰っているのも珍しい。
「そういえば、カリンさんと帰りの時間が重なったのも久しぶりですね」
「そうね。二人きりは初めてじゃない」
 艶やかな巻き髪を揺らし、こちらに笑顔を傾ける姿はとても美しい。イツキは慌てて視線を逸らしつつも、少し期待をこめて問いかけた。
「勘違いされたらどうします?」
「別にー」
 カリンはさらりとかわし、通用口の鉄扉を前に押し出す。
 雨の香りが鼻先を抜け、むっとする湿気が出入り口で混じり合う。二人を出迎えたのは、ファンの歓声ではなくアスファルトを絶え間なく打つ長雨の音だけだった。駐車場までの十数メートルの通路に人が居なかったのは、イツキがリーグに所属してから初めてだ。
「まあ、こんなに強い雨の中をわざわざ待ってるファンなんてそういないか。早く帰られるから、良かったわね」
 カリンはブラウンの傘を差し、雨空の下へ出た。
 からかってみた同僚の反応がないので後ろを振り向くと、イツキはやや不満気に人のいない周囲を見回している。そんな姿にカリンは思わず噴き出した。

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