盾にして回復

 今朝から少し熱っぽかったが、検温したところ三十七度ちょうどだったのでそのまま出てきた。思えばその判断は間違っていたのかもしれない。四天王が挑戦者と戦う模様を中継するモニターが徐々にぼやけて見えている。試合の内容がまるで頭に入らない。
 体調を確認しておこうと繰り出したカイリューが不安げにこちらの顔を覗き込む。
「おれは大丈夫だよ、カイリュー」
 琥珀色の大きな瞳に覇気のない自分の顔が浮かんでいた。そのまま意識と共にどこかへ飛んでいきそうだ。カイリューがこちらに両手を差し出し、淡い光を生み出して辺りを取り囲んだ。「しんぴのまもり」である。主であるワタルがこれ以上体調を悪くしないように、とのカイリューなりの措置らしい。
 勿論、人間には効かない技だが――
「ありがとう」
 ワタルは苦笑しながら相棒の頭を撫でた。
 掌が汗ばみ、身体はふわふわとした不思議な感覚に陥る。行儀が悪いと言われようが、このまま床の上で横になりたい。力なくその場に腰を下ろすと、ヒールの足音が響いてカリンの声がした。
「どうしたの?」
「いや、少し……」
 調子が悪いだけ、と声に出すのも億劫だ。
「顔色が良くないわよ。身体もだるそうだし……熱があるんじゃないかしら?」
 カリンは即座に壁の収納からマスクを取り出すと、素早く装着して怪訝そうにこちらを覗き込む。
「少し横になれば、すぐに治るさ」
「とにかく控え室に戻って」
 言い訳を遮り、カリンはヒールの爪先をカイリューに見せながら息を吐く。
「カイリュー、運んでくれない? あたくしには無理だわ」
 
 三十九度五分。
 体温計の表示を見て、カリンは溜め息をついた。
「朝から体調が悪くなかったの?」
「やや熱っぽいとは……」
 ワタルはそこで苦しくなって言葉を飲み込む。控え室のソファに横たわる彼を見下ろしながら、イツキがちくりと嫌味を言った。
「唯一無二のチャンピオンなんだから無理しないでくださいよ。そしたら挑戦者を受け付ける前にリーグを休止できたのに」
 ポケモンリーグは受付すると殿堂入りか敗北するまで引き返せないシステムなので、トレーナーを受け入れた以上は四天王やチャンピオンも持ち場を離れることができない。
「あまり病人を責めるな。軽い風邪程度ならおれも出勤する」
 シバのフォローに対し、すかさずキョウが反発した。
「お前達とは違ってこちらは出番が多い。万全を期すに越したことはない」
「さすが。キョウさんは分かってる」
 イツキが大袈裟に何度も頷いた。
 彼らは四天王の一、二番手という立場上、出番が多い。病人を気にかけながら戦うのは負担になるのだろう。ひりつく控え室の空気を見て、カリンが仲裁に入る。
「喧嘩しないでよ。倒れたものは仕方ないわ。あたくし達でフォローするしかないわね」
「はいはい、ボクが挑戦者を後ろへ行かせないように食い止めますよ」
 イツキは不満げに椅子から立ち上がり、控え室を出ていく。その後ろ姿を目の端に捉えながら、ワタルは力なく謝罪した。
「すまない……」
「たまにはこんなことだってあるわよ。それより、薬を飲んだ方がいいわ。ここには市販の風邪薬しかないんだけど……」
 カリンはキャビネットの上にあった薬箱に腕を伸ばし、中を覗き込んだ。リーグの薬箱はポケモンバトル中の怪我に対応する外傷に効果的な医薬品ばかりだ。内服薬は風邪薬のみで即効性はない。そこで彼女はキョウに尋ねた。
「キョウさん、もっと効く薬持ってる?」
 彼は自ら調薬し、それをポケモンに使っている。薬の効き目もなかなかで、他のリーグトレーナーも分けて貰っているほどだ。しかし、キョウは顔をしかめながら呆れたように息を吐く。
「ポケモンにしか効果がない。スピアーの針を使った蜂針療法も出来ない事はないが、施術には激痛を伴う」
「それ、お願いします」
 ワタルは縋るようにキョウの腕を掴むと、引きずり込むように身を起こした。
「これ以上、皆に迷惑をかける訳にはいかない。終業まで戦えるなら、痛みにも耐えます」
 脂汗を流し、奥歯を噛み締めながら懇願する姿を前にすると無碍にはできない。
「そこまで言うのなら……」彼はモンスターボールからスピアーを呼び出し、静かに告げる。「どくばり」
 ワタルが息を呑む間もなく、スピアーの右腕の針が飛んできた。
 視界がぱっと弾けて肩口に痺れるような激痛が走る。覚悟を決める前に刺したのは時短のためか、それとも優しさだろうか。熱も吹き飛びそうな痛みがワタルの身体をしばらく支配していたが、それが徐々に引くと、まただるさが戻ってくる。その様子を見てキョウは顔をしかめた。
「効いてないんだが」
「あっ」
 ワタルは言葉を飲み込む。しんぴのまもりだ――激痛で揺れる意識の中にカイリューの顔が浮かぶ。神秘のベールがスピアーの毒を弾いてしまったのだろう。しかし、この状況ではそれを素直に口に出せない。
「刺されてみたかっただけ? 見かけによらずマゾなのね」
 カリンに揶揄されても「いや……」と言葉を濁す事しか出来なかった。焦りと熱で視界が再びぼんやりし始めた時、控え室の出入り口が威勢よく開いてさっぱりした表情のイツキが飛び込んでくる。
「粘りに粘ったけど負けました! 今回の挑戦者はちょっと手ごわいですよ」
 反射的にキョウがそちらに足を向けた。
「出番だ」そして呆れたようにこちらを睨む。「市販薬でも飲んで寝てろ」
「あの!」
 掴みかけた希望を逃がすまいと、ワタルは彼のスカーフを引っ掴んだ。キョウの肩がガクンと揺れる。ひどく咳込んだ後に体勢を戻してワタルを睨んだが、彼は怯まない。
「戻って来たらも、もう一度お願いします。次は効くので」
 キョウは何も言わず、むっとしたまま部屋を出て行った。
 発熱を治すため、なりふり構わぬワタルの姿にシバは呆れる。
「熱で我を忘れていないか?」
 そこへイツキが茶々を入れた。
「キーの実出しときます?」
「こら」
 調子づく彼をシバが睨む。

 ワタルがスピアーによる応急処置を望む以上、他の薬は服用しない方がいいだろう。カリンは棚からタオルを取り出し、看病の支度をしながら冷蔵庫の中を覗き込む。
「仕方ないわね、今のうちにできることをやっておきましょ。まず脱水しないようにスポーツドリンクを飲んで……」
「風邪にはボンドリンクが効果的だ。スタミナドリンクで体力が回復する」
 シバが冷蔵庫の前に割り込み、持ち込みのボトルを得意げに取り出した。それは本来、ぼんぐりの果汁をブレンドして作るポケモン向けの飲み物だ。ぼんぐりはきのみと違って野性溢れる風味がある。カリンは表情を強張らせた。
「ウソ、あれ飲んでるの?」
「トレーナーとして、ポケモンが口にするものは味わっておかないとな」
 胸を張るシバに、イツキが横やりを入れた。
「それならタマゴ酒の方がいいですよ。温めた日本酒に砂糖とラッキーの栄養満点タマゴを加えて飲めば一瞬で治るらしいです。お酒なら仕事終わりに飲んでいるのを使えばいいし、タマゴはリーグ内にあるポケモンセンターのスタッフに頼めば貰えるんじゃないかな」
 イツキは両手にマグカップとコーヒーシュガーを掲げ、ひそかな対抗心を滲ませている。とはいえ、どちらも民間療法だ。張り合う二人にカリンは呆れた。
「そんなので治るわけ……」
 彼女の言葉を遮って、ワタルが何とか身を起こしてシバの手からボンドリンクをもぎ取った。
「分かった、両方飲む。用意してくれ」
 鬼気迫る表情に弾かれ、イツキが控え室を飛び出していく。
「アナタって詐欺に遭うタイプよ」
 と、カリンに窘められようとも、今この場で熱が下がるなら何でもする。ワタルはボトルの蓋を開け、青臭いドリンクを勢いよく煽った。舌に触れた瞬間に身体が拒否反応を示し、「おえ……」と戻しそうになったが懸命に口を閉じてぼんぐり果汁を胃に注ぎ込む。発熱のだるさに加えてひどい頭痛がした。
 もしや症状は悪化しているのではないだろうか――嫌な予感に目を背け、ハーフケットを被ってソファに横たわる。サイドテーブルに置いた携帯が振動し、頭に響くのがまた辛い。誰の連絡かと手を伸ばしかけた時、出入り口が開いて大きなタマゴを抱えたイツキが戻ってきた。
「タマゴが手に入ったので今から作りますね。センターの女の子によると、純米酒がいいらしいですよ」
 彼はIHコンロに片手鍋を置くと、冷蔵庫を覗き込みながら目的の酒を物色する。目に付いたのは高価で入手困難と噂の純米大吟醸「白銀の山」だが、瓶にはカリンの名前が書かれている。イツキは持ち主にそっと視線を向けた。
「えっ、それ使うの」
 顔を曇らせるカリンに、イツキが念押しする。
「緊急事態ですし」
「そうだけど……」
 わざわざそれを使わなくとも、と出かけた不満を飲み込んでカリンは余裕を装いながら頷いた。
「仕方ないわね」 
 イツキは躊躇うことなく酒の栓を抜き、鍋に移して火にかける。
 つい先ほどまで自己管理ができないワタルに批判的だったのに、今はやけに献身的だ。カリンはむっとしつつも、そんな姿にだけは感心する。
「何だかんだで優しいところ、あるじゃない」
「やっぱりリーグを開けた以上は出来る限りを対応をしないと」
 やがてふんわりと柔らかな香りが漂ってきたところで、コーヒーシュガーと溶いたラッキーのタマゴ液を混ぜ入れた。そのまま軽く火に通し、マグカップに移してワタルに差し出す。ボンドリンクと比べて『人間の飲み物』をしていたので、彼はすぐに口を付けてそろそろと喉へと導いていく。生温かく甘ったるいタマゴ酒はお世辞にも美味くはなく、再び胃を震わせたが、やはりボンドリンクより遥かにましだ。カップの底に溶けきっていないコーヒーシュガーが残っていたが、これも仕方ない。
「あとは身体を温めて寝るだけね。ヘルガー、ハグしてあげて」
 カリンがボールからヘルガーを出してワタルに差し向ける。
 いい加減、世話になるのも気が引けるので彼は反射的に自分のボールに手を掛けた。
「いや……こっちにはリザードンが居るから……」
 ぼんやりしたまま手探りで開閉スイッチに触れる。
「ダメよ、尻尾に炎がむき出しのリザードンを出したら――」
 すかさず止めに入ったカリンの声と同時にリザードンが現れ、天井がけたたましく悲鳴を上げてスプリンクラーの水が降り注いだ。
「火災報知器が鳴ってスプリンクラーが作動するわ」
 突然の冷たい雨が嘲笑するようにワタルの身体を打ち付ける。彼ははあ、と溜め息をついてソファに倒れ込んだ。そんな力ない姿を見て、四天王は顔を見合わせる。
「やっぱり熱で冷静さを失ってますよねえ……普段は理性的な人なのに。もっとボクらを頼ってくれていいんですよ」
 イツキが乾いたタオルをワタルに差し出す。その言葉にシバも頷いた。
「そうだ。別に怒ってる訳じゃない。一人で何とかしようとするな」
 最初は批判に晒されたものの、皆は案外寛容だ。その優しさにワタルが胸を撫で下ろした時、出入り口のドアが開いて試合を終えたキョウが現れる。彼は天井から滴る水とその下にいるワタルを交互に見た後、心底うんざりしたような表情で舌打ちする。
「散々迷惑かけておいて……水遊びしている暇があったら寝てろ」
 随分と和んでいた控え室にひりひりした緊張が戻る。その態度で、皆はキョウが負けたことを察した。彼はやや苛立ちながらシバを見やり、顎を上向けた。
「出番だ」
 シバは頷き、何も言わずに控え室を出ていく。
 その背中を見送った後で、イツキがキョウの前にコーヒーを出しながらにやにやと労いを掛けた。
「強いですよねえ、今回の挑戦者」
 含みのある笑顔を睨んだ後、キョウはスピアーのボールを掲げながらタオルに包まるワタルを見下ろした。
「さて、しんぴのまもりは途切れたようだな」
 その言葉にワタルはぐったりした表情を引きつらせる。どうやらしんぴのベールを発生させていたことはお見通しだったらしい。よろしくお願いします、と観念しながらぼそぼそ呟いてタオルを取った。目の前に現れたスピアーが両腕と尻から生えた三つの針を同時に構える。最初の施術より積極的な姿にカリンは目を見張った。
「三つも刺して大丈夫なの?」
「こちらの方が即効性が高い」
 しかし痛みも相当なものだろう。
 ワタルはぐっと奥歯を噛み締め、覚悟を決めて身を起こした。
「それで熱が下がるのなら、何本でも構いません」
 こちらをぎろりと見据えるスピアーを睨み返すように対峙した。大丈夫、終わるのはほんの一瞬だ――そう信じて拳を握り、「お願いします」と告げた直後に身体を大きく揺さぶる激痛が駆け巡る。ワタルは意識が飛んでくれない事をひどく恨みながら、痛烈な呻き声を漏らした。そんな姿にカリンも追わず青ざめる。
「ここまでして出番に備える必要はあるのかしらね」
「ありますよ」
 隣で見ていたイツキはさらりと答える。
 するとカリンが怪訝そうに睨んだので、イツキは慌てたように一言継ぎ足した。
「万が一ってやつ」

 施術を終えて十五分ほど経過した頃、シバが戻ってきた。
 彼は言葉少なにカリンを一瞥し、察した彼女は入れ替わるように持ち場へと出ていく。シバも破れたとなれば、いよいよチャンピオンの出番は近い。控え室にはワタルが倒れた直後のような余裕は少なくなっていた。じりじりと焦げ付く空気の中で、機を見たキョウがイツキをちくりと睨んだ。
「ところで、イツキ。最初に負けた時に一言足りなかったな」
 すると彼は視線を逸らしながらぶつぶつと弁解する。
「だって『大将』が居る手前、そんなことは口に出せないし……」
「一言?」
 ソファの上で横になっていたワタルが口を挟むと、それを待ち構えていたようにイツキが答える。
「ボクら先発は貴方がたとは違って多くの挑戦者を相手しているから、チャンピオンまで到達できるトレーナーが試合前から何となく分かるんですよ。勿論、負けてやってる訳じゃなくてね。元四天王なら分かるでしょう?」
 悔しさに折り合いを付けたような眼差しに懐かしさを覚えた。昔の自分やシバもああいう目をしていた気がする。
「きっと、あの人はカリンさんにも勝つんじゃないかな。だからセンターの女の子にワタルさんのアドレスを教えてラッキーのタマゴを貰い、タマゴ酒を作るとかボクなりに手は尽くしたつもりです。キョウさんが治療に前向きになったのも、挑戦者の実力を目の当たりにしたからでしょう。四天王の大将を突破したのに、チャンピオンが風邪でダウンしているなんてリーグ面目丸つぶれじゃないですか」
「そうだな。ありがとう」
 そして振動を続ける携帯に目をやった。
「……だからさっきから携帯が鳴りっぱなしなのか」
 しばらくしてまた出入り口の扉が開き、カリンがきまり悪そうに少しだけ顔を出した。
「熱、下がった?」
 検温のため、脇に挟んでいた体温計が鳴る。
「三十六度九分」
 結局、どの治療が作用したのかは分からない。しかし、身体は随分と楽になっていた。
「皆、ありがとう。お陰で体調が戻ったよ」
 ワタルはソファからひらりと立ち上がると、背もたれに掛けていたマントを羽織る。いきなり本調子だと言わんばかりの態度をシバが窘めた。
「一時的に回復させただけだからな。後でゆっくり休め」
「そうそう。ポケモンセンターでね」
 イツキが冷やかすように白い歯を見せた。
 ワタルは苦笑で返した後、マントを翻しながら控え室を出て行った。


 ポケモンリーグ最後の試練、チャンピオンのバトルフィールドは冷たく乾いた空気に満たされて、きりっと身体が引き締まる。ワタルは王座から立ち上がり、挑戦者を出迎えた。
「よくぞここまでやって来ました」
 相手は外国籍の青年だ。
「感慨深いなあ、ようやくここへたどり着いたぜ……」
 挑戦者はふう、と息を吐き、キャップのつばを直した。
 ここまで到達するのにそれを何度も繰り返したのか、帽子自体は綺麗に洗ってあるのに、つばだけ手垢で汚れている。彼はひどく緊張しているのだろう。メンタルの勝負ではこちらが有利だ。
「後はどちらが王者に相応しいか、この場所で戦って決めるだけ」
 ワタルは余裕を見せつけながらそう告げる。
 挑戦者はもう一度呼吸を整えると、帽子を被り直し、掛けていたスポーツサングラスを外して高らかと名乗りを上げた。
「ぼくはアローラ地方から来たククイ。ここは旅の最終試練だ。ぜひ殿堂入りの称号を土産に持って帰りたいね」
 その地方からの挑戦者は珍しい。
 だが、ワタルは特に話を広げることもなく「望むところだ」と一言返し、ボールを構えてポケモンバトルを開始する。試合前に無駄話は不要なのだ。
「リーグチャンピオンとして――ドラゴン使いワタル、いざ、参る!」

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