第10話:罪なる先入観

 固定観念は悪だ。
 女子は皆、ふわふわのあまーいパンケーキが大好き。そんな思い込みをしている奴の頭の中にはカラフルなマシュマロでも詰まっているのだろう。炎にくべられて膨張し、そのまま破裂して焼け焦げてしまえばいい。
 ナギサは心中で叫びながら、チョコレートソースとどろどろに溶けたアイスがたっぷり浸み込んだパンケーキの残骸を飲み込んだ。あまりの甘ったるさに眩暈を覚え、それ以上食べるんじゃないと胃が拒む。
 甘い物は好きな方だが、このパンケーキという食べ物は子供の頃から大嫌いだ。
 就学前、外国のライチュウがパンケーキを食べ過ぎて本来の姿かたちを失ってしまったという話を聞いてひどく震え上がった。それなのに家では母がパンケーキを一度に十枚近く焼いて限界まで食べさせようとするし、店では三枚重ねた生地の上に生クリームやアイス、ソースなどが盛られ、その甘さに胸やけする。それでも人々は声を揃えて言う。
 女の子は皆、パンケーキが大好きよね!
 この同調圧力には恐怖さえ覚え、ライチュウを歪めた様に自分も恐ろしい容姿に変わっていく気がした。目の前の皿にはまだ生クリームやアイスに濡れたパンケーキが一枚分残っている。

「もしかしてさ、甘いもの苦手だった?」
 テーブルの向かいでパンケーキを半分食べ終えたケイコがナギサの顔を覗き込んだ。滑らかなクリーム色の肌と香水の甘い香りが接近し、胸やけが悪化する。ナギサは視線を逸らしながら、引きつり笑いを返した。
「あ、いや……そんな訳じゃないよ。ただ、これ、かなり甘くって……時間かかっちゃう」
「だよね。思ったより甘くて吐きそうだわ。食べるのやめて、コーヒー頼もっか」
 ケイコはあっさりと頷くと、店員を呼んで食べかけの皿を下げさせ、アイスコーヒーを注文する。潔い対応にナギサは目を丸くした。
 この関係は前回のランチで終わりかと思っていたが、意外にも二度目の誘いはすぐに来た。店はどこでもいい、と伝えると「お茶しよう」と案内されたのは隣町で人気らしいパンケーキ店である。それは単純に「女の子はパンケーキが好き」という固定観念で選んだだけだと、ケイコは悪びれなく笑う。
「なんか、女子はフツーにこういうのが好きかと思って選んだけど失敗だった。次はもっといい店選ぶね。どういうとこ、よく行く?」
 次、と聞いて胸がドキリと高鳴り、胃に詰めたパンケーキを戻しそうになった。一体何が楽しくて、まだ誘ってくれるのか。それほど見下したいのだろうか。だが、前回会った時と比べ自分もさほど劣等感はない。だらしない日常でも、今ならあまり気にせず言える。
「いや……外食、あんまりしなくて。いつもお弁当やお惣菜ですませるから……」
 すると、ケイコが目を輝かせながら賛同してくれた。
「あたしも家では出来合いだよ。自炊とかめんどい」
「うん、分かる。料理なんて滅多にしないや……店で作った方が美味しいんだよね」
「だよねえ。料理してる時間あったらテレビ観るか寝たい」
 会話が滑らかに進むと、ラリーが続いているようで心地いい。頬を緩めるナギサを、もう一度ケイコが覗き込んだ。
「それよりさー、本当にその目、大丈夫?」
 実はケイコの顔が映る視界の三分の一はアイパッチで遮られている。ストライク捕獲の際に負傷した傷は、あれから二週間経過した今でも完治していない。
「あ、うん。こんなの、ブリーダーでは日常茶飯事だし。大変だけどもう慣れた」
 仕事だけは自虐したくなかったので、さも命がけだと嘘をついた。
 大きく腫らした右目に、傷が乾かない両腕。これほど手がかかるのは、あのセブンスマンが初めてである。

+++
 
 すっと持ち上げた目玉模様のハサミが顔の前で並ぶと、頭が三つあるように錯覚させ恐怖を与える。相手が怯んだ隙に右腕を突出し、弾丸さながらのバレットパンチ。牽制には最適だが、問題は次だ。ハッサムの拳をモコが右の針でいなし、ナギサが手を挙げる。
「それ、もう一度」
 ハッサムは腕を戻さずに身体を反らし、勢い付けて頭突きしようとする。セブンスマンの命令無視に慣れているモコはさっと横へ飛んで攻撃を回避すると、ナギサを一瞥し、叱責を促した。
「バレットパンチだと言っただろ! アイアンヘッドは間違いだ」
 するとハッサムはナギサにぷいと顔を背け、ふてくされたようにその場を離れようとする。
「同じ技を使わないと餌はないからな」
 そう言いながらポロックをちらつかせても効果は期待できない。捕獲したばかりの頃は技を無視しても、餌が取り上げられると聞けば反抗して襲い掛かってきた。ここまでなら最初に育成したクロバットのはぐろと同じだ。しかし、このハッサムはそれを何度か繰り返すうちに餌で釣られる愚かさに気付き、従わなくなってしまった。こうなるとポロックは勿論、意固地になって厩舎の餌さえ口にしない。時間に余裕がないので翌日にはナギサが折れて餌をやることになり、一日断食すればやり過ごせると学んだハッサムは全く指示を聞かなくなった。舐めた態度にぶん殴ってやりたくなるが、暴力をもって育成するのは逆効果だ。その皺寄せは警護トレーナーへ向きかねない。今だってハッサムは隙を見てはこちらに襲い掛かり、何度もアイパッチを掠めては瞼の傷の完治が遠のいている。
 これほど生意気なポケモンは初めてだ。苛立つあまり昨日食べたパンケーキの味を思い出し、不快な気分の相乗効果で頭に血が上って視界がゆらめく。

「おーおー、今日も手こずってんなあ。技も覚えねえなんて、脳みそまで鋼なのか?」
 西側の牧草地の柵の向こうでヤマベが笑う。
 傍にいたザングースのふーすけが雑草を狩りながらこちらを威嚇し、売られた喧嘩をハッサムが買おうとしてモコが引き止める。乱暴に槍で小突き、地面に転がすとハッサムは唸りを上げて反発し、そのまま放牧地の奥へ逃げて行った。ナギサは呆れて息を吐く。
「あいつ、私のスピアーより下にいるのが嫌なんですよ。だから従わない」
 それは同じむしポケモンとしての矜持なのか、ハッサムは捕獲の際に叩きのめされてからモコを東厩舎のボスだと認めようとしなかった。他のセブンスマンはモコを認めているので、放牧地ではいつも“一匹カマキリ”状態である。我が強すぎると警護の際もトレーナーとの不和を招くに違いない。そもそも、誰かを守ろうとする意志さえまだ芽生えていないのだが。
「今日も他のセブンスマンの訓練後にモコとバトルさせて、こっちが上だと思い知らせるしかないかな。勝てないくせに意地っ張りな奴」
 不満をモコに漏らすと、すかさずヤマベが口を挟んだ。
「お前も頭かてーなあ。もっと柔軟にやれ」
 はあ? と、ヤマベに届かない声で反発した。まるで自分がハッサムのようだと揶揄されている。
「わざわざスピアーの下につかせる必要はねえだろ」
 本当にこの男は後から後からセオリーを覆してくる。
 セブンスマンはまず厩舎の上下関係を覚えさせなければならない。ポケモンは情に傾きやすい生き物だから、その関係性が甘いと警護トレーナーに染まってしまい、盗難に遭いやすいのだ。
 ベテランの癖に、そんな基本も忘れてしまったのか。ナギサはヤマベを軽蔑しながら問い返した。
「じゃあ、どうしろって言うんですか。他の私の手持ち、もしくはセブンスマンの下につかせろと?」
 ヤマベは意に介さず、さらりと答える。
「それじゃスピアーと変わらねえだろ。てめえがボスになりたきゃ相応の振る舞いをしろって分からせるんだよ。力を見せつけりゃ誰もが従うと思ったら大間違い。“誰かを守ること”を教えるのはそこからだな」
 それは最初に教えて欲しかった、と思う反面、「女子のためのパンケーキ」を食べた今だからこそすんなり飲み込める。歩道の隅できのみをつつくポッポから創造神アルセウスまで「ポケモン」と括られた生物たちが、皆、力を見せつけるだけですんなりと従うはずがない。
「なるほど」
 ナギサは頷き、ハッサムが去った方へと身を翻した。素直な態度にヤマベは目を見張る。
「お、珍しく聞き分けがいいじゃねえか」
 隣のふーすけに視線をやろうとした時、事務所の扉が開いてミシマが出てきた。牧場には不釣り合いの背広姿で、これから取引先へ向かうことが窺える。彼は放牧地の奥へ走るナギサの背中を眺めながら、ヤマベに会釈した。
「お疲れ様です。ナギサさん、どんな感じですか」
「まあ、問題なくやってますよ。あのハッサムもすぐに手懐けるでしょう」
 ストライクの捕獲から態度に変化が見られたので、きっと上手くいくはずだ。さらりと笑って流してみるが、ミシマは尚も不安げだ。
「そうですか。女の子なのにあんなに傷を作って大丈夫かな……」
 まあ、それは。ねえ。苦笑いではぐらかした。ブリーダーならあのくらいの傷を作って一人前だとは、これまで無傷の社長の前では言いにくい。ヤマベが気まずそうに顎を掻いていると、ミシマが別の話題を切り出した。
「ところでヤマベさん。先日お話しした件ですが。そろそろ決断の方、お願いします」
 ミシマは傍で唸るふーすけに視線をやる。
「ええ、まあ……」
 ヤマベは考えるふりをしながら俯いた。さっきから話題をはぐらかしてばかりだ。


 林を切り開いたセブンブリッジの放牧地はタンバシティのサファリゾーンの一エリア分ほどの広さがある。厩舎から一番奥まで歩いて十分ほどかかり、途中には小さな池や岩場、砂地なども作られていた。これにより様々なタイプのポケモンの育成が可能だが、日々の手入れはブリーダーの仕事である。蚊が大量発生する池や毒ポケモンの体液が混ざった砂を掃除するのは面倒なので、東厩舎のセブンスマンには放牧地を荒さぬよう、モコに監視を頼んでいる。
 だが、問題児ハッサムはそれを無視して岩場をめちゃくちゃに斬り倒し、砂利に変えては草むらに蹴り飛ばしていた。あれでは草が痛んで生え変わらなくなるだろう。ナギサは憤りを抑え込みながら、ポロックケースを乱暴に振る。からからと鳴る餌の音に粗暴なハッサムが振り向いた。
「訓練の続き」
 ハッサムは餌が足を生やして自分に会いに来たものだと思っていたらしい。ナギサの顔を見てたちまち警戒を露わにする。
「と、言いたいところだけど。あんた、なんで同じ技を叩き込まれているのか理解してないでしょ。それは後回しにする。モコのことも気に入らないのなら従わなくていい」
 警戒や不満をばっさりと切り捨て、ナギサは明瞭に告げた。そして自らを縛る規律の縄が絶たれたことを理解し、表情が緩んだハッサムを煽るように顎を向ける。
「頂点にいたきゃ、やってみれば? どうしてモコがその場所にいるのか、よく分かるからさ。何なら、あのうるさいザングースを手懐けたっていい。まあ素直に従うかどうかは分からないけど」
 散らかったくず石を蹴り飛ばしながらハッサムに背を向ける。
 不良カマキリは一旦放置し、まずはこの岩場の片付けだ。ウエストポーチからドリュウズのジェットが入ったボールを取り、その場に繰り出す。
「石、集めるの手伝ってくれない。私もシャベルを持ってくるから」
 ジェットはこくりと頷き、辺りに散らばった岩の欠片を集め始める。ナギサも厩舎外の用具入れへ早歩きで向かった。欠片をひとまとめにした後、ジェットにみじん切りにさせ、砂利に変えて駐車場の辺りに撒こう。そんな事を考えて移動しながら、ハッサムの姿はあえて目に入れないように努めた。
 あのハッサムの性格上、すぐ行動に移すはずだ。力を見せつければ何とかなると思い込んでいる。用具入れから持ち出した空のバケツとシャベルを台車に乗せ、岩場へ引き返すと予想通りの光景が待っていた。ハッサムがハサミでジェットを突きまわしながら、子分になれと強要している。あまりに単純すぎたので、ナギサは思わず口元を緩めた。
「やっぱりね」
 笑いを堪えながら散らかった石をシャベルで集め、ひとまとめの山にしていく。
 ハッサムはジェットを殴って上下関係を築こうとしていたが、さっと避けられ逃げられる。それが生意気だったのか、ハッサムは追撃を仕掛けるために跳びかかった。振り上げたハサミが空中でかちんと止まり、間に割って入ったモコが右手の槍でハッサムを突き飛ばす。
「さすが」
 ナギサとジェットがモコを称賛する。特にジェットは昔から何度もモコに助けてもらっているから、そう簡単にハッサムになびく訳ないのだ。ハッサムはジェットの懐柔を諦め、別のターゲットを探しにその場を去る。
 それから作業をしている間、かれがエアームドやガマゲロゲ、ドラピオンなどに片っ端からあしらわれている姿を目にした。全ての石くずを砂利に変えて駐車場へ運搬する頃には誰も相手にされないからか、柵越しにふーすけと喧嘩している有り様だ。どんなポケモンでも構ってやるふーすけは案外律儀な性格なのかもしれない。
「そろそろ中に入れば」
 台車を引きながらハッサムに声をかける。
 ハッサムはそれを無視して尚もふーすけを威嚇する。どちらもうるさいが、聞き分けが良いのは後者だ。
「おい、ふー。いつまで喧嘩してんだ。さっさと中に入れよ」
 西厩舎からヤマベが声をかけると、ふーすけはパッと柵を離し、ハッサムに吠えながらもそちらへ戻っていく。ボスのふーすけが厩舎に入ると、他のセブンスマンも後に続いて西の牧草地にはポケモン一匹いなくなった。ナギサの担当する東側もモコがどやしながら厩舎に入れ、あっという間にハッサムだけが取り残される。
「あんたも入れば」
 ぽつんと佇むハッサムにそう言っても、かれは微動だにしない。ナギサは意固地なポケモンを無視して道具を片付け、厩舎に入った。ポケモンとは不思議なもので、一度ボールで捕獲してしまえばこちらが解放しない限りは逃げることはない。それは先入観なのかもしれないが、あのハッサムがこのまま逃亡するとは思えなかった。空のポリバケツに調合した餌を入れ、外に出した後は残りのポケモンの世話を終わらせ、タイムカードを切って事務所を出る。その間もハッサムはゆらゆらと放牧地を漂っていた。


 翌朝、出勤したら放牧地に置いていたポリバケツは空になっていた。
 ナギサはそれを道具入れに戻し、厩舎で寝ていたセブンスマンを外に出していつも通り掃除を始める。全ての窓を開け放った時、岩場の辺りにハッサムがいるのが見えた。一晩中あの辺りにいたのだろうか。傍をモコが通り過ぎても、じっと見つめてやりすごすのみ。昨日と態度が変わっている。
「モコの行動をずっと見てる」
 背伸びしながら窓の外を眺めていると、ハッサムは岩場に座ってモコを観察しているようだった。セブンスマン同士の喧嘩を仲裁したり、柵の外になるきのみを食べようと首を伸ばすエアームドを注意、時には侵入した野生のポケモンからセブンスマンを守ったり。それを繰り返すうちにモコの羽音が近付いてくるとセブンスマンはしゃきりと背を伸ばして姿勢を正すようになる。
 ナギサは手早く掃除や餌の補充を終わらせると、事務所でコンビニおにぎりを腹に入れて外へ出た。
「モコ、おいで。捕獲に行くよ」
 主を見たモコが寄って来る。近くに居たセブンスマンにも視線をやった。
「あとエアームドとハッサム。ついてきな」
 エアームドが嬉しそうに、ハッサムは渋々柵を越える。やはり昨日とは違う反応だ。そのまま三匹を引き連れながら、西側の放牧地に座り込んで休憩するヤマベに外出を告げる。
「捕獲に行くんで、こっちのポケモンをよろしくお願いします」
「そんな大所帯で出歩くのか。おまわりから青切符貰えるぞ」
 この地方ではセブンスマンを含まない二匹以上の連れ歩きは違反とされており、トレーナー免許に違反点数が加算されてしまう。エアームドとハッサムは調教中のためセブンスマン認定を受けておらず、この数では違反の対象となる。点数が一定を超えるとライセンス停止となるが、警察に見られなければ切符を切られることもない。特にエスパーポケモンがいると彼らの動きをレーダー探知機の如く予知できるので、ある程度の実力者では必携だ。ナギサが所有するエーフィのイオスはそういう役割も担っている。
「遠出はしませんよ」
 腰のベルトに装着したイオスのボールを確認し、牧場を出た。

 実のところハッサムの調教が終わっていないのに、新たなセブンスマンを捕獲するつもりなんてない。念のため予備のボールは持っているが、今回の目的は別だ。林道から隣町とリーグ所在地の市を繋ぐ国道に出て、道路を渡り反対側の林へ入る。先頭を歩くエアームドが伸びっぱなしの草木を切り裂き、その後をナギサとモコが続いていく。ハッサムはそこから二メートルほど距離を置き、モコを睨みながら後ろをついている。
「モコ、強そうなのをおびき出して」
 五分ほど歩いたところでモコを林の奥へ放ち、そこに潜むポケモン達を呼び起こすよう命じた。この辺りにいる野生ポケモンはナギサやヤマベによってあらかた調査済みだが、それでもたまに思わぬ「掘り出し物」がいる。人気のない場所柄か、粗大ごみ同様に飼育できなくなった手持ちポケモンを捨てていくトレーナーが後を絶たないのだ。それをモコは引き当てた。
「リザードン!」
 竹林を引き抜くように飛び出してきたモコの後ろを、毒を食らったリザードンが怒り狂いながら追い回す。ナギサは良い獲物に遭遇した興奮で浮足立ちながらも、一旦冷静になって社長に教えられた不文律を思い出した。
 セブンスマンには様々な制約があるが、暗黙のルールとして「この地方の研究所で配布されているポケモンの最終進化系はセブンスマンに起用してはならない」というものがある。配布ポケモンとセブンスマンを比較してしまい、育成がおざなりになるという理由からだ。さすがに初心者を甘やかし過ぎだろう、とナギサは思う。それでも研究所の学者様はブリーダーより地位が上だから、従ってやらなければならない。ジムバッジの力で渋々言うことを聞くポケモンになった気分だ。
「研究所で配布されているのはアチャモ、ゼニガメ、ツタージャだっけ。被らないから当たりだ。ナイスだよ、モコ!」
 モコの背後から「かえんほうしゃ」が絶え間なく飛んでくる。それを回避しつつ、モコは林の中をぐるぐると逃げながら少しずつナギサの元へ近づいて行った。辺りを火の玉が横切ってもナギサはその場所をから離れようとしない。いざとなれば自分には鋼の盾がいる。勿論、相性は悪いけど――そんな顔をしながらリザードンを待ち構えた。リザードンが一瞬ガス欠した頃を見て、モコがとんぼ返りしながら主の元へ戻って来る。
 リザードンが喉を慣らし、ナギサとモコめがけて再び「かえんほうしゃ」を発射した。
 すかさずエアームドが地面を蹴り、落ち葉を巻き上げながらふたりとリザードンの間に割って入る。ナギサの目の前で花火が弾け、火だるまになったエアームドが翼を丸めながら地面に崩れた。
「エアームド!」
 エアームドはくすんだ翼を戻しながら速やかに体勢を立て直す。相性が悪いからか、足元はおぼつかない。背後にいるハッサムの動揺がナギサの背中に伝わる。緊張が走る中、リザードンが間合いを詰めて、炎を纏った右腕をエアームド目掛けて振り上げた。
 ナギサはエアームドを援護しかけたモコの前でこっそりと三本指を立てる。
 それは三秒待て、の合図だ。その間にエアームドが殴られても仕方ない。“だれか”が守ってやれば別だけど――ちらりと後方に視線を滑らせると、あかがねのカマキリは既にその場にいなかった。ナギサの一つ結びの黒髪を揺らし、風を切りながらリザードンの背後めがけて右腕を突き出した。鋼のバレットパンチはリザードンの肩口を打ち抜き、相手の足元がぐらりと揺れる。その隙を狙って、ハッサムは更に追撃を仕掛けながらリザードンの首筋を縦に切り裂いた。竜の咆哮が林の中に轟き、ポケモンは落ち葉にまみれながら崩れ落ちていく。
 そこへナギサは青と黄色の配色がされたセブンスマン専用ボールを投げ、手早くリザードンを捕獲した。ハッサムの技が急所に当たったのか、リザードンは一切の抵抗なく中に収まった。
「やるじゃん」
 ボールを拾い上げた後、ナギサはハッサムを軽く労い、ポロックを目の前に放り投げる。ポロックは放物線の途中でハッサムの口の中にぱくりと吸い込まれていった。ケースから二個目の褒美を押し上げて、今度はエアームドを向く。鎧鳥は餌の存在を忘れ、くろがねの瞳を輝かせながらハッサムに羨望を送っていた。
「単純なやつ」
 人懐っこいエアームドは面白いほど思惑通りに動いてくれるから、改めて捕獲して良かったと実感する。上に立つには相応の人望が必要だが、時間もないので一番単純なエアームドを利用した。こいつがハッサムの舎弟になり、そこから警護を学んでくれれば調教も円滑になるだろう。
 ちらりとモコを見ると、最初から企みを理解していた相棒はやっぱりね、と言わんばかりにこちらを凝視している。エアームドのために出したポロックをモコにやり、口止めしてから元来た道を引き返すことにした。
 ハッサムはエアームドにすり寄られながら、困惑しつつもナギサの後に続いていく。反抗の色は随分と薄れており、ついでにリザードンの世話も任せれば、明日からは随分とやり易い。既にパンケーキの後味は消えてなくなっていた。

+++

 午後、四時五十分。
 トマルは電源を落としたパソコンの前で書類を整理するふりをしながら、フロア奥の壁掛け時計をちらちらと気にしていた。ポケモンリーグの内勤職員は基本的に残業がない。今日も終業直後に施設を飛び出し、まっすぐ帰宅して自宅アパートでインターネット番組を観ようと思っている。缶チューハイ片手に観戦するセキエイリーグ中継は格別だ。故郷ハナダシティの挑戦者が現れた時には感情が高ぶり、手持ちポケモンと一緒に応援する。
 そんなプライベートを他人に話すと、決まって「君が働いているSPリーグは観戦しないのか」と指摘されるが、それはそれ、これはこれだ。そもそもSPリーグはローカル局が地上波放送をしているとはいえ、全試合を網羅しておらず、バトルが長引くと途中で放送が打ち切られることもままあって白けてしまう。
「そういうのを何とかするのが広報の仕事だと思ってました。私はリーグ中継を観ませんけど」
 以前、中継の愚痴をこぼした時にセブンブリッジ社のナギサにそう言われてしまった。返す言葉もないが、それについては局曰く、目立ったスターがいないSPリーグはまだまだ盛り上がりに欠けるとかで完全放送は叶わないのが現状だ。だから仕方ないと、トマルはすんなり受け入れている。
 それに今はローカル中継よりセブンスマンの宣伝が先である。今日は一日かけてブリーダーの取材記事を作成した。明日はチャンピオンのチェンに中国のセブンスマン事情をインタビューする予定である。
 明日の段取りを復習し、終業まであと五分。
 ぼんやり時計を眺めていると、上司の席を起点にしてフロア内にざわめきが波打ち始める。これはまさか、滅多に起こりえない残業の合図だろうか。すかさず隣の席の先輩に確認する。
「何かあったんですか」
 答えるように遠くの席にいた上司が立ち上がった。
「皆、聞いてくれ。ついさっきチャンピオンが交代したらしい。それもこの地方の出身らしいぞ」
「おお、ついにか!」
 近寄る終業に落ち着かなかったフロア内が歓喜に変わり、ワッと盛り上がる。これほど喜ばしいことはないのに、トマルは素直に馴染めなかった。まるでビジネスドラマのワンシーンを画面越しに眺めているみたいだ。そう感じるのは明日取材をするチェンの顔が頭から離れないからだろうか。
「ラーメン、食べながら話しませんか。ボク、ここのラーメン大好き」
 木漏れ日のような笑顔で提案してくれた、リーグ内の食堂でチャンピオンお気に入りの醤油ラーメンを食べながらのインタビュー。明日、この予定は白紙になっているだろう。
 ポケモンリーグの敗者は皆、風のように去っていく。残された人々は、その余韻を容赦なく踏みしめる。「中国人チャンピオンはどこのリーグでも長続きしないって言うしな」とか、「やっぱり草使いは大成しない」とか。後者はこのリーグの四天王にもいるのだが評判が悪いのでそれに含まれている。
「やっぱりチャンピオンは地元の人間じゃないと駄目だよなあ」
 隣の席の先輩が退勤の支度をしながらトマルに同意を求めた。セブンスマン制度などでトレーナーのサポートをしているにもかかわらず、発足から一度も地元出身のチャンピオンを輩出したことがないSPリーグは外様を疎んじる傾向にある。王者になれるチャンスは平等にあると思うのだが――これはもしかすると自分がインターネット配信のセキエイリーグ中継で地元出身のトレーナーを応援する心境に近いのかもしれない。
「そうですね……」
 トマルは苦笑し、視線を逃がすように壁掛け時計を見た。
 午後五時を少し過ぎている。鞄を掴み、どやどやとフロアを出る職員の波に乗りながら廊下に出た。いつもならエレベーターへ向かう人の流れが今日はやけに遅い。皆、窓に張り付いて外を窺っている。そこから見えるポケモンリーグの正門前で新チャンピオンが記者会見を行っているようだった。ここまで注目されると見ずに帰る訳にはいかないだろう。
 トマルは人をかき分けて窓へ向かう先輩の後を追いかけ、僅かな隙間に潜り込む。リーグの正門前にはチェンの就任会見に比べ、倍の記者陣が集まっていた。やはり地元民だけあって注目度が違う。あんまり多いのでチャンピオンの姿が記者に埋もれて見えないほどだ。
 ふいに、こちらの窓の様子を見たアナウンサーらしき人物がマイクを掲げながら注目を促した。それで記者の多くが身体を動かしたので、隙間からようやくチャンピオンの姿が見える。遠くからでも分かるはっきりとした目鼻立ちの精悍な男性。少し色黒で、年は自分とそう変わらないだろうか。トマルは無意識のうちに焦りを覚えた。
 
 ローカル局のアナウンサーがリーグのオフィス棟を笑顔で示すと、多くの記者がそちらに視線を動かした。
「リーグ職員の皆さんも窓に集まって新チャンピオン誕生を祝福しています」
 横に広い三階建てのビルの窓全てに人が張り付いている光景はそう見られないらしく、そちらにレンズを向けるカメラマンも多い。それについてアナウンサーはチャンピオンにマイクを向ける。
「この光景をご覧になった感想をお聞かせください、新チャンピオンのアシヤさん」
 チャンピオンは角ばった頬を持ち上げながら、にこやかに微笑んだ。
「ええ、とても素晴らしい眺めです。期待に恥じない活躍をしなければ」

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