息抜きはカフェラテで

「先に進みなさい。チャンピオンが貴方を待っているわ」
 そう言って挑戦者を王者の元に送り出す役目を担っているが、ここ最近は微笑みを作るのも億劫だ。
 彼らの勝利を妬んでいる訳ではない。それは素直に祝福できる。腹立たしいのはここで彼らを止められなかった自分だ。

「最近、ちょっと疲れ気味?」
 カリンが通した挑戦者に勝利したワタルが、こちらの顔色を窺うように尋ねる。
 やはり、彼も気にしているようだが、こんなことをされると焦燥が募るばかり。無意識のうちに早口になりながら誤魔化してみせた。
「たっぷり休んでるわよ」
 事実なのだが、それを公言すると一層虚しくなる。
「ここまで来るトレーナーなんて早々いないもの。むしろ、退屈ね」
 ポケモンリーグ最後の四天王として挑戦者を迎え撃つのに、ここ数試合は連敗が続いている。
 敗因はポケモンの調整不足ではないと周囲は口を揃えるし、それは自身も分かっている。となると問題はトレーナーである自分だろう。指示の遅れや判断ミス――それらがひとつ発生するだけで、試合の流れを大きく左右する。小さなミスはこれまでも何度かあり、その度に修正して勝利に繋げていたのに、今はそれが思うようにできない。
 カリンは澄ました態度を装って視線を逸らした。四天王の大将のくせにフリーパス――かつて同じ立ち位置にいたワタルはこの体たらくを見て、呆れているに違いない。彼の顔を直視できなかった。
「そうか」
 ワタルの低い声が脳をぐわんと揺らして頭痛をもたらす。
「いつでも自主トレに付き合うから」
 こちらの焦燥などお見通しなのだろう。その気遣いに身体の内側がひりひりと痺れた。
 放っておいてよ――立場を無視して叫ぶことができるほど、無謀で傲慢なトレーナーではない。それを言ってはおしまいだ。チャンピオンは落胆し、この会話をボールの中で聞いている手持ちポケモンの信頼は崩壊するだろう。
 こんな時は敗戦のバトルビデオを観返しながら、自身を省みるほかはない。リーグスタッフに頼んでタブレットを借り、休憩室で濃いめのコーヒーもしくはエスプレッソを口にしながら反省を繰り返すのだ。コーヒーと敗北の苦々しさがカリンを打ちのめすが、何度も負けてはいられない。
 
 あたくしは四天王の大将だもの――そのポジションはポケモンリーグの最後の砦。本来の役割は、挑戦者を王座へ向かわせないことだ。余裕の笑みを無理やり作って、挑戦者をワタルの元へ導いてやるのはもう御免だ。じりじりと焦げ付く気持ちとコーヒーの香りが相まって苛立ちが募る。カップに口を付けると、強い苦みが胃を刺激した。リーグが提供するドリップバッグコーヒーは昼夜問わず戦うトレーナーを冴えさせるため、苦味が際立つ味わいだ。余韻を楽しむ暇はなく、カリンの神経を尖らせる。
 その時、出入り口のドアが軽くノックされ隙間から派手な髪色をした青年が顔を覗かせた。
「お疲れさまです」
 同僚のイツキは愛嬌のある笑顔で挨拶した。
 その表情は眩しすぎて、返事をするのも億劫だ。黙っていると、彼は大きな紙袋を抱えながら部屋に入る。
「カリンさんも休憩ですか」
「見ればわかるでしょう」
 がさがさと騒がしい紙袋の音にうんざりしたカリンは愛想なく応答する。
 こんな態度はとりたくないが、挑戦者に取り繕うので疲弊して頬を持ち上げるのも辛かった。そもそも挑戦者が自分のところに来たのは彼が最初に負けたからだ――と、一瞬、責任転嫁しかけた自分が嫌になる。コーヒーを口にし、苦味を含んで自制した。
 するとイツキはよろよろと紙袋を引きずりながらこちらのテーブルに近づき、カリンのカップを覗き込む。
「あっ、コーヒー」
 仮面の奥で大きな目が見開いている。
「淹れちゃいました?」
 残念そうに尋ねる態度が気に障る。また素っ気なく答えた。
「ご覧のとおり」
「おかわりするならこっち、使ってください」
 イツキはまたも騒がしく紙袋を開きながら、コーヒーマシンの大きな箱を笑顔で見せつけた。時折テレビCMで見かけるブランドだ。
「スポンサーに貰ったんですよ、コーヒーマシン。カプセルも無償で飲み放題だそうです」
 これだけ冷たくされてもめげるつもりはないらしい。カプセルの入った箱を取出し、一つ一つ紹介する姿は無邪気な子供のようだ。
「カプセルも種類豊富なんですよね。普通のコーヒーは勿論、抹茶とか紅茶ラテ……そして、なんとアローラで人気のエネココアまで作れちゃいます」
「あら、そう。よかったわね」
 そう言って苦いだけのコーヒーと、延々と敗戦の映像が流れるタブレットに視線を落とす。
 空気を読んで黙ってくれないだろうか。これ以上、その笑顔を見たくはない。負けたくせにどうして笑っていられるのか。一番手である程度の敗北には慣れているから? 自分は一つの負けが悔しくてたまらないのに――切り替えられないのがもどかしい。
「早速、何か作ろうかな。カリンさんのコーヒーがあと少しなので、おかわりを淹れますよ」
 イツキが給湯スペースの片隅にコーヒーマシンを設置しながら聞いた。
「それならエスプレッソをお願い」
 はねつけるように返事した。
 カプセルの種類は知らないが、エスプレッソくらいあるだろう。彼は「作りまーす」とにこやかに頷いて、楽しそうにカプセルをセットする。しばらくするとマシンから蒸気が吹き上がり、ヒステリックな悲鳴を上げた。カフェだと気にならないが、二人きりの室内では随分と耳障りだ。
「結構うるさいのね」
 不満を漏らすと、イツキはやや焦りながら苦笑する。
「うーん、予想外でした……でも、スポンサーさんからいただいた手前、ねえ?」
 まあ、それなら文句も言えない。
 マシンが徐々に静まるにつれ、辺りにはふんわりと柔らかいコーヒーの香りが漂い始める。気に入っているカフェを再現するような深みのある香りはなかなか悪くない。カリンはふう、と小さく息を吐いた。
「そうね。でも、良い香り」
 次からはドリップバッグをやめてマシンで淹れよう、と考えているうちに鼻先に漂うコーヒーの香りが強くなった。ことん、と音がしてプラカップが目の前に運ばれる。
「はい、おまたせしました」
 中に入っていたのはきめ細かいミルクの泡で蓋をされた、マホガニー色のカフェオレだ。唇で触れたくなる優しい色合いに思わず手を伸ばしかけたが、先の注文とは異なっている。それが何だか気に入らなくて、指先を丸めて反発した。
「ちょっと。頼んだのはエスプレッソでしょ」
 本当は受け入れても構わない。
 でも、引っ込みがつかないところまできている。ここまできたら冷たいままで押し通したいのに、イツキはこちらの顔を覗きこみながら微笑んだ。
「これ以上、濃いのを飲んだら胃に負担ですし。だから、ミルクを混ぜたカフェオレにしてみました」
 ワタルと同じ、要らぬ気遣い。
 また身体の内側がひりつく。コーヒーの影響も多少はあるのかもしれないが。
「ブラックしか飲まないの」
「残りの仕事に響きますよ」
 仕事――それを聞いて、敗北がよぎった。
「余計な……」
 咄嗟に声を荒げようとすると、イツキが真面目な顔つきで遮った。
「まあ、ボクが負けなきゃいい話ですけどね。挑戦者がそっちに行くことはないわけだし」
 彼はちょっとだけ苦笑する。
 一番手だから負けに慣れている――その考えは浅はかだったと後悔させる、噛み締めるような顔つきだ。イツキはカフェオレをこちらに向けながら、ふわりと口元を緩ませた。
「カリンさんの身体が心配なんです。今の四天王の大将はカリンさん以外ありえないですから」
 荒んでいた理由はイツキにもお見通し。気にして意地を張っていたのが馬鹿みたいだ。だが、ひりひりと苦い心を中和してくれる柔和な笑顔を見ると、焦げ付いた感情が徐々に薄らいでいく。変に気を遣われるより、はっきりと心配してくれた方が嬉しいのかもしれない。愛嬌がある彼には、特に。
「……それなのにまたカフェインを勧めるワケ?」
 気持ちに少しの余裕が出来ると、この調子のいい男を少しからかってみたくなった。
「あっ、いや、それは……」
 効果は抜群だ。イツキは目を白黒させながら、慌てて桃色のカプセルを掲げる。
「エネココアにします? コーヒーよりずっとカフェイン量は少ないですよ!」
「冗談よ」
 ようやく頬が緩んだ。解放感が心地いい。
 そのままカフェオレに手を伸ばしたが、すかさずイツキに横取りされた。ブラッキーも目を見張りそうな素早さだ。
「や、カフェインの摂り過ぎは良くないですし! ボク、飲みます」
 イツキは縺れる舌で出来立てのカフェオレを飲み込むと、思わぬ熱さに一瞬喉を震わせながらもその味に目を輝かせた。
「うん、まろやかでおいしい!」
 随分と美味しそうに飲むじゃない。
 その行動がこちらをどれほど煽っているのか分かっているのかしら?
「じゃ、エネココアを淹れますね」
 イツキがココアのカプセルを掴み、空いた方の手で回収しようとしたカップを横取りした。盗んだ技は、カフェオレをさも美味しそうに口にすること。ぬくもりが残るカップの縁にルージュを重ね、温かく柔らかな味わいを堪能する。
「確かに美味しいわ」
 わだかまりがじんわりと解けていく気がした。
 それまであまり意識しなかったが、エスプレッソにミルクを足すだけでこうも変わるのは驚きだ。気分が晴れないとこちらの方が救われる。最後まで飲みたくなって、目の前で硬直したままのイツキにねだってみた。
「これ、ちょうだい」
 彼は口をぱくぱくさせながら一度だけ頷いた。
 カフェオレを出すまでは余裕たっぷり振る舞っていたのに、少しつついただけでこの調子。面白い男だ。傍で見ているのが楽しい。
「カフェオレって優しい口当たりね。好きな味だわ」
 思わせぶりなことを言って残りのカフェオレを飲み干した。
「そうですね……」
 イツキは困惑したように視線を落とす。
 どうやら意図は伝わっているみたい。
 たまに甘えるのもいいものだ。カリンは唇をカップで蓋をしたまま、こっそりと礼を呟いた。
「ありがと」

+++

 十分だけ先に休憩したカリンが持ち場へ戻っていくと、室内はイツキ一人きりになる。
 共に部屋を出るのもよかったが、どうも腰が重くそのまま彼女を見送った。彼は掛け時計を眺めながら、残り十分に迫った休憩時間をぼんやりと消化する。
 ふいに出入り口がノックされ、中を窺うように少し間を置いてからドアが開いた。現れたのは四天王のキョウだ。
「お疲れさまです」
 イツキはもたれ掛っていた椅子から上半身を起こし、重たそうに頭を下げる。その気だるげな様子を見て、キョウが尋ねた。
「効果は出たか」
「抜群ですよ」
 イツキは苦笑しながら腰を上げ、設置したコーヒーマシンに歩み寄る。
「自腹切ってマシンを用意した甲斐がありました。何か飲みます?」
「エスプレッソ」
 その注文に、イツキはエスプレッソのカプセルを二つ掴んでマシンにセットする。コーヒーマシンが飲み物を準備する騒がしさに紛れながら、彼はぽつりと心配を漏らした。
「カリンさんがあんなに落ち込んでいる顔、初めて見ました」
 ここ一月ほど、彼女の負けが続いている。シバを勝ち抜いた挑戦者は必ずワタルの元へ行けてしまう大スランプで、日に日に疲弊と焦燥が現れていた。それを何とか救いたくて、ひとまずブラックコーヒーばかり飲んでいる状況の改善のためにコーヒーマシンを購入したのだ。すぐに効果はあったが、そもそもカリンの敗北には自身も起因している。自分が挑戦者を後ろへ通したから――
「ボクが負けなければ……」
 すかさずキョウが遮った。
「一番手と四番手の負けは役目が違う」
 そして口元を緩ませながら付け加えた。
「勿論、二番手も」
「そんなものですか……」
 イツキは最も多くの挑戦者を迎え撃つポケモンリーグの四天王一番手だが、その差が理解できなかった。敗北の価値は等しく同じだと思っている。キョウがそうではないのは、ジムリーダーの経歴があるからだろうか。ジムリーダーはバッジのランクによって負ける役目がある。
「ボクもそれが分かる境地に達しないとなあ。今は結構、堪えますよ……」
 四天王に就任してから日は浅いが、一つの試合も取りこぼしたくはない。完成したエスプレッソをテーブルに置いて椅子に腰を下ろすと、重たい香りが漂った。その姿に感心しながらキョウがカップを傾ける。
「ならば海外リーグのような指名制を要望してみるのはどうだ。我々が一番手に指名されることで、君の負担は減るだろう」
「それじゃカリンさんが四番手でなくなるじゃないですか」
 間髪入れずに反論した。
「やっぱり大将ですよ、あの人は」
 カリンは自らの実力を誇っている姿が最も美しい。彼女はイツキの憧れであり、いつか追い抜きたい目標だ。
「強くあって欲しいです」
 そのためなら出来る限りのフォローをする存在でありたい。
 イツキはそっとエスプレッソに口をつける。唇に触れる程度に含んだだけなのに、強い苦味が身体を震わせた。

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