ジョウトドライブ

 カリンはすっきりと澄み渡るセキエイ高原の空気を吸い込み、群青に暮れた空を仰いだ。あちこちに瞬く一番星を見て、日が短くなったことを実感する。この時間になると急に肌寒くなるので、身体から熱を放つヘルガーとカシミアのショールが手放せない。
 ポケモンリーグ前のロータリーからエンジン音が聞こえてきたので、そちらに視線を向けると目の前に赤い小型車がやってきてカリンの前で停車する。
 その光景はエンブオーが背中を差し出している姿に似ていた。この車の名前がエンブオーの図鑑ナンバーと同じだからかもしれない。
「お疲れさまです」
 右側の運転席から、見慣れた青年が現れる。同僚のイツキだ。仮面の下の笑顔がちょっと引き攣っていた。
「あら。お疲れさま」
「これから帰るところですか?」
 こちらの顔色を窺うような態度に、カリンは彼の意図を察した。それでもまだ気付かないふりをしてみる。
「そうなの。タクシー待ち」
「こんなに寒いのに。風邪ひきますよ」
 イツキはわざとらしく息を吐いた。肌寒いものの、まだ白くなる時期ではない。
 少しからかってやりたくなって、鼻先をつんとさせながらヘルガーと顔を見合わせる。
「この子がいれば平気よ」
 これにはさすがのイツキも慌てた様子だ。彼は歩道へ回り込みながら、余裕のない表情でボンネットにもたれ掛った。
「そ、そうですか。でも、あのですね。もしカリンさんさえよろしければボクがお送りしますけど」
「あら、空車なの?」
 カリンは窓越しにシートを覗き込んだ。勿論、助手席は空いている。しかしイツキはリアシートにヘルガーを乗りこませぬよう、ポケモンを牽制するように言い含めた。
「ええ……あの、“一人だけ”乗れます」
 それでとうとうカリンは噴き出して、「お願いするわ」とにこやかにヘルガーをボールに戻した。
 イツキは助手席のドアを開け、彼女を乗せた後はこっそりと息を吐きながら胸を撫で下ろす。これでひとまずドライブの誘いは成功だ。
 
+++

 一週間前、イツキは思い切って男性ロッカールームで同僚達に聞いてみた。
「女の子をドライブに誘う時に小型車で来る男ってどう思います」
 趣味で選んだ自家用車は助手席に人を乗せることを考慮していなかった。
 だからカリンをドライブに誘う前にちょっと心配になって周囲の意見を聞いてみようと思ったのだが、イツキの身近にはあまり参考になる人物がいなかった。まず、ワタルはイツキの自家用車を知った上で、配慮するようなことを言う。
「いいんじゃないかな。今はスポーツカーこそステイタス、って時代でもないし」
「僕に気を遣わなくてもいいですから、本音を聞かせてください」
 するとワタルは少し言葉に詰まり、
「……うーん、どうだろ。俺は車に乗らないし。女の子を誘うならドラゴンに二人乗りかな」
 と、素直に微笑む。彼は普段、カイリューに乗って移動している。
「それなら確実に落とせますね」
 イツキは呆れ、次にキョウに尋ねてみる。
「あのー、娘さんの彼氏が小型車で迎えに来たらどう思います?」
「別に」
 またもつれない答えが返ってきた。
 彼の車はセダンである。それも弟子の送迎付き。イツキはやや不安になって食い下がる。
「やっぱりセダンの方がいいですかね……広いし」
 あるいはキョウさんのセダンを貸してくれたら――そんな下心を込めて言うと、鼻で笑い飛ばされた。
「レンタカーナンバーで現れるのか?」
 確かにそちら方がよほど格好悪い。思わぬ返しに何も言えなくなっていると、荷物をまとめていたシバがばっさりと切り捨てる。
「堂々としてろ。そんな細かいことを気にするなら誘うな」
「そうそう。ま、カリンなら問題ないよ」
 ワタルが笑い、他も頷く。
 どうして誘う相手がバレているんだろう。
「彼女を誘うなんて言ってませんけど」
 知らないふりをして顔を逸らしたが、何だか居心地が悪かった。

+++

「今はコガネにお住まいでしたっけ」
 いきなり住所を尋ねるのは遠慮し、ナビを設定せずに車を発進させた。アクセルを踏んだ瞬間に車内が少しだけ揺れて、ほんのりと花のような香りが漂う。視界の端にはカリンのワンピースから覗く白い腿がちらついていた。
 イツキは自家用車でドライブに誘って正解だ、とこっそり息を呑む。この狭い車内ではいつも以上に距離が近い。
「そうよ。急いでないし、チョウジを過ぎたら下道でいいわよ」
 カリンはこちらを向きながら微笑んだ。
 そのルートで帰ると、コガネまではおおよそ二時間半。艶やかな赤い口紅がイツキをちくりと刺激する。与えられた時間いっぱい、好感度を上げなければ――それにはまず、雰囲気作りだ。
「何か聴きます? どういう音楽が好きですか」
 普段はラジオを聞き流しているが、この日のために音楽配信サービスに加入した。これならどんなリクエストにも応えることができる。が、カリンは微笑みながらさらりとかわす。
「まあ色々とね……でもコガネまで長いし、ラジオでいいわよ」
「あ、はい」
 エスパー技があくポケモン相手に空振りした時のような虚しさ。
 このサービスは明日、解約しよう。イツキはオーディオをラジオに切り替えながら決意した。
「ところで、あたくしを誘ってくれるなんてどういう風の吹き回しなの?」
 カリンが艶やかな髪を傾けながら、探るような視線を向ける。それがあまりに美しいので、思わず息が止まりそうになった。
「えっ。それは……」
「今までこんなこと、なかったじゃない」
 追い打ちを掛けるように続けられると、舌が乾いて言葉が縺れる。
「いや、たまにはドライブとか……いいかなーと」口をぱくぱくと動かしているうちにやがて潤いを取り戻し、思い切って気の利いた台詞を選んでみた。「この時期は空気が澄んで星空が綺麗だから」
「あら、ロマンチックね」
 ふふ、と小さなと息が漏れ聞こえてイツキの胸が高鳴る。
「日が暮れた後のセキエイの空は素敵よね」
 セキエイ高原を下る車のフロントガラスには群青色の夜景が広がり、助手席で笑うカリンの姿がぼんやりと浮かんでいる。まるで夜空を支配する女神のようで落ち着かない。油断すると抱擁を求めてそのままガードレールに突っ込んでしまいそうだったので、イツキは運転に意識を傾けようとしたが、それは車内に沈黙を呼び込んだ。
『……日が落ちるのも早くなりましたね。街を抜ける風も随分と涼しくなりました』
 ラジオパーソナリティが狙ったように会話を繋ぐ。
 ここで持ち直さなければ、とイツキは思い切って口を開いた。
「ところで乗り心地はどうですか、ボクの車」
「悪くないわよ」
 カリンがシートに身体を預ける。
 完全に手ごたえが掴めない反応に、ワタルの気遣いを思い出した。
「少し、狭いかも」
 そう弱音を吐くと、カリンが「あら」と噴き出した。
「だから誘ったのかと思った」
 艶っぽい笑顔がイツキを刺激する。
 二人で乗ってみると思いのほか距離が近いので嬉しかったが、そんな下心をもって発した台詞ではないのだ。慌てて言い訳した。
「いや、これ、ボクのマイカーなんで……」
「ふぅん。いつも誰を乗せてるの?」
 探るような視線を受けて正直に答えた。
「ネイティオか、荷物、ですけど」
 するとカリンは声を上げながらさっぱりと笑う。
 普段は色気があってスマートで、同僚と言えどちょっと近寄りがたい雰囲気さえあるのに、今は柑橘類みたいに瑞々しくて爽やかだ。車内の緊張がみるみるほぐれて明るくなった。こんなカリンの姿を見たのは初めてかもしれない。イツキは得した気分になりながら言葉を続ける。
「独り者って大体そうですよ。助手席はポケモンか荷物です」
「言われてみれば確かにそうね」
 親しみやすい笑顔を向けられると踏み込んでみたくなる。彼女の助手席には誰がいるのか、それを聞いてみたい。アクセルペダルに掛ける右足に力を籠めながら、思い切って口を開いた。
「カリンさんの方は……」
 すると彼女は質問を“よこどり”する。
「“誰”だと思う?」
 からかうような視線に右足の爪先がじんわりと汗ばんだ。
 道路脇の街灯の光に乗って、思いつく限りの男の顔が浮かんでは後ろへ流れていく。同僚ならワタルやシバだろうか。あるいはプロ入り前から付き合っている彼氏がいたりして――ちかちかと視界が瞬いた後、どれも認めたくなくて喚くように声を張った。
「ヘルガーかブラッキーを乗せてるんじゃないかな!」
 ほとんど自分の希望を言ったようなものだが、カリンは目を丸くする。
「あら」
 その表情に誤魔化しはない。少しだけ身体が軽くなった。
「図星かな」
「エスパー使いは違うわね」
 カリンはつまらなさそうにシートに身体を持たれかけながら、艶めく巻き髪を人差し指に絡ませる。
「いや、それとこれとは」
「どこまで見破られているのかしらね」
 そんなの、一つも分かりませんよ。ドライブに使う車の選定だって迷う男です。
 なんて弱音を飲み込んで、澄ました風を装いながら顎を伸ばした。
「どうでしょう」

セキエイ高原から伸びていた高速からチョウジタウン付近の下道へ降りると、夜空はより色濃くなり、街灯は減って周囲は暗闇に包まれる。
「この辺ってまだ田舎よねえ。草むらから野生のポケモンが飛び出してくるからビックリしちゃう」
 『オドシシ注意』の標識を過ぎたところで、カリンが言う。そこでイツキは先日ラジオで耳にした話題を出した。
「今度、車用のむしよけスプレーが出るらしいですよ。それで車をコーティングすればポケモンが寄ってこないらしくて。これでバンパーを凹まされなくてもすむのかな」
「ぶつけられたこと、あるんだ」
 野生ポケモンの中にはヘッドライトの両目を光らせ、闇夜を走る車を敵とみなす種も存在する。
「ありますよ。カリンさんもきっと同じようにしていると思いますけど、その為の助手席ネイティオです」
 このような田舎道を走るとき、危険を予測できる相棒の存在は大きい。
「あら、今は隣にいないけど平気?」
 カリンが口先だけの心配をする。
 こちらを小突くような視線にハンドルを握る両手がじんわりと汗ばんだ。ここまで順調に愛車を走らせてきたのに、野生ポケモンの突進を受けては台無しだ。それにノーガードでやられるようでは四天王の名が廃る。
「その時はボールから出して対抗しますけど」
 自信たっぷり言ってみたつもりなのに、カリンはあまり信用していないのか、不敵な笑みをこちらに向ける。
「その時点で車は凹んでいるわよ、きっと。今からネイティオちゃんを用意しても構わないけど……あたくしも中々使えると思うわ」
「四天王ですからね」
 これ以上頼もしい野生対策はないだろう。
 ネイティオを出さなくてもよいことに安堵しつつも不甲斐なさは拭えない。イツキがひやひやしながら車を走らせていると、路肩の茂みが大きく揺れて白い影が目の端に映る。言った傍からオドシシだ――と、認識すると同時に助手席のサイドウィンドウが下がる音がした。ボール一つ分開いた隙間から冷たい風が頬を刺す。
「ドンカラス」
 フロントガラスの中央に烏の羽根がふわりと舞ったのが見えた瞬間、道路へ飛び出そうとしていたオドシシが横の草むらへ押し戻される。ドンカラスのつばめがえしだ。ポケモンリーグなら牽制程度の技だが、さして鍛えられていない野生ポケモンには手痛い一撃となっただろう。ドンカラスはヘッドライトの光を浴びながら、得意げにくるりと宙返りしてカリンのボールに帰還する。
 その鮮やかな動作は認めたくないがネイティオより早い。
「ね、言ったでしょ。あたくしも中々のものだって」
「さすがですね」
 と、ぎこちなく笑って褒めてみたものの、内心はじわじわと焦りが込み上げている。
 自分よりカリンの方が上回る実力とか、野生ポケモン一つ対処できない自分の不甲斐なさとか。折角カリンをドライブに誘うことが出来たのに、至らない点がもどかしい。それなりに好感度を上げてきたつもりなのに、これではタクシー役で終わってしまいそうだ。
「ねえ、イツキ」
 ふいにカリンが首を傾けた。
 ふんわりと漂う甘い香りに誘われて、イツキの視線がそちらへ動く。待ち構えていたようにカリンが微笑んだ。
「あなたは運転しているのだから、このくらい頼ってくれてもいいじゃない? そういうバランスの方が好きだわ」
 同僚なんだからね、と片目を瞑って念押しされるともはや反論の隙はない。それでも少しは格好つけたかったな、と悔やみつつその好意に甘えることにした。
「じゃ、次もお願いします」
「はあい」
 カリンは朗らかな声で右側の髪をかき上げる。
 甘く心地よい花の香りがした。
 
 空気のほぐれを肌で感じながら車を走らせ、エンジュシティを通過すると、深い夜へと近づく時刻に反して空は徐々に明るさを取り戻していく。星の光は地上へと吸い込まれ、輝きを増して林道の隙間を眩く照らす。大都市コガネシティが近付いているのだ。そこはドライブの終点でもある。イツキはたちまち物寂しさを感じ、引き返したい気分になった。
 このままアサギへ行って海でも眺めますか――なんて、この雰囲気なら提案できそうな気もするが。車をUターンさせる勇気が出ないまま、交差点をいくつも通り過ぎていく。
 そのうちに『コガネシティ』という看板をくぐり、視界が大きく開けて眩い光に包まれ、道路の流れが悪くなった。片側四車線もあるのに、この時間のこの街はまだ混み合っている。とうとうコガネに到着したのだ。
「この街は夜でも黄金色に輝いていますね」
 のろのろとした車の流れに身を任せながら、イツキはコガネのビル群を覗き込む。紺碧の空の前から圧倒するように立ち並ぶ商業ビルやオフィス、マンションがぎらぎらと眩しい。灯りが目立たない昼間の方がまだ大人しい気がする。
 街の名を映す風景を横目に、カリンもサイドウインドウにもたれかかりながら溜め息をついた。
「眩しすぎて時間の感覚が狂っちゃいそうになるわ。だから、仕事終わりはあまり出歩かないようにしているの。いつの間にか朝になるから」
 派手な見た目に反して、彼女は意外に身持ちが堅いようだ。イツキは内心ほっとした。
「誘惑が多い街ですしね。明日の仕事に響いたら大変です」
 するとカリンは噴き出しそうになりながら、こちらに悪戯っぽい視線を向ける。
「そうね。じゃ、今夜もまっすぐ帰ろうかしら」
「えっ、あ……はい」
 せっかくのチャンスを不意にした――それに気付いたのはカリンの緩んだ表情を見てからだ。彼女は挽回を与えてくれず、ナビの地図から自宅を指さす。ドライブのゴールは今走っている通りから脇道に入り、そこから更に奥まった場所だ。そこに近づくにつれコガネの明るさや喧騒が少しばかり遠ざかり、イツキの不安を掻き立てる。思わずカリンにも声を掛けた。
「結構入り組んでますね。一方通行も多いし……」
「そうなの。いつもは手前の通りで降りるんだけどね」と、言って彼女はフロントガラス越しに立派なデザイナーズマンションを覗き込んだ。「ここでいいわよ」
 イツキは慌ててハザードを出し、路肩に車を停車させた。
 サイドブレーキを引いた途端に、ふいに冷静になる。“いつもは手前の通りで降りる”って――? ぱっと顔を上げて隣を見ると、仄明るいエントランスの照明を後ろにカリンが車のドアを開けたところだ。彼女は企むような笑顔を傾けながら、イツキに礼を言う。
「ありがとう。よかったら少し飲んでく? ドライブのお礼をさせてくれないかしら」
 そして念押しする。
「美味しいワインがあるのよ」
 その表情は眩暈を覚えるほど妖艶だ。
 視界がくらりと歪んで理性が崩れる。車で来たのに、酒を勧めるその意図は――何度考え直しても、答えは一つしかない。すぐにでも車から飛び下りたい衝動に駆られたが、先ほど「明日の仕事に響いたら大変」と言った手前、のこのこと従ってだらしない朝を迎えては台無しだ。イツキのリーグトレーナーとしてのプライドが誘惑に歯止めをかける。
「ボク、車なんで……」
 叫びたい気持ちを抑え、本心とは真逆の言葉を絞り出した。
 その反応に、カリンは目を見開いて驚いていたが、すぐに考え直して柔らかく微笑む。
「あら、それは残念ね。じゃあ次の機会に」
 彼女はドアをそっと閉めながら、ぽつりとせがんで片目を瞑った。
「また迎えに来てね」
 振り向きざまに見せた一瞬の無邪気な笑顔は、きっとリーグでは誰も見たことがないだろう。息を呑むほど魅力的で、それを独占できた高揚感と相まってイツキはドアが閉められた後も、ブレーキに足を乗せたまま身動き一つできなかった。
 ようやく言葉が出てきたのは、カリンがマンションのエントランスへ消えた後だ。
「りょ、了解です」
 イツキはぽつりと呟きながら、ぎこちなく車を発進させた。
 車は滑らかに薄闇のコガネの路地へと動き始める。少し先はあのうんざりするほど眩い大通りだ。それでも今は、あの輝きに祝福してもらいたいほど心弾んでいる自分がいる。

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