猛毒ショコラ

 ひと箱六千円もするチョコレートなんて、一体どんな味がするのだろう。
 有名ショコラトリーのウィスキーボンボン八個入りは、ショーケースの中でジムバッジのように圧倒的な輝きを放っている。それをごく当たり前に四箱まとめて購入するカリンの背中も眩しい。コトネは思わず目を細めた。
「はい、義理チョコの確保完了。毎年面倒だわー」
 カリンはワタルと四天王の男性三人分のチョコをまとめた紙袋を肘に引っかけ、後ろで待つコトネを振り返る。大きなサングラスで目元を隠し、艶やかな髪をアップにしたカリンは、賑やかなタマムシデパートの催事場の中でも一線を画す美貌と存在感を放っていた。義理チョコの調達とはいえ、そんな彼女に並んで買い物できるのは誇らしい。コトネはカリンの前に代金の半分を差し出した。
「カリンさん。これ、お金です」
「ありがと」
 カリンはそこから千円札を二枚だけ抜いて財布に戻すと、目を丸くするコトネを覗き込みながら片目を瞑ってみせた。
「残りは彼の分にあててね」
 サングラスの奥の瞳はコトネの心中を見通している。
 バレンタインまであと一週間、日頃世話になっているセキエイリーグの四天王には高級義理チョコでもいいけれど、やっぱりあの人には特別な贈り物をしたい。コトネは頬を染めながら、伏し目がちに囁いた。
「あの、チョコは手作りしようと思っているんです」
「料理できるの?」
「あんまり……でも、何事も挑戦です」
 バレンタイン催事場の奥にある、製菓用品ブースに積み上げられたラッピンググッズは女の子の夢の塊だ。初めて作るチョコ菓子も、あの可愛らしい箱に入れるとブランドチョコにも引けを取らないような気がする。きっとワタルさんも喜んでくれるはず――そんなコトネの独りよがりをカリンが無情に打ち砕いた。
「自信がないならやめておきなさいな。素人の手作りお菓子って味も並以下だし、衛生面にも不安があるから、あたくし達は家族以外が作るそういう物をなるべく口にしちゃいけない決まりなの。顔には出さないだろうけど、彼も困ると思うわ」
 悪意はないが、その助言は初めて好きな人にお菓子を作りたいと思っていたコトネに痛烈な一撃を与えた。言われてみれば確かにそうだ。普段の食事に神経質なほど気を払っているワタルが素人の手作り菓子を食べるはずがない。きっと、それが自分でも。
 がくりと肩を落とすコトネを見て、カリンはこれは悪いことをしたかもしれないと苦笑する。
「と、言っても無理よねえ、あなたくらいの年ごろだと」

 その時、二人の後ろから若い女性の声がした。
「もしかして、カリンさんですか?」
 振り向いた先にいたのは四天王のキョウの娘であるアンズだ。こざっぱりした私服姿で、手にはラッピング用品が詰まった買い物かごを下げている。彼女はカリンと一緒に振り向いたコトネを見て、嬉しそうに声を弾ませた。
「それにコトネも! バレンタインのチョコを買いに来たの?」
 アンズと会うのはつい先日、リーグのエントランスで連絡先を交換して以来だ。親しみやすい性格で、同じクロバット使いだから通話アプリでトークをすると時間を忘れて盛り上がる。コトネはアンズに遠慮のない笑顔を向けた。
「そうなんです、カリンさんに誘われて。アンズさんもですか」
 ちらちらと視界に入る買い物かごの中身がコトネの未練を揺さぶった。彼女はチョコを手作りするつもりなのだろう。大量のハート柄のラッピング袋にオーガニックのココアパウダーや小麦粉など、なかなか気合が入っている。それを羨ましげに眺めるコトネに、カリンが提案した。
「そうだ、アンズちゃんに教えて貰えればいいじゃない。彼女、いつもお父様に差し入れのお弁当を作っているから料理の腕は確かなの。よくお裾分けしてもらって、皆で食べる時もあるのよ」
 皆――カリンがひときわ語気を強めたその言葉には、当然ワタルも含まれている。背中を押すような彼女の表情を受け、コトネはすかさずアンズの前に出て頭を下げた。 
「お願いします、アンズさん! どうか私にお菓子作りを教えてください!」
 それでアンズもコトネが誰かにチョコを贈りたがっていることを察したらしい。彼女は白い歯を見せながら、にんまりと微笑んだ。
「構わないよ。何ならうちで一緒に作る?」

+++

 バレンタイン前日に招かれたセキチクシティにあるアンズの自宅は、良く手入れされた古風な屋敷だった。不自然なほど静かで生活感もない妙な建物ではあったが、通された台所には現代的な家電が並ぶごく一般的な光景が広がっていたので、コトネはそこでようやく緊張を解いた。
「こんなに気を遣わなくてもいいのに。ありがとね」
 アンズはコトネが持参した手土産のカステラ饅頭が入った箱を冷蔵庫の脇へ置き、換わりにピンクのハート柄エプロンを差し出した。調理台の上には計量済みの材料や調理器具が並んでいる。
「それで明日のバレンタインなんだけど、今年も町の人やジムの子、カントーリーダーやリーグの皆さんに配る予定だから沢山作る必要があるんだ。今回はハート型の薬膳クッキーにしようと思って。プレーンとココアのツートンにして、ピンクバッジ風。どう?」
 材料表やイメージ図を見せる彼女は料理講師さながらだ。だがクッキーのチョイスは、チョコレートしか頭になかったコトネにとって想定外である。
「クッキーですか」
「バレンタインはチョコだけあげる決まりじゃないでしょ。チョコレートって皆贈るから被りやすいし。差別化しないと受け取って貰えないかもよー、コトネの本命に」
 核心を突かれ、視界が揺れた。同僚の義理チョコすら六千円もする強敵である。スタンダートなプレゼントでは他に太刀打ちできないだろう。コトネの顔が引きつった。
「やっぱりそう思います?」
「絶対そう。ねえ、本命ってどんな人?」
 アンズが興味津々にこちらの顔を覗き込む。リーグに通い詰めているので四天王にはとっくに気付かれているが、その娘である彼女はまだ知らないようだ。どんな人かと聞かれれば、好きな所ばかり浮かんでくる。
「優しくて、ポケモンが強くて、包容力があるんです」
 名前を伏せながら好きな長所を並べていくと、次第に身体が熱を帯びていく。うぶな姿にアンズが歓声を上げた。
「いいねー! 顔は? きっと男前なんだろうね」
 そう、赤毛を後ろに撫でつけた、あの精悍な顔つきも好き。自然と言葉が続く。
「勿論! とってもスマートで、大人の男性って感じで……実際、年も結構離れているんですけど、」
 しかるべき時まで待ちます――その覚悟を遮って、アンズが鬼気迫る顔で詰め寄った。
「いくら友達でも、父上を狙うのは絶対ダメだからね!」
「何故そうなるんだ!」
 コトネを代弁するようにアンズを一喝したのは、気配もなく背後に立っていたこの屋敷の家主だ。ゲンガーを引き連れた四天王のキョウはファザコンの娘にうんざりしながら息を吐く。まさか在宅していたとは思わず、コトネは慌てて頭を下げた。
「お、お邪魔してます!」
 キョウは素っ気なく会釈すると、右手に持っていた木の器をアンズの前に突き出した。
「ほら」
「ありがとうございます! 今、お茶とコトネにもらったお菓子を用意しまーす」
 アンズはそれを調理台の脇に置くと、お湯を入れた急須と手土産のカステラ饅頭を盆の上に乗せる。その間に、コトネはこっそりと器の中を見た。クコや松の実など、薬膳と思われる材料が混ざり合っている。
「父上は漢方の調薬が出来るんだけど、今回はその材料をクッキーに入れるんだ。そうするとポケモンも食べられるからさ。チョコだとアレルギーが出ちゃう子がいるけど、この材料で作るクッキーなら問題ないからね。そしたらトレーナーとポケモンで一緒に食べて貰えるじゃない。去年作ったら評判良くって」
 それを聞いてピンときた。チョウジのロケット団アジトでワタルに分けて貰ったあの薬は、彼が調合した薬ではないだろうか。
「薬、私も分けていただいたことがあります。苦くないし、とっても効くから助けられました」
「それは何より」
 キョウはさらりと受け流し、茶菓子を乗せた盆を持って台所を去ろうとする。そうして出過ぎない配慮をしているつもりだろうに、アンズは目を輝かせながら父親を引き留めた。
「父上、聞いてくださいよ。コトネってば本命の人に手作りのお菓子をプレゼントするために、わざわざうちに習いに来たんですよ! 一途で可愛いでしょ」
「ちょっと、アンズさん!」
 隠すつもりはないが、キョウは相手を知っている。それが妙に気恥ずかしくなって、コトネは耳の先まで真っ赤になった。年がそう変わらない女の子なら思いの丈を一方的に話すことができるけれど、彼女より、ワタルより、さらにずっと年上の大人の男性は未知の境地だ。こんな恋心は呆れられたり、笑われてしまうかもしれない。

 だが、彼の反応は予想と違っていた。
「それなら娘の義理向けと同じ味でいいのか?」
 アンズもワタルに義理チョコを渡すのに? と、言いたげな眼差しがコトネの胸をちくりと刺した。それはまるで彼が得意とする毒のように心にしみて、揺さぶりをかける。
「それは……」
 よくないです、けど。
「デコレーションを変えればいいだけなので」
 あなたの娘さんがいる手前、それはできません。と、苦しげな作り笑いを浮かべても、我儘は隠せない。本当はアンズの義理チョコ以上に喜んでもらいたいのだ。
 コトネが誰に菓子をあげたいのか分からないアンズはきょとんと目を丸くする。
「生地を分けるだけで味は変わるけど……気になるなら材料を追加するよ。何がいいかな」
 彼女は調理台の傍にあるレシピ棚へ歩み、雑然と収納されていた料理本を次々取り出してコトネに見せていく。勝手口から庭へ出られるからか、園芸に関する本も混じっていた。そこで目に留まったのは「季節の植物と花言葉」という本だ。
 ナッツひとつとっても、花言葉が存在する。まだ言葉に出せない想いをクッキーに込めることくらい、許されるはずだ。コトネはその本を手に取った。
「花言葉にまつわる材料なんてどうですか」
「わーっ、ロマンチック! いいね、それ。それでいこう」
 アンズは表情をきらきらと輝かせ、手にしていた書籍をまとめて棚の中に突っ込むと、盆を持ったまま自室へ下がろうとするキョウを引き留める。
「父上、今から材料を選ぶのでそこでちょっと待っててください」
 材料を選んだら、親を使いっ走りにするつもりらしい。四天王にそんなことをしていいのかと、コトネはヒヤリとしたが、それはこの家では日常茶飯事のようだ。キョウは呆れながらも台所の小上がりに座って渡されたお茶をいれ、半分に割ったクリーム入りのカステラ饅頭をゲンガーと分けあっている。
 それに安心し、ようやく花言葉の本に目を移した。
 伝えたいことは決まっている。
 後ろの索引から、目的のカテゴリへ。相応しい花はすぐに見つかった。
「ヒマワリでいいですか」
 まだ何年も待つのだから、伝えたいメッセージはこれしかない。ヒマワリが花を咲かせる若い時期の間は、あなたに相応しい女の子になるべく、その背中を見つめ続けるしかない。
「ひゃーっ、いじらしいんだから! 父上、コトネってば……」
 アンズは本を胸に抱きながら父親を振り返ると、彼は聞かないように「これ、持ってこい」と話を遮りながらゲンガーにメモを手渡していた。ポケモンは廊下の闇に溶けていき、三分と待たず戻ってきてコトネの傍へ顔を近づける。直接渡された器の中には皮を剥いたヒマワリの種と粉末が混ざっていた。種と、それを挽いた粉だろうか。
「ありがとうございます」
 ふんわりと甘く心地よい香りに緊張がほぐれる。これを入れるとクッキーが格段に美味しくなり、ワタルにも喜んでもらえるような気がした。
 ヒマワリに込めた想いが心の奥に根付いて、数年後に花開いてくれますように。気を揉みながら結果を待ちわびる少女は、無意識のうちに毒にも似たおまじないをクッキーにかけた。

+++
 
 赤いリボンを掛けた小さな箱をワタルが受け取ったのは、翌日の休憩時間だった。
 バレンタインの昼間はまだ肌寒く、一目のつかないリーグ裏の小さな公園のベンチに座っていると息が白くなる。それでもバレンタインのプレゼントを渡したいと連絡したら二人きりで会ってくれたことが嬉しくて、寒さはあまり気にならない。
 クッキーは中身が一目で分かる透明な箱に入れた。初めての手作りなんだから驚かせちゃいなよ、と言うアンズの勧めからである。予想通り、隣に座る彼は箱を見て仰天していた。
「これ、コトネちゃんが作ったの?」
「そうなんです! 昨日、アンズさんのお家で作りました。ポケモンと一緒に食べられるんですよ」
 待ち構えていたように説明すると、ワタルの目が更に大きくなった。
「えっ、アンズちゃんの家って……」
「大きなお屋敷ですよね」
 同僚なら訪問したことがあるのかも、という前提で言ってみたのだが、それは違うらしくワタルは苦笑する。
「いや、まだ伺ったことがなくて。一人で行くなんてすごいね」
 複雑な引きつり顔には、クッキーを作る可愛い女の子の姿を同僚とその家族だけが見ているなんて面白くない、そんな嫉妬めいたものも滲んでいたのだが、コトネは気付かなかった。ワタルは気持ちを入れ替え、リボンを解いて箱を開ける。
「美味しそうなクッキーだな。良い香り」
 桃色にアイシングされたハート形のクッキーから、やましさをほどく甘い香りが立ち上る。それに魅了されたのはワタルだけではない。ベルトに装着していたボールが揺れて、中にいたカイリューが物欲しそうにこちらを見ていた。
「君も食べるかい」
 ワタルは一旦箱を置き、その場にカイリューを繰り出した。軽く羽ばたくだけで冷たい風が肌を刺す。動かないでいるとそのまま凍りついてしまいそうだったので、コトネは箱からクッキーを一枚取ってカイリューの前に差し出した。
「はい、あーん」
 カイリューは掌ごとかじってしまうような大きな口でクッキーを丸のみにして、嬉しそうにくるると鳴いた。美味しそうに頬を緩める姿が微笑ましくて、その頭を抱き寄せようと腕を伸ばしかけた時、隣に座るワタルと目が合った。彼はやや不満気だ。唇をつんと尖らせる姿がどこか子供っぽくて、意地悪に顔を覗き込んでみる。
「羨ましいと思いました?」
「少しだけ」
 そんなことを言われたら、またクッキーに手が伸びる。察したワタルが狼狽えながらベンチの端へ逃げた。
「いや、いいよ。さすがにこの年でそれは……」
 焚きつけられたら後には引けない。
 最後まで諦めない、それはあなただって同じでしょう――ポケモンバトルさながらの意思を見せつけると、観念したのかワタルも腿を擦りながら、こちらににじり寄ってくる。赤い唇がクッキーに近づくと、それを持つ指先にまでキスをしてくれそうな気がした。あるいは、それ以上接近してくれたって構わない。そんな妄想はクッキーと同じように真ん中からぱきりと折れて、桃色のハートが半分だけ、彼の唇の中へ消えていく。
「うん、美味しい」
 ワタルの表情がぱっと弾ける。
「本当に手作り? すごく美味しいよ!」
 口づけはもらえなかったけれど、心から驚く姿が素直に嬉しい。
「やった! 正真正銘の手作りですよ」
「実は先にアンズちゃんから義理クッキーを貰って食べていたんだ。あれもよかったけど、これも香ばしくていいね」
 味を変えてよかった、と安堵できる笑顔だったから、うっかり混ぜた材料を口にした。
「ヒマワリの種を入れたんですよ」
 花言葉を知っていたら、きっと顔つきが一変するだろう。
「へえ。こんなに変わるんだ」
 でも、あなたの表情は感心のまま。
 少しだけ、ほっとした。
「コトネちゃんも食べたら?」
 ワタルが微笑みを傾ける。
 右手にはハートのかけらが半分、残されていた。そっと口へ運ぶと、舌の先にほんのりした温もりが伝わり、柔らかな甘さが喉の奥へ溶けていく。自然と頬が緩んだ。
「味見はしたんですけど、やっぱり美味しいです」
 ワタルも頷く。
「おれもこっちの方が好みかな」

+++

 終業前に開け放していたロッカールームの扉を叩く音がする。ワタルが振り返ると、四天王のキョウがドア枠にもたれ掛っていた。
「お疲れさまです」
 背筋を伸ばしながら傍へ歩み、軽く頭を下げると、額の先に茶色の紙袋を突きつけられた。 
「頼まれていた薬」
「ありがとうございます。助かっています」
 月に一度、こうして彼が調合した薬を分けて貰っている。その腕は確かでドラゴンポケモンにも効果的だ。コトネちゃんも気に入っていたはずだから、少し分けてあげよう――そう思いながら受け取った袋は普段より重みがあった。
「いつもより多いですね」
 するとキョウがからかうように口元を緩ませた。
「一人分では足りないと思って」
 どうやらコトネちゃんは薬を分けたことを彼に言ったらしい。自分が居ないところで交流が進むとやきもきする。シバほど気軽な仲ではないから余計にだ。適度にぼかしを入れながら、引きつり笑顔で会話を続ける。
「昨日はご自宅でクッキーを作っていたらしいですね。美味しかったですよ」
「君も加わりたいのなら、いつでも娘に言ってくれ」
 お見通しとばかりにキョウが眉を動かした。そこまで分かっているのなら誤魔化しているのも面倒だ。湧いた疑問を尋ねてみる。
「何故、ヒマワリの種をクッキーに入れたんですか? アーモンドやクルミでもよかったはずじゃ……」
「さあ」
 キョウは含みを持った冷たい溜め息をつきながら踵を返す。
 無知を嘲笑うような態度が気になって、少し遅れて後を追ったが、既に短い廊下の角を曲がったところだった。わだかまりが毒のように胸を刺激して、じわじわと焦燥を掻き立てる。
 秘密の共有はやめてくれ。あと何年も待たなければならないのに、取り繕っている自制心が崩れてしまいそうだ。
 ワタルは悔しげに部屋に戻ると、いつまでも晴れない気分を引きずったまま帰り支度に戻ることにした。

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