LOVE is SOUP

 紺碧の空から雪の花びらが舞い落ち、ウインディの毛並みに触れてふわりと消えた。
 日が落ちた真冬のセキエイリーグは、肌着の上にカイロをいくつも貼ってニットを重ね着し、その上からダッフルコートを纏っても尚、芯から冷える寒さだ。この時期は挑戦者の数がぐっと減ると聞いたことがある。
「クリスマスにリーグで忘年会かあ……」
 コトネは白い息を吐きながら、すっかり常連となったポケモンリーグの建物を仰いだ。宵闇の時間帯にも関わらず建物の灯りは玄関のみだ。入口にはシャッターが下り、だんまりを決め込んで営業の終了を呈している。今回ここにやって来た目的は試合ではないのでそれは問題なかった。だがあまりにも人気がないので、コトネは携帯を取り出して通話アプリのカリンとのトーク画面を確認する。
 ――十二月二十五日、金曜日。ポケモンリーグ所属のトレーナーでクリスマス忘年会をやるから遊びに来てね。キッズは参加費無料。十八時にリーグ前で待っていてね。手ぶらでOKよ!
 携帯に表示された時刻は十二月二十五日、十七時五十分。まだ十分前だから、誰も来ていないのだろうか。コトネは不安を覚えて傍にいたウインディに話しかける。
「忘年会って何をするんだろうね。お酒を飲んでご馳走を食べて騒ぐのかな? ケーキは持ってきたんだ」
 さすがに手ぶらは気が引けたので、事前にワカバタウンにある少し特殊な洋菓子店でピースケーキを何点か選んできたのだ。そこのケーキなら、きっと彼も気に入ってくれるだろう。
 本当は、今年のクリスマス・イブはワタルと過ごしたかったのだけど。残念ながら向こうの仕事で流れた。そして今日も、地元の集まりと忘年会を優先されて二人きりで過ごせずじまい。
 でも、いいんだ。四天王さんが居ても同じ空間にいられるのなら。コトネはウインディにもたれ掛り、彼の到着を待ちわびながらもう一度空を仰いだ。雪が舞う、澄んだ高原の夜空にリザードンが見えたのはそれから五分後である。
 火の粉を撒き散らしながら、セキエイリーグのアプローチにひらりと炎の竜が舞い下りる。その背に跨るのは、黒いライダースジャケットに細身のジーンズ姿のワタルだ。普段とは異なるシンプルな服装は新鮮で、コトネの胸が高鳴る。
「こんばんは」
 彼はリザードンから下りると、ポケモンに持たせた小さなクーラーボックスを受け取ってコトネに笑顔を向ける。ケーブルニットの赤いネックウォーマーに白い息が張り付いた。
「やあ、コトネちゃん。今夜も冷えそうだね。リーグで忘年会なんて初めてだよ」
「あれっ、てっきり毎年ここで開催しているものかと」
 目を丸くするコトネを前に、ワタルが苦笑する。
「こんな寒い場所、仕事以外ではあまり来たくないよ。内輪の忘年会はいつもタマムシやヤマブキで開催しているんだ。それなのにカリンときたら、今年は急にリーグでやるだの言い出して……週末だからってクリスマスはないよな」
 本当は君と一緒に過ごしたいのに。
 と、二人の思惑が一致して、そこから何となく十分ほど黙り込んでいた。待ち合わせの時刻はとうに過ぎてしまったが、二人の間に割って入る四天王は誰もいない。コトネは首を傾げた。
「誰も来ませんね」
「おかしいな。皆、遅刻するような人じゃないんだが……カリンに電話してみようか」
 ワタルは携帯を取り出し、電話帳から忘年会の幹事を選択する。

「ごめんなさーい、連絡ミスだったわ。本当はタマムシのすき焼き屋なのー。今から来てもいいけど、到着する頃にはお開きになっているかもねー。二次会はないわよ。本当にごめんなさいね。埋め合わせは後日するわ」
 高級すき焼き店の個室の座敷席から電話に出たカリンは、わざとらしく捲し立てて一方的に通話を断ち切った。そちらの個室には四天王が全員席につき、カリンの露骨な手段に呆れている。ワタルとコトネの仲をよく思わないイツキは目くじらを立てた。
「カリンさん、あの二人をセキエイに置いてきたの!? 確信犯でしょ、それ」
「いいえ、あたくしのミスよ。最初に企画していた鍋パーティのプランを間違えてチャンピオンとコトネに送信しちゃったのよねえ。次は気を付けなくちゃ」
 カリンは悪びれずに携帯の電源を落とすと、温かなおしぼりで両手を拭う。
「そもそもワタルが頭数に入っているのに、すき焼き屋を選んだ時点でおかしいと思っていたんだ」
「疎ましい訳じゃないけど、やっぱりチャンピオンがいると食べ物に気を遣っちゃうのよね。すき焼きなんて久しぶりだわ」
 並んで座るシバとカリンはまるで気に留めずに食事を待ち、それ苛立ったイツキが負けじと喚き散らす。
「もー、おかしいと思ってたら注意してくださいよ! これなら鍋パの方がよかった」
 最近はこのような押し問答が繰り返されているが、初めて目にする給仕には一般人とは一線を画す彼らの佇まいも相まって、宴の始まりから険悪になっているように見えたらしい。上座にいるにも関わらず、すっかり呆れて話に入らないキョウへ困ったように視線を送る。料理はコースですが、最初のお飲み物はどうしましょう――彼はそちらへ視線だけやりながら、うんざりしたようにいつもの注文を告げる。
「飲み物はビール二本とウーロン茶をジョッキで……」
 隣に座っていたイツキが急に立ち上がって声を張った。
「二人とも、危険意識が低すぎます! 二人っきりにしたら何をするか分からないじゃないですか! チャンピオンがコトネちゃんに不貞行為を――」
 給仕を困惑させる発言を阻むように、キョウが鋭く尋ねる。
「イツキ、飲み物」
 そこでイツキは我に返った。
「梅酒をロックでお願いします!」
 注文を確認した給仕が去り、彼は行儀よく座布団の上に正座した。そこで改めてカリンが彼を窘める。
「間違いは起こさないわよ。仕事もあったけど、イブも誘わなかった真面目男なのよ。今夜くらい、何だって言うの」
「おれもそう思う。賭けてもいいぞ」
 同意するシバの言葉に、イツキは闘争心を掻き立てられた。
「分かりました、そこまで言うなら賭けましょう!」
 イツキは運ばれてきた瓶ビールの栓を手早く抜くと、キョウとカリンに注ぎ、彼らを煽るように見回した。
「色々ウルサイ世の中ですから、金銭は遠慮して朝のコーヒーなんてどうですか」
 誰もが勝負の世界に生きる、指折りの負けず嫌いである。それがたとえ、どんなにくだらないことでもだ。シバは目の色を変えていつもジョッキで飲んでいるウーロン茶を振りかざした。
「望むところだ」

+++

「カリンの奴、よくも……」
 余計なお世話だ、とワタルは心中で吐き捨てる。傍で待っていたコトネが素直に首を傾げた。
「来られないんですか?」
「おれが邪魔みたいだ」
 きっと自分の居ないところですき焼きを囲みながら、言いたい放題なのだろう。
 ワタルは拗ねたように呟くと、通用口に回り込み、持っていた鍵で施錠を解いて中へ入った。暖房が切られているので外と変わらない寒さだったが、二人が連れ歩くウインディとリザードンのお陰でそれも和らぐ。ワタルの後ろを歩きながら、コトネはカリンがわざわざこの場を用意してくれたことを何となく理解した。昨晩通話アプリでカリンに報告した、「クリスマスなのにお誘いすらありませんでした」との一文が頭に浮かぶ。
 まだぎりぎり踏みとどまっている関係とはいえ、お互いの気持ちは知っているのだから、せめてクリスマスくらい一緒に過ごしたい――期待したのに今の今まで動きはなかった。それを思い出すたびに湧き上がるもどかしさを紛らわすように、ポケモン達を見回しながらなんとか場を盛り上げる。
「だけど、二人きりもいいじゃないですか! お腹空きましたね、食事どうしましょう?」
「しゃれたレストランで……と言いたいところだけど、鍋パーティをすると言っていたから、材料は買ってきたんだよ。控え室にシバがよく使うカセットコンロと土鍋があるからそれでいいかな」
 彼は肩に下げていたクーラーボックスを示しながら、ポケモンをボールに戻して控え室の扉を開く。
「楽しそうです! メニューは勿論、水炊きですよね」
 暖房を入れ、クーラーボックスを流し台に置いたワタルがびっくりして振り返る。どうやら中の材料はそれらしい。コトネは得意げに白い歯を見せた。
「だってワタルさん、ポケモンに乗っているし……太らないように食事に気を遣っていますよね?」
 ポケモンを足にするトレーナーは、手持ちに負担をかけぬようレーサー並の食事制限を自らに課しているケースが多い。ワタルの引き締まった細身の身体を見ると一目瞭然だ。
「そのつもりで肉は鳥ムネとササミしか買ってこなかったんだけど……いいの? 冷蔵庫には他の鍋つゆも入っているはずだけど」
「勿論! 水炊きは大好きです。ヘルシーだし」
 にっこり笑うコトネに、ワタルの表情もほぐれる。
「良かった。こういう時っていつも別メニューなんだよ。カリンやイツキくんはもつ鍋が好きなんだけど、脂質が多いからおれは水炊きの材料を買ってくるんだ。鍋は糖質の少ない葉物やキノコばかりだから助かるね。キョウさんが食べるかもしれないからこれで二人分」
 そう言ってクーラーボックスから出てきたのは四分の一カットの白菜、水菜一袋と長ネギ半分、えのきとしめじが一袋と木綿豆腐が二丁。あとは皮と脂身を取り除いた小ぶりの鳥ムネ肉と鮮度のいいササミのみである。たんぱく質を多く摂りたいのか、材料がやや偏っている上に締めの炭水化物もない。ぽかんとするコトネにワタルが苦笑する。
「あの人お酒飲むしさ、お互いにあまり食べないんだよ。コトネちゃんには物足りないかもな」
「いや、十分ですよ。私、野菜切りますね」
 どうしてこんなに遠慮するのだろう。コトネは首を傾げたが、それよりも積極的に動いてワタルにアピールすることが大事だと思っていたのであまり気に留めなかった。流し台の下から包丁とプラスチック製のまな板を出してもらい、並んだ材料の前に腕まくりする。
「鍋って楽でいいですよね。野菜切って入れるだけだし」
 それでも野菜の飾り切りなどができれば一目置かれるのだろう。だが旅に夢中で料理に縁がなかったコトネにはとても無理な話で、根元を切ればいいだけの野菜を前に内心ほっとしていた。指先をぴんと伸ばして水菜を押さえつけ、端から適当に三等分すると、鍋に水を入れに来たワタルが危なっかしい手つきを後ろから不安げに覗き込む。
「見ててヒヤヒヤする」
「大丈夫です!」
 大きさを気にせずに、ざくざく切ってまとめてボウルに放り込む。次は肉だ。それもぶつ切りにしようとするコトネにすかさずワタルが指示を出した。
「肉は斜めに薄くそぎ切りね」
「そぎぎり……」
 ムネ肉を前に目が点になる。
 削ぐ、と聞いて木材を削るイメージが湧いたので、何となしに肉を立ててみた。刃を入れる前にワタルが制する。
「肉を寝かせて、“いあいぎり”みたいに切るんだよ」
 何千回と見慣れた、木材を鋭く斜め切りするオーダイルの動作が頭に浮かぶ。なるほど、とコトネは声を弾ませ肉を軽く押さえながら斜めに包丁を入れた。心地よい切れ味が刃先から伝わり、肉が花弁のように薄く削ぎ落とされる。思いのほか上手くいったので、思わずワタルを振り返った。彼はすぐ傍にいてくれて、感心したように笑っていた。
「そうそう。そうやって切ると胸肉を煮てもパサつかないんだ」
「ワタルさん、詳しい」
 コトネは素直に敬意を抱く。それに触発されたワタルが得意げに顎を撫でた。
「こういう食生活だとそれなりに料理も覚えるよ」
「私より上手いかもしれない」
「それは確信してる」
 いよいよ自信たっぷりに断言されると、こちらの負けず嫌いにも火が点いた。
「バトルも料理も負けませんからね」
「こっちだって」
 ワタルが鍋でダシを取りながら、白い歯を見せる。
「コトネちゃんに僅差で負けてから、また手持ちを育て直しているからね。次は必ず勝てる自信がある」
「私だって。カントー地方のジムを巡って修行してますよ。今度こそ圧勝です!」
「へえ。今、バッジいくつ獲得しているの?」
「カントーでは三個目で……タマムシジムでは苦戦しました」
「ああ、ウインディが加入しているのはそれが理由?」
「そうなんですよー。ここ二週間、特訓のためにスリバチ山の中を駆けずり回っていました。走り込みが効果的で……」
 そこから話はみるみる脱線してトレーニング談義になり、調理に対する不安などすっかり忘れてしまった。きっかけが芽生えると、互いの会話が蔦のように絡み合って伸びていき、時間がいくらあっても足りることはない。料理についてまた思い返したのは、コトネが沸いた鍋へ我先にと肉を投入しようとした時だ。
「肉はしゃぶしゃぶみたいに、軽く火を通す方が美味しいよ」
 と、ワタルに窘められたので野菜や豆腐を先に入れた。コトコトと音を立てて煮立つ澄んだだし汁の香りが室内にほんのりと充満し、心が先に温まる。コトネはそわそわと浮足立ちながら、春の沢辺のように鮮やかな鍋をじっと覗き込んだ。待ちわびる様子に湯気の向こう側で見ていたワタルが微笑む。
「もう大丈夫だよ」
「やったー! いただきまーす!」
 黄金色のだしをたっぷり含んだ白菜ときのこを掬ってポン酢の入った取り鉢に落とし、さっと湯がいた鳥ムネのスライスと一緒に頬張った。材料から染みだす旨みがさっぱりしたポン酢と合わさって喉がじんわりと熱を帯びる。とろけるような美味さにコトネは声を弾ませた。
「うん、美味しい。お肉すっごくジューシーですね!」
「さすが“いあいぎり”の達人」
 ワタルもつられて頬を緩める。湯気越しに見るお互いの笑顔は一層幸福に満ちていたが、よく見るとワタルの取り鉢はだし汁のままだ。おいしい、と口を揃えた味は少しだけずれている。
「ポン酢を付けないんですか」
「栄養的に、そのまま。サラダとかもそうだよ」
 たれやドレッシングは塩分や糖質が高く、ポン酢すらも敬遠しているようだ。それでも美味しそうに水炊きを口にするワタルと見ると、食生活を気に掛けない自分が恥ずかしくなった。このままでは年を重ねるごとに差が開いて、あなたに追いつけなくなるかもしれない。ただでさえ、年齢差の壁が大きいのに。
「ポケモンに乗るために体重を維持するのは大変なんですね。私もワタルさんを見習ってスタイル維持しなきゃ」
 するとワタルはさらりと彼女に言い聞かせた。
「いや、まだ早いよ。騎手を目指すならまだしも、伸び盛りに食事制限をするのはね。ちなみにシバなんかはおれとは逆で、筋量を増やすために炭水化物を多く摂ったり、アルコールや糖分を絶っているんだ。他の四天王は自身の体幹トレーニングにおれ達ほどのこだわりはない。でも皆同じくらいバトルの腕は高い。おれやシバに触発されて、焦ることはないと思うんだよ。じっくり将来を考えて」
 その笑顔の裏には言葉以上の努力があるはずなのに、苦を見せる様子はない。いつも朗らかに構えていられる。そのわけを知りたかった。
「じゃあ、ワタルさんはどうしてそこまで頑張れるんですか?」
 すると彼は箸を置いて、きっぱりと断言した。
「ドラゴン使いは多くの竜を乗りこなせるほど優秀だと言われているから」
 これ以上ない理由だ。
 フスベシティという竜の聖地の、その本家筋に生まれた者の宿命だろう。その中でも唯一長老に認められたワタルは、他のドラゴン使いから一線を画している。
「ワタルさんほどストイックな身体つきの人を見かけないのは、そういうことですか」
「普通のことをしていたら一番にはなれないからね」
 誰よりもしなやかでどんなドラゴンをも乗りこなせる身体は、その信念から作られるのだろう。ワタルはごく当たり前のように実践しているが、並大抵の努力では到達できない境地だ。恋心さえも忘れて、コトネは背筋が自然と伸びる。
「そういうの、心から尊敬します。本当に」
 でも、称賛するだけでは終わりたくない。
「やっぱり、私も一緒に並んで飛びたいです」
 いつか、あなたと同じ目線で空を飛んでみたいと思う。同じ頂を志す者として、コトネも内助の功のパートナーだけを夢見るつもりはなかった。そこが気に入っているワタルが嬉しそうに口元をほころばせた。
「大変だよ、トレーニング。十五歳くらいからが勝負かな。それまでは好きな物を好きなだけ食べればいいよ」
 それならまだ二年ほどは安泰である。コトネは元気よく頷き、ポン酢にたっぷり浸した豆腐を頬張った。あまりにも美味そうに食べるので、ワタルが口にしていた淡白な水炊きも今夜はやけに胃に沁みる。そんな調子で順調に箸は進んでいたが、元々二人分用意した材料は食べ盛りを想定していなかったので、じっくり噛んで完食してもやや物足りない。
 そこでコトネは鍋を片付けた後、意を決してワタルに切り出してみた。 
「デザートに、クリスマスケーキをバラで買ってきたんですよ! 皆さんが食べると思って……」
 ワタルはすぐに「おれはいらない」という返事を用意していたが――それは想定済みだ。小さな冷蔵庫に詰めていたケーキ屋の箱を取出し、ツリーの飾りが刺さった白いカップデザートを掲げてみせる。
「ワカバタウンのマクロビ専門ケーキ店で買った、豆乳カッテージチーズのムースです! ワタルさんにはこれを」
 健康志向のパティシエが田舎町で最近開いた店は、このように限定的な需要がある。ワタルは目を輝かせ、差し出されたムースに見入った。
「へえ、こういうの初めて見た。そうか、マクロビか。ありがとう、コトネちゃん!」
「私はいちごのタルト。これすっごく美味しいんですよ!」
 コトネが選んだのはリースを模した一人分の丸いいちごタルトである。マクロビの限界に挑戦したその洋菓子は見た目こそ一般的なタルトと遜色ないのが、砂糖や卵は使われておらず、中には豆乳クリームが詰まっているらしい。自分に食事を合わせてくれているのに、艶やかないちごをうっとりと眺めるコトネにワタルは思わず心中を口にする。
「ごめん。実はイブくらいは食事に誘いたかったんだが、こんな調子だから一緒に食事しても楽しくないだろうと思っていたんだよ……」
 苦い経験がいくつも積み重なった表情に、コトネはそれまでワタルが遠慮がちだった訳を知る。温まっていた胃のあたりが、ぎゅっと強い熱を帯びた。退屈だなんて、少しも思いませんでした――そう告げようと口を開いた時、ワタルが先回りして微笑んだ。
「でも、それは違うな」
 純粋な笑顔を見ると締め付けられていた胸中が解放されて、コトネの頬もほころぶ。この楽しい時間を共有することができて、本当によかった。
「とっても楽しいですよね。また一緒にご飯食べましょう」
「そうだね。じゃあ少し遅くなったけど、お茶で乾杯しようか」
 ワタルが紅茶を淹れた紙コップをコトネに渡し、はにかみながら掲げてみせる。
「メリークリスマス!」
 重なる湯気が天井へ伸びてふわりと消えた。

+++

 翌朝のセキエイリーグ控え室は、早くから集まった四天王が始業までの間を過ごしていた。ぴかぴかに磨かれた長テーブルを挟んで二人ずつが並んで座り、いかめしい顔つきで次に入室する者を待つ。本番前さながらの緊張感は、別の対決に備えたものだったのだが。
「あの二人なら何かあれば一目で分かるわ。特にコトネはね。今朝、あの子をトレーニングに誘ってあるから」
 結果の手引きをしたカリンが得意げに髪をかき上げる。
 昨夜のクリスマス、この部屋で二人きりだったワタルとコトネに何が起きたのか――人一倍の負けず嫌いが四人も揃うと、下世話な予想も真剣勝負である。
「さすがカリンさん、抜かりないですね」
 イツキがテーブルの上で両手を組みながら感心していると、ドアノブが回る音がして出入り口の扉が動く。四天王の注目が一斉にそちらへ走った。
「おはよう」
 ぴりぴりと張りつめた室内の緊迫を破って、ワタルが愛想よく顔を出す。彼はごく普段通りに部屋へ踏み入ると、こちらを凝視する同僚らに目を見張りつつ、思い出したように言伝を知らせた。
「あ、冷蔵庫にコトネちゃんから差し入れのケーキ入ってるから食べてくれ。マクロビだからシバも食べられるぞ」
「後で貰おう」
 シバは狼狽えながらも、何とか平時を装って頭を上下させた。ワタルのごく普段通りの振る舞いに拍子抜けした四天王は顔を見合わせる。
「すき焼きのこと、根に持ってないみたい」
「清々しい顔つきだな」
 カリンとシバの表情が徐々に和らぎ始めた時、またドアが開いてコトネが声を弾ませながら部屋へ飛び込んできた。
「おはようございます! 皆さん、早いですね!」
 彼女は控え室にリーグトレーナー全員が揃っていることに面食らいつつ、固まったままの四天王の顔を見て何とか次の言葉を続ける。
「あの、冷蔵庫にマクロビケーキが入っていますので、皆さんで食べてください! 美味しいですよ」
「それ、さっき皆に言ったよ。今日は何の用?」
 緊張を解くようにワタルが微笑みかけながら、気軽に話しかけてくれた。昨晩の延長のように会話が弾む。
「カリンさんとトレーニングなんです!」
「そうなんだ。頑張ってね」
 同じ部屋にいるにもかかわらず、もはや四天王は蚊帳の外だ。
 彼らが過ちを犯していればこれほどの笑顔で盛り上がることはないだろう――と昨夜、すき焼き屋で議論したばかり。イツキはテーブルに顔を伏せながら、悔しそうに唇を震わせた。
「後腐れない、いつもの調子……これってまさか……」
「おれ達の勝ちだな」
 かたやシバは勝ち誇ったように顎を上向ける。彼とカリンは、ワタルを信じる結果に賭けていたのだった。テーブルを挟んで勝敗は分かれ、敗北に唇を引き結ぶキョウの顔をカリンが覗き込んだ。
「やるじゃない。ね、アンズちゃんのダーリンが年上でも、こんな彼ならありでしょう?」
「それは別として、少し見直した」
 二人の関係に良い顔をしなかった彼も、何とか踏みとどまっているワタルに舌を巻く。そんな姿はイツキの不満を更にくすぶらせた。
「キョウさんも負けたんですからね、今からボクと人数分のコーヒーを買いに行きますよ!」
 悔しさを転嫁するように椅子を蹴って立ち上がり、キョウを急かしながら出入り口へと向かう。既に年の差恋愛に対するモラル問題は霞み、勝敗に対する熱意だけが残っていた。
 部屋を出て行こうとする二人を不思議に思ったワタルに、カリンがわざとらしく口添えする。
「イツキとキョウさんが朝のコーヒーを驕ってくださるんですって。カフェの一番高いブレンド、ホットでお願いね」
 その中にはコトネも含まれている。すぐにワタルは彼女に尋ねた。
「コトネちゃん、コーヒー苦手だよね。紅茶にする?」
 砂糖とミルクをたっぷり入れて、無理やり流し込もうと考えていたコトネは目を丸くする。
「あ、じゃあそれで……」
 とっくに見破られていた背伸びが恥ずかしくて、その気遣いが嬉しくて、自然と頬は赤く染まっていく。ワタルにだけ聞こえるように「助かります」と礼を言った。ワタルはそれに笑顔で応じながら、注文を訂正する。
「コーヒー一つ、ホットの紅茶に変更で。砂糖もよろしく」
 そこまで見せつけられると四天王は何も反論できず、一層深まった敗北感を背負いながらカフェへ買い出しに行くのだった。

【BACK】

inserted by FC2 system