魅惑の妖精

「前から気になっていたんですけど、うちのチャンピオンとコトネちゃんってデキてるんですかね?」
 ポケモンリーグの控室でイツキがそう切り出した。
 この日は珍しく四天王だけが部屋にいたので、かねてからの疑問を投げてみたのだ。リーグの休憩時間で、緩んでいた室内がその一言でぴんと張りつめる。不穏な空気を肌で感じたイツキは、自ら話題に踏み込むスリルに口元を緩ませた。
「たまにカフェで仲良さそうにしているところを見かけるんですけど、いかにも恋人って感じで……そこの所どうなんですか、カリンさん。あの子とよく連絡を取り合っているんですよね?」
 すると長テーブルの下でブラッキーの手入れをしていたカリンは大げさに肩をすくめる。
「進展は知らないわ」
 しらばっくれているのは一目瞭然で、また室内の空気が悪くなった。
 菓子や軽食が置かれた長テーブルを挟んで座っているシバは腕を組んで黙り込み、その隣で読書をするキョウは同じページを眺めている。やはり全員、勘付いているのだろう。だが、彼らはカリンを詰問することはないし、彼女もそれに易々と応じるはずがない。イツキは仕方なく、軽い調子で探りを入れる。
「あの子っていくつでしたっけ? 一回りくらい離れてますよね。チャンピオンはあれだけモテるのに、そうきたかって思いましたよ。やっぱり、ドラゴンは妖精に弱いから?」
 妖精――ニンフェット。性的魅力のある、コトネほどの年齢の少女をそう称することがある。イツキの悪い冗談に、膝の上でブラッキーを撫でていたカリンが鼻で笑う。
「コトネの前に跪いてペディキュアを塗ってあげているのかしら。面白い冗談ね。想像するだけで笑っちゃう」
「そんな男には思えんのだが」
 シバは冗談を真に受けず、正面から否定した。
 彼はこの中で最もワタルとの付き合いが長く、その人となりを熟知している。だからワタルがコトネのどの辺りに惹かれたのか、理解しているようだ。
「たまたま少女だっただけだ」
 そう断言するも、隣に座るキョウは違っていた。 
「本命ならば子供でも許されると言いたいのか」
 彼はようやく次の頁をめくりながら、横目でシバを睨む。その理由は明白だ。
「キョウさんにはコトネちゃんと同じくらいの娘さんがいるから、やっぱり心配ですよね。分かりますよ!」
 イツキが何度も頷く。父親の視点で考えればたとえ相手が誠実なチャンピオンであっても、年端のいかぬ娘との交際は受け入れがたいことだろう。シバも納得し、黙り込む。それを見たカリンが呆れるように息を吐いた。
「あたくしは一線を越えなければ構わないと思いますけど。きっとワタルなら大丈夫よ。分かりやすい過ちは犯さないわ」

 +++

 今日はいつもより視線が三センチ高い。
 チャンピオンロードからポケモンリーグまでのアプローチを背筋を伸ばして歩くと、石畳を叩くヒールから心地よい靴音がした。ガラス張りのエントランスに自分の姿が映りこむ。寒くなる時期だから、ウール地のチェック柄キャスケットに白いブラウス、ベージュのショートパンツに黒ニーハイソックス姿。足元にはぴかぴかの黒いパンプス。初めて履いたヒールは三センチで、幼さが抜けてぐっと大人っぽくなった気がする。コトネはガラスを覗き込みながら、頬を緩めた。これでもう何度目だろう。
 今日の服装、可愛いね。
 全ては彼にそう言ってもらうためだ。最近アドレスを交換して交流を重ねているが、ワタルに褒められるのはトレーナーの腕と手持ちばかり。たまには服装についても言及されたい。だから昨日、コガネ百貨店へ行き、思い切って秋物のコーディネート一式を買い込んだのだ。それも贔屓にしているフロアより一つ下の、大人向けレディースファッションの階層で。後ろに付き添うデンリュウが呆れた顔をする。そんな格好でポケモンバトルをするの? と、言いたげだ。
「今日は差し入れだけだよ。まだカリンさんみたいにヒールを履き慣れていないし」
 コトネは右手に持っていたどら焼き入りの紙袋をデンリュウの前で揺り動かし、左足の爪先で石畳を叩いてみる。鋭い痛みがかかとに走った。
「やっぱり痛いな……」
 自宅から痛みを誤魔化しながら移動してきたが、やはり靴擦れしているようだ。よく吟味せずに見た目だけで選んだ、お洒落の代償は大きい。
「でもこれくらい我慢しないとね」
 と、唇を引き結んで歩き出す。
 ところが一歩進むたびにかかとは痺れ、毒を受けたポケモンのように左足に痛みが重なっていく。それでも何とかポケモンリーグ関係者の通路までやって来た。控え室は目と鼻の先、急ごうとすると先にそちらのドアが開いてカリンが廊下に顔を出す。
「あら、噂をすれば……」
 目を見張るカリンの後ろから、他の四天王がぞろぞろと姿を現した。四人揃っているのは珍しい。コトネは唇の端を噛んで靴擦れの痛みを堪えながら、精一杯の笑顔で彼らに挨拶する。
「こんにちはー、四天王の皆さん! お疲れ様です! 本日は差し入れとして、コガネ百貨店のデパ地下で買ってきたどら焼きをお持ちしました! よかったらお召し上がりください」
 自信たっぷりに老舗銘菓の紙袋を掲げてみせるが、カリン以外は複雑な面持ちで歓迎の色はない。特にイツキはその顔を仮面で覆っていても、不信感が滲んでいる。コトネは予想外の反応に狼狽え、どら焼きの袋をすぐに下げた。
「もしかして甘いものお嫌いでした?」
「いや」
 シバが直ちに否定する。
「我々の休憩はもう終わりだからな。中に置いてくれ。後で貰おう」
 それでコトネはようやく胸を撫で下ろした。
「はい、分かりました」
 視界から速やかに消えるべく、控え室へ潜り込もうとした背中をカリンが撫でる。心地よい刺激が伝わって、「ひゃっ」と小さな悲鳴が出た。何事かと振り向くと、カリンがショートパンツのスカラップ裾を引っ張りながらコトネに迫る。
「服、すごく可愛いわね。彼も喜ぶんじゃない」
 信じられないほど艶っぽく、良い香りが漂う笑顔はこれ以上ない後押しだ。コトネは頬を真っ赤に染めて手放しで喜ぶ。
「ありがとうございます。カリンさんに褒められると嬉しいです」
「奥のキャビネットの上に救急箱があるから使っていいわよ」
 不意の耳打ち。カリンの視線が左足へ滑る。
「足、引きずってる」
「あ、ありがとうございます……」
 必死の背伸びを見透かされると恥ずかしくなって、顔は益々赤くなった。
「ちゃんと結果がついてきているんだから、無理しなくてもいいのに。ゆっくりしていってね」
 カリンは期待を持たせるように微笑んで、少女を控え室の中へ押し込むように導いた。ドアを閉めた後、彼女は達成感に満たされながら身体を伸ばす。
「可愛い。ああいう子って応援したくなっちゃうわー」
 コトネを強引に控え室へ入れた理由を察したイツキが青ざめる。
「いやいや、これからチャンピオンの休憩ですよ!? デートに送り出すつもりですか」
「そんな余裕はないだろう。休憩三十分でどこへ行く?」
 シバが否定し、カリンが頷く。
「その通りよ。さて、あたくし達は仕事に戻りましょ」
 どうやら彼らは二人の行く末をあまり危険視していないようだ。年が一回り離れている上に、コトネはまだ未成年。手を出していいはずがない、と思っていたイツキの常識が揺らぐ。お互い好きならそれでいいのだろうか?――傍にいたキョウが長い溜め息をついて持ち場へ戻ろうとしたので、彼だけでもと慌てて引き止めた。
「カリンさん、面白がってるだけじゃないですか? ボクとしてはゲンガーを控え室に忍ばせておいた方が良いと思うんですよね。チャンピオンが過ちを犯して、セキエイリーグの品位に傷が付くのは御免です」
 キョウが所有するゲンガーは影に紛れることができ、護衛としては最適である。ワタルがコトネに近づくことに関してはイツキ同様に眉を顰めていたキョウだが、その目付け役のために自身の手持ちを犠牲にするなら話は別だ。
「これから仕事に出る手持ちを警護にあたらせろと? 君の言い分は最もだが、他人にそこまで目を掛けてやる義理はない」
 実子ならばいざ知らず、これから試合に出す予定のポケモンを余所の色恋沙汰に巻き込むなどプロトレーナーのすることではない。だがイツキも引かなかった。
「大丈夫ですよ。挑戦者をボクより後ろへ行かせることはしませんから」
 日頃から目標はチャンピオンだと公言する、若きリードオフマンは意気揚々と胸を張る。その自信を裏付ける実力は確かで、そう宣言すれば終業まで仕事は来ないだろう。内心イツキを高く評価しているキョウはうんざりしつつも懐からモンスターボールを取出し、その場にゲンガーを召喚した。困惑気味のゲンガーにイツキが使命を言い渡す。
「チャンピオンがコトネちゃんにキスでもしようものなら、どくどくからのベノムショックを頼んだよ!」
 それだけ告げて、イツキは持ち場へと駆けていく。
 ゲンガーはひとまず頷いてみたものの、指示通りに動いては確実にトレーナーの命はないだろう。困り果てて主に視線をやると、彼も同じように呆れ返りつつ「さいみんじゅつ」と下唇を示しながら一言訂正し、仕事場へと向かって行った。

 ゲンガーが潜む部屋は気温が五度下がると言われるが、控室に入ったばかりのコトネはそれに気付かなかった。
「この部屋寒いなー。セキエイ高原だからかな」
 この一帯は麓と比べて随分と冷える。殺風景な控室は僅かな休憩時間を過ごすためにしか使われていないらしく、二十畳ほどの室内に長テーブルとオフィスチェア、壁際に三人掛けのソファが置かれ、奥に流し台とキャビネット、カフェセットが収納された棚が並んでいるのみ。まるで小さな会社の事務所だ。エアコンも取り付けられていたが、来客の立場故、勝手に操作するのは躊躇われる。綺麗に掃除されていたから、その場にポケモンを繰り出すことも出来なかった。
「救急箱を借りたらすぐ帰ろう。ワタルさんも来ないようだし」
 茶菓子が並べられている長テーブルに差し入れが入った紙袋を置き、奥のキャビネットへ身体を向けた。高さは二メートル以上あり、コトネの身長では背伸びしてぎりぎり指先が届く程度だが、左足の激痛がそれを邪魔する。
 オフィスチェアを踏み台にしようかと後ろを振り向いた時、出入り口のドアが開いて待ち望んでいた人が姿を現した。リーグ戦で着用する黒いマントと勝負服姿のワタルは控室の先客に目を疑う。
「コトネちゃん?」
「わ、ワタルさん」
 突然の幸運を受け止めきれずに立ち尽くしていたコトネは、カリンがこの部屋に入れてくれた理由にようやく気が付いた。今日はワタルが四天王と入れ替えで休憩に入るから、二人きりにしてくれるために控室に押し込まれたのだ。その気遣いに胸が熱くなり、部屋の寒さも気にならなくなる。
「救急箱? 取ってあげようか」
 コトネがキャビネットの前に立っている訳をすぐに察したワタルはそちらへ歩み、少し腕を伸ばして救急箱を手に取った。その長身を羨むことはない。同じくらい背が高ければ、きっとここまで接近することはなかったはずだ。この未熟な身長にコトネはこっそり感謝した。
「怪我したの?」
 ワタルが不安げにこちらの顔を覗き込む。心配してくれる姿にばつが悪くなって、視線を逸らすように顔を伏せた。
「そ、そうなんです。差し入れを持ってきたんですけど、靴擦れしちゃって……」
 そもそもの原因を作ったのは下心がある自分なのに。幸運ではなく、作為的に事を進めている気さえする。それでもワタルは少しも疑問に思うことなく、救急箱の上に絆創膏と軟膏を乗せて渡してくれた。
「大丈夫? 塗り薬もあるよ」
「助かります、ありがとうございます」
 さっと手を伸ばしたら指先に触れてしまったので、半ば強引に救急箱を受け取って、壁際に置かれたソファへ飛び乗る。三人がけの革張りソファが勢いよく跳ねた。初めてチョウジで会ってから二人きりになる機会は数多くあったし、それを作ろうと何度もリーグに通っていたが、やはり何度経験しても慣れることがない。いつでも笑顔で優しく接してくれる彼に気怖じして、そこから先へ踏み込めないのだ。
 コトネは軟膏の使用方法を確認するふりをしながら、ワタルの様子を盗み見る。彼は長テーブルに置かれた紙袋の中を覗き込み、感心したようにこちらへ微笑みかけた。
「差し入れってこれか。良いチョイスだね。ありがとう」
 大好きな笑顔を見ると、寒さも忘れ頬が火照る。
「ほんとですか」
「うん、どら焼きって甘すぎないし腹持ちがいいからね。適度な糖分は脳にも良い影響がある。ポケモントレーナーって結構動くし頭も使うから、仕事前や休憩に和菓子をよく食べるんだよ。早速いただこうかな」
 ジョウトリーグのトレーナーは男性ばかりだし、和菓子の方が好まれるはず――と考え、コガネ百貨店のデパ地下で一時間かけて吟味した甲斐があった。コトネ自身もバトル前にはクッキーやチョコレートなどのお菓子を食べているが、これからはあのどら焼きにしよう、と心に誓う。
「何か飲む?」
 ワタルが流し台横の棚に置かれたカフェセットから紙コップを取りながら尋ねる。棚の上にはエスプレッソマシンと電気ケトルが並んでおり、下の段に紙コップやティーバックが入った籠が収納されていた。一番下には小型の冷蔵庫がすっぽりと収まっている。
「と、言ってもコーヒーとティーバックの紅茶、あとはお茶くらいで……冷蔵庫には何が入っていたかな」
 ワタルがマントを外しながら腰を屈めて冷蔵庫へ手を伸ばそうとする。さすがにそれ以上探してもらうのは気が引けるので、急いで口を挟んだ。
「ありがとうございます、それじゃ紅茶で……」
「砂糖は?」
「お、お願いします」
 背伸びしてストレートで飲む余裕もない。
 彼が居ないところ――例えばお洒落やメールアプリ上の会話などは思い通りに頑張れるのに、ワタルを目の前にすると真価を発揮できないのがもどかしい。むしろこれが本当の自分なのかもしれない。飲み物を準備してくれるワタルの後姿をいつまでも眺めていそうだったので、コトネは靴擦れの処置に急いだ。ソファの上で左足を曲げ、ニーハイソックスをそろそろと下ろしていく。ウールの生地は蜂蜜色の瑞々しい肌に引っ掛かることなく、軽やかに腿を滑り下りていく。その大胆な行動が飲み物を淹れ終えたワタルを驚かせているなど、コトネは知る由もなく。
「四天王にも会った?」
「ええ、ついさっき。でも入れ替わりになっちゃいました」
 コトネは靴擦れの傷に軟膏を塗り、絆創膏を貼りながらその問いに答える。彼女にとっては何でもない日常的な質問のつもりだったのだが、ワタルは違っていた。
「それは良かった」
 そう言って、ソファに近いオフィスチェアへ腰を下ろす。
 期待せずにはいられない台詞だ。ごく当たり前に考えれば、彼も二人きりになりたかったのだろう、と同じ思惑にたどり着く。自分の下心が無くてもきっとそう。コトネは緊張に震える指先でソックスを引き上げ、もう一度ワタルを向いた。その表情は、コトネの期待通り――いや、それ以上。
「おれ以外の前でやっちゃだめだよ」
 呆れたように息を吐く眼差しはコトネの足から動けずにいた。まるで妖精のような、柔らかで美しいカーブを描く両脚に一体どれほどの価値があるのか、少女はまだピンとこない。それでも不穏な視線を肌で感じ取ることはできたので、逃げるように話題を逸らした。
「そ、そうですね……こ、こんなはしたない姿、これ以上誰かに見られるのは……」
 きっと行儀の悪さに呆れているだけでありますように、と戸惑う自分がいた。
「そっち?」
 ワタルは失笑し、コーヒーを一口含む。
「ま、そうだね」
 紙コップをテーブルに置く、軽い音がコトネの胸に重たく響いた。
 今日は彼の雰囲気がいつもと違う。期待通りの流れが続いて、感覚が麻痺しているのだろうか。この片想いを受け止めてくれているかのような応答に困惑する。そうであってほしいと願い続けたはずなのに、急に状況が好転するとどうすればいいのか分からない。だから、本音が知りたい。回りくどい言い方では不安になる。
「そっちじゃない方って?」
 膝を抱えて素直に尋ねると、ワタルは困ったように苦笑いした。
「わざとかと思った」
 そんなつもりは、なかったんです。
 否定を遮って彼は言葉を続ける。
「その可愛い服装とか、最近やけにアプローチしてくれるところも含めてね」
 それは――正解だ。
 気付いてくれていた。それだけで嬉しいはずなのに、少しも安心できず、膝を抱く指先が太ももに触れるたび肌がひりひりと刺激を感じる。
「多分、それで合ってます」
 ソックスを履いた指先を見つめながら、それだけ答えた。ワタルは何も言わなくなり、ここからどうすればいいのか分からない。こういう時、男性が何か言ってくれるはずではないの? あなたは何を思っているの? 汗ばむ爪先から焦燥が込み上げて来て、コトネはたまらずに顔を上げた。
「あの……!」
 目の前にほんのりと湯気が立つ紙コップが差し出される。
「はい」
 ダージリンの良い香りと、余裕に満ちた微笑み。
「ど、どうも……」
 押し付けられたコップを受け取って、ぬるい紅茶を含んだ。それで気持ちが落ち着くはずがない。砂糖を入れた紅茶はやや濁って底が見えず、舌先に苦味が広がるばかり。
 コトネが紅茶を半分飲むと、それを待っていたようにワタルが彼女の傍へ腰を下ろした。ソファが静かに軋み、紅茶の香りが嗅げる距離になる。彼は不安がるコトネを真っ直ぐに見据えたまま、口を開いた。
「コトネちゃんはとても素敵な女の子だと思っているよ」
 期待で胸がじわりと熱くなる。
「でも、もう少し、待ってくれないかな」
 途端に喉がきゅっと締めつけられた。きっと、自分は泣きそうな顔をしていたのだろう。彼が困ったように眉をひそめていたから、きっとそうだ。少しは報われたはずなのにちっとも喜べないのは、年の差を考慮せずにアプローチをかけてきたせいだと今更気付く。彼は成人、自分は子供。常識的に考えれば法律すら恋仲を許さない。
「セレビィの力でも借りたいところだけど、現実はそうもいかないから」
「そうですね」
 コトネはまた俯いて、残りの紅茶を片付けようとする。飲み干そうとすると、顔を上げなければならないのは億劫だ。視界には必ずワタルが映り込む。こちらを微笑ましげに眺める、その余裕がちょっとだけ悔しい。それでも勢いつけて紅茶を煽ると、傍で見ていたワタルが噴き出した。
「振られたと思ってる? おれは何年でも待つつもりだよ」
 その一言で、また身体の奥が熱を帯びた。上げたり落としたり。そんな駆け引きに対応できるほど成熟していないから、言葉通りに受け止めていると全身が火照って眩暈がする。ワタルの瞳に映る、頬を真っ赤に染めて今にも泣きそうな自分は目を背けたいほどひどかった。ここへ来る間に何度も鏡で確かめた可愛い顔をして、笑顔で「私も待ちます」と言わなくちゃ――気持ちをリセットすべく、一旦伏せようとした視線が止まった。
 止められた、が正しい。
 細長い指が肌に触れて、大きな掌が右の頬を覆う。コトネのおぼつかないアプローチをいつも通り受け入れてくれる、優しい吐息は少し冷たく、それが一層心を震わせる。エスパー技の念力のように心地よく、このまま身を委ねて眠ってしまいそう――ゆっくり目を閉じたところで、求めていた感触は額に落ちた。
 夢から覚める瞬間。びっくりして目を見開くと、息のかかる距離でワタルが悠々と笑っていた。
「だから、今はここまで」
 ああ。本当に、すぐに壁は越えられないんだ。
 ここで唇にキスをしたら、もうどうなっても構わない、と思うに違いない。目覚めの悪い朝のような気分を噛み砕いて、コトネは残りの紅茶を飲み干した。濃い出しした紅茶は飲み始めこそ苦かったが、次第に底に残った砂糖で打ち消されていく。それでやようやく表情が緩んだ。
「続き、待ってますね」
 何故かぎこちなくはにかむ彼に胸が高鳴る。頬を少し赤らめて、困ったように視線を逸らす姿を見ると、その胸に飛び込んで自分を見てもらいたくなった。でも、それは反則だ。
 
 それから取り留めのない会話をして、コトネが控え室を出たのは五分後である。浮ついた室内は、彼女が居なくなればしんと静まり返り、それでいてやけに冷たく、第三者の視線を感じる。ワタルはオフィスチェアに腰を下ろし、残ったコーヒーを口にしながら部屋に潜む刺客に告げた。
「いい加減出てこないか? 部屋が寒い」
 ソファの脚を睨むと、影が伸びてそこからゲンガーが半分顔を出す。やはり。ワタルは呆れたように息を吐いた。部屋に入ってすぐ、コトネが居たことにも驚いたがやけに冷える室内にも疑問を感じていたのだ。ゲンガーが潜んでいる部屋は気温が五度低くなる。そして口づけ間際のあの違和感。実のところ、額に唇を当てるつもりはなかったのだが。
「唇にキスをしたら眠らせろって命じられたんだろ」
 ゲンガーは素知らぬ顔をして、影の中へ耳まで浸かる。
「危うく醜態を晒すところだったよ。寸前で殴られるより格好悪い」
 キスをした直後に熟睡してしまうなんて、無様な上に彼女を愚弄することになる。手厳しいお節介にやや苛立ちつつも、その一方で安堵感もあった。
「まあ、でも助かったよ」
 あのまま口づけしていたら、きっと理性が抑えられなくなっていた。幼いながらポケモントレーナーとしての確たる信念を持ち、そして清らかで美しい姿は妖精の戦士のようだ。瑞々しく眩い身体に触れたいのに今は叶わない。それなのに傍に寄られると理性が引き裂かれて精神的な余裕が無くなり、笑っているだけで精一杯ということに、彼女はいつか気付いてくれるのだろうか。

+++

 終業後、一番乗りで控室に駆けこんで来たのはイツキだった。部屋へ飛び込んだ瞬間、その寒さに身を震わせたがテーブルの下からゲンガーが顔を出すとそれも元通りになる。
「ゲンガー、どうだった!?」
 鼻息荒く詰め寄るイツキに対し、ゲンガーは視線を逸らしながらもじもじと曖昧な態度を取る。まだ主が来ていないから、報告を迷っているらしい。後からやってきたカリンが開け放された出入り口の前ですっかり呆れていた。
「あなた、ゲンガーで闇討ちを企んでいたの? 呆れた、あたくし達はプロなのよ。それに値する手持ちで人を攻撃するなんて下手をすれば命が――」
「生きてます」
 きっぱりと否定し、ワタルが顔を出す。突然渦中の人物が現れた混乱でイツキは硬直していたが、その表情にははっきりと軽蔑が浮かんでいた。それは次にやってきたキョウも同様である。彼はゲンガーの表情で結果を悟ったようだから、尚更こちらを蔑んでいる。その心境はよく理解できる。しかし、それでも。
「何か聞きたそうだね。答えようか」
 ワタルは意を決すると、イツキの前に立って毅然と言い放った。
「コトネちゃんが未成年の内は手を出すつもりはない」
 コトネとの現状と行く末を現したその言葉は、自らを戒める宣言でもあった。ところが真摯にそう告げても、やはり彼らはまだ納得していない。その不信感を取り払ったのは、付き合いの長い友の一言だった。
「それで構わないじゃないか。身を弁えているな、安心した」
 最後にやってきたシバが迷いなく肯定しながら彼らの間に割り込み、コトネが置いて行ったどら焼きを仲間に配分していく。十個入りを一人二個ずつ配り、彼は最後にゲンガーのおやであるキョウに自身の分も含め四個押し付けた。
「まあ、一度くらいは大目に見てやってくれ」
 上乗せした二個には、ワタルを信頼するシバの名誉もかかっている。キョウは沈黙したまま、この得意げな態度を取る大男をしばらく見上げていたが――やがてゲンガーにどら焼きを与え、ボールに戻した。この場はそれで納得したらしい。シバは潰した箱をゴミ箱に投げ入れながら同僚達にきっぱり言い渡した。
「この話はこれで終わり。さあ、帰るぞ!」
 ワタルは良き理解者の存在に心から感謝しながら労いを掛ける。
「ありがとう。お疲れさま」

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