縦長の月

「そのミニリュウ、フスベの長老から貰ったの?」
 テーブルの向かいでカリンが目を見張る。カップを口に運ぼうとしていた手が止まった。
「そうなんです。私のことをトレーナーとして認めてくださったみたいで。この子を譲っていただきました」
 コトネは膝に抱えていたミニリュウを撫でながら誇らしげに微笑んだ。
 二人がティータイムを楽しむ、ポケモンリーグ内に設置された関係者向けカフェテラスは陽光が差し込むガラス張りで、ホテルのように上品だったが、ミニリュウはそこにすんなりと馴染む存在感を放っている。まだ幼いのに、周囲への興味を自制して主の膝から離れないポケモンは珍しい。このドラゴンはコトネがライジングバッジを取得した際、フスベの長老から譲り受けたもので、殿堂入り後、ようやく育成に着手したばかりだ。
「ふうん、なかなか賢そうね」
 カリンが感心しながら紅茶を口にする。
 丸いテーブルには一人掛けのソファが四つ向かい合って並んでおり、そこへ彼女が長い足を組んで座ると緩やかな身体の曲線が四天王の美貌を際立たせる。うっとりするほど綺麗で、そしてポケモンバトルの腕も申し分ない。初めてカリンに会った時、コトネは天は二物を与えず、という言葉は迷信だと確信した。人を寄せ付けないクールな印象を与えがちだが、時折こうして話し相手になってくれるなど、とても親切な人物である。
「ジム戦後はバタバタしていたから、バトルデビューはまだまだ先なんですけど」
 コトネも目の前に置かれた紅茶を口にした。
 ダージリンの上品な香りを堪能するとカリンと同じ気分に浸れたが、彼女を真似てミルクも砂糖も入れなかったので味気なさは否めない。
 ようやく殿堂入りを果たしたのに、ストレートの紅茶も飲めないなんて。
 あの伝説のトレーナー、レッドやグリーンと並び十代前半の若さで殿堂入りした、天才トレーナー――しばらくの間、メディアにはそうやって持て囃されてたが、チャンピオンに勝てたのは僅かな差だった。ここしばらくはトレーナーの腕も停滞気味だ。だからこそ、このミニリュウが更なる高みへと進めるきっかけになると信じている。ミニリュウの育成を始めた目的はそれだけではない。
「ワタルは知ってるの?」
 心を見透かしたようにカリンが尋ねる。
 これまで誰にも胸中を口にしたことがなかったのに、彼女にはいとも容易く見破られた。コトネが伏し目がちに頭を横に振ると、カリンが呆れながら苦笑する。
「せっかくお揃いなのに、残念ね。もしかしたら血を分けた兄弟かもしれないわよ」
 ワタルさんと、同じ血筋のポケモン――コトネは目を輝かせながら顔を上げた。カリンが噴き出す。
「本当、分かりやすい子。ポケモンバトルでもそんな態度だと助かるわ」
 煽るような流し目にドキリとしたが、彼女はすぐに目を丸く見開いて「なんてね」と悪戯っぽく微笑んだ。色気と可憐さが行き来するカリンの態度に同性ながら胸が高鳴る。
「今は遠巻きに見てるだけ?」
 カリンが艶のある長い髪を揺らしながら首を傾ける。心の隙間に入りこむような視線を受けると、抱えていた想いが外へかき出され、何でも話したくなった。
「接点ないですし。多分、カリンさんの方がよくお話ししてます」
「それでいいんだ」
 目を見張るカリンが前のめりに尋ねる。
 そう言われるともっと先へ進みたくなる。けれども不安でいっぱいだ。
「こんな服装からして子供っぽい自分が、ワタルさんに並べるとはとても思えません。もっとカリンさんみたいな大人っぽい女性にならなくちゃ……」
 ポケモンバトルとトレーナー修行の旅に明け暮れている自分はカリンのようにヒールすら履きこなせず、大きなリボン付きのキャスケットとデニムサロペットがいかにも子供っぽい。最近まで自分なりに可愛らしいコーディネートだと思っていたのに、カリンを見るとそれが揺らぐ。大人のワタルと釣り合うのは白いクロップドパンツをクールに履きこなす、彼女のような女性ではないのだろうか。足を組んだ際に引き上げられた裾から露出する、引き締まったふくらはぎからヒールの爪先へと流れる肌色のカーブはいつまでも眺めていたくなる、憧れの美しさだ。
「あら、服装なんて気にしているの?」
 カリンは呆れたように背を伸ばした。その時、視界に何かを見付け、彼女はそちらへ顔を向ける。コトネもつられた視線の先に、コーヒーの蓋付き紙コップを持ったワタルがいた。どうやら飲み物をテイクアウトするため、このカフェに訪れたらしい。コトネに気付いた彼は、リーグ戦の勝負服に黒いマントを揺らしながら笑顔でこちらへやって来る。チャンピオン戦と同じ格好なのに、舞台裏ではリラックスしているのかとても親しみやすい雰囲気だ。コトネは息を呑んだ。
「やあ、コトネちゃん。遊びに来てたの?」
「こんにちは。カリンさんにトレーニングに付き合ってもらっていました。ここの皆さんは優しくて助かります」
 それでカリンの存在を流していたワタルが急いで彼女に声をかける。
「お疲れ」
「あたくしには適当ね。身内だから仕方ないのかしら」
 彼女はわざとらしくたっぷり溜めた息を吐いた。チャンピオンが思わず視線を逸らしたので、それを再びコトネに向けさせる。
「ねえ、コトネがあなたの地元でミニリュウを譲り受けたんですって」
 ワタルはすぐに反応し、興味に駆られるままコトネの膝に乗っていたミニリュウを覗き込む。予告なしの、あまりに急な接近。コトネは窒息しかけた。端正な横顔と後ろに撫でつけた艶のいい赤毛が息のかかる距離にいる。直視できずに目を逸らすと、テーブルの向かいでカリンが笑いを堪えていた。
「長老に? 凄いことだよ、それは。おれのカイリュー達もそこの出なんだ」
「じゃあ、親戚ってことですか?」
 待ちわびていた接点の到来に息を呑む。膝に乗っていたミニリュウが、ドラゴン使いの懐かしい雰囲気を察してワタルの掌をつんつんと突き始めた。大胆な行動が羨ましい。
「そうなる。ほら、ここの宝玉の色とか……」
「良かったわね、コトネ。近くにいい先輩がいて。専門家だから何でも教えてくれるわよ。ドラゴンポケモンを持つのは初めてなんでしょう」
 ワタルの解説を制し、カリンが流れを引き戻した。それで彼も我に返ったらしい、引き攣り笑いを浮かべながら、四人掛けテーブルの空いた席に腰を下ろす。ちょうどカリンとコトネの間だ。
「そうだったのか。よかったら何でも聞いて」
「すぐには出てこないだろうし、通話アプリのアドレスを交換すれば? メッセージを送り合えるじゃない」
「それならメールの方が……」
 ポケットから携帯を抜いてロックを解除しているワタルにカリンが釘を刺した。
「メールはダメよ。返信が遅いから、読んでいると分かる方がマシ。既読がつくと言い逃れできないもの」
 ぎくり、とワタルの顔が硬直する。そこへカリンが追い打ちを掛ける、悪意に満ちたフォローをした。
「忙しいものね」
「まあ、うん……」
 どうやら彼は筆不精らしい。
 視線を逸らし、長い人差し指でせっせとメールアプリを起動する姿はバトル中の雄姿とはかけ離れていて親近感を覚える。コトネの頬が緩んだ。
「マメそうなのに。意外です」
「こういう仕事は余計な連絡が多いから……でも、フスベのドラゴンの育成なら話は別だ」
 つられてワタルも苦笑い。
 すると二人の会話を眺めながら携帯を触っていたカリンが何かの連絡を受け、紅茶を飲み干して腰を浮かせる。
「あら、イツキから呼び出しだわ。あたくしはこれで。またね、コトネ」
「はい、ありがとうございます」
 これで二人きりになれる――心から感謝するコトネに、カリンはそっと片目を瞑ってエールを送る。彼女がカフェのカウンターにティーセットを戻し、出入り口へと向かって行ったところでアドレス交換の準備ができたワタルがコトネを向いた。
「ID、教えて」
 四人がけの丸テーブルから一人去れば互いの距離はぐっと近くなる。三時過ぎのカフェテラスは人もまばらで殆ど二人とミニリュウだけの空間だ。コトネは視界を携帯へと移し、やや震える声でIDを読み上げた。それを一文字ずつ入力しながら、ワタルが尋ねる。
「四天王とも連絡先を交換しているのかい?」
「カリンさんだけですね。皆さんこのアプリを入れているんですか?」
 心なしか、ディスプレイに視線を落とす彼の表情がほぐれたような。
「男性はおれとイツキくんだけかな。シバとキョウさんは電話……と言っても、お互い連絡をする機会なんて滅多にないよ。ほぼ毎日顔を合わせるからかな、何かあれば直接話せばいいし」
 それはコトネのイメージ通りだ。セキエイリーグの男性四天王はカリンと違って向こうから話しかけてくることはなく、近寄りがたいのでそもそも連絡先を交換するという発想がなかった。
「よし、登録完了」
 ワタルが顔を浮かせ、アドレス登録を終えたディスプレイをまじまじと眺める。
「プロフィール写真いいね。殿堂入りメンバーかな」
 アイコンにしているプロフィール画像は殿堂入りした手持ちとインカメラで撮影した、いわゆる自撮り写真である。拡大しなければ個々の判別が付けにくい情報の多い画像だが、小さくとも信頼感はよく伝わってくる。それをワタルに褒められると満面の笑顔がこぼれた。
「そうなんです、皆大切な友達なので」
 納得したように微笑む、ワタルの反応が嬉しい。そんな彼はどんなアイコンなのだろう。ちらりと画面を覗くと、友達リストの中にぽつんと一つ、人型シルエットのアイコンが浮かんでいた。隣に表示された名前は横にいる男と同じである。少し、落胆した。
「ワタルさんは何も登録してないんですね。ちょっと寂しくないですか」
「いや……自分の写真を使うのは気恥ずかしいし、ポケモンも選べなかったから……だけどコトネちゃんと同じ、手持ちの集合写真にしようかな。そういう発想はなかったよ」
 ワタルは狼狽し、慌てて立ち上げたカメラロール画面を上下に引っ掻いている。何でも完璧な人だと思っていたのに、こんな無頓着さを見ると、身体の奥がくすぐったい。
「それ、いいと思います。是非!」
 笑顔で背中を押すと、ふいに彼が携帯を持ってコトネの顔を覗き込んだ。
「どれがいい?」
 頬の熱を感じるほんの僅かな距離。艶っぽい視線がこちらへ滑り込む。心までぐっと傍へ引き寄せられた。
「これとか、素敵ですよ」
 提示された写真をじっくり選んでいる余裕はない。目についたものを指さすだけで精一杯だ。人差し指を向けた途端、ワタルはぱっと離れて、プロフィールを更新する。
 眩暈がするような不意打ちだ。意図していなくても、これはずるい――コトネは悟られないよう、ミニリュウをあやすふりをしてこっそりと呼吸を整える。頬はまだ、ひりひりと熱を感じていた。

 それと同時刻、廊下で画面を眺めていたカリンのアドレスリストにも更新がかけられた。彼女は思わず感心の声を上げる。
「あら、チャンピオンのプロフィール写真が差し替えられてる。やるわね、あの子」
 その経緯を想像するのは容易だ。結果に満足していると、控え室から休憩を終えたイツキがやってくる。
「カリンさん、お疲れ様です。さっきメッセージくれたボクへの用事って何ですか?」
「別にー。解決したから気にしないで」
 彼女は涼しい表情でイツキの脇をすり抜け、持ち場へと戻って行った。一人その場に取り残された仮面の少年はその姿を見送りつつ、不思議そうに首を傾げる。

+++

 『お疲れ様です。夜分に失礼します。ミニリュウのことで早速相談なのですが、ワタルさんおすすめのフードなどあれば教えてください』
 コトネはそこまで入力して、すぐに文字を残さず削除した。
「ちょっと硬すぎるかな。質問も本やネットで調べろって感じだよねえ……」
 悩んでいるとディスプレイの灯りが落ちて、周囲が闇に包まれる。コトネは先ほどから、宿泊しているトキワシティの宿の一室でそんなことを延々繰り返していた。枕元にいたミニリュウは身体を丸めて寝息を立てている。初めて育成するドラゴンとはいえ、バッジ八個以上を獲得し、殿堂入りも果たした経験は疑問を生んでくれない。その上このドラゴンは真面目で聞き分けがよく、苦労も少なかった。
 せっかく画面の先で繋がることができたのだから、そこから先へ踏み出したい――枕に顔をうずめながら何とか質問を絞り出す。餌、技、訓練などの疑問が浮かんでは自己解決して消えていった。つまるところ、聞きたいのはポケモンのことではないのだ。
『私のこと、どう思いますか?』
 入力して、すぐ消した。
 それをいきなり尋ねるのは、最初のジムを飛び越えてポケモンリーグに挑戦することと同じくらい無謀だ。これから何十もの質問を重ねて距離を詰めていかなければならないのに、取っ掛かりは掴めないまま。何かいい質問を思いつけばいいのだけど。ふいにミニリュウへ視線を向けると、丸くなったポケモンからピーピーとアラームのような音がしていた。寝息だろうか。それにしても機械的で変な感じ――これだ。コトネはすぐにディスプレイに視線を戻した。
『こんばんは。ミニリュウが寝ているときにピーピー鳴いているんですが、これなんですか?』
 句点と感嘆符を絵文字に置き換え、メッセージを送信する。無人のトーク画面に渾身の質問が乗り上げた。やりきった興奮を抑えつつ、自惚れるように何度もメッセージを読み返す。あとは返信が来るのを待つばかり。
 早く返事が来ないかな――ベッドに落ちた縦長の月が眠れぬコトネの白い頬と、暗闇の室内をぼんやりと照らし続ける。触れなければ月はものの五分程度で隠れてしまうから、時折人差し指で画面をなぞってそれを防いだ。
 そんな調子で五分刻みにもう六回は画面を叩いているのに、既読のサインすら表示される気配はない。だからきっと、まだ携帯に触れてすらいないのだろう。時刻は夜の十時を過ぎている。チャンピオンって、遅くまで仕事しているんだな――画面一つ隔てた先に彼がいて、人差し指を少し動かすだけで魔法みたいに呼び出すことができると思っていたのに、まだその距離は程遠い。
 コトネは枕に顔をうずめ、携帯をその向こう側へ置いた。メッセージの送信から一時間が経過している。もう寝てしまおうと思い、尚も激しい鼓動を無視して布団を被った。明日目が覚めたら、枕元にメッセージが届いていますように、とクリスマスの夜みたいな期待を込めてぎゅっと瞼を閉じる。
 ところが幕の奥に薄らと浮かぶ光を感じ、すぐに顔を上げて携帯に手を伸ばした。ロック画面に表示されたメッセージ通知。「きたっ」高ぶるままに歓声を発し、ロックを解除してメッセージ本文を確認する。
『お疲れ。それは寝息だよ。問題なし』
 テキストだけが並ぶシンプルな文面からは素っ気なさは感じられず、画面の先で彼が微笑んでいるような気さえする。コトネは素早く応答した。
『そうなんですね。よかった、安心しました』
 ありがとうございます!――と続けるところをやめて、カイリューがお辞儀しているイラストスタンプを送信した。アドレス交換後に探しておいたとっておきだ。発端は何となしにカリンにブラッキーのスタンプを送った時のことである。
「素敵! 専門タイプのポケモンスタンプを送ってもらえるとすごく嬉しいの」
 予想以上に喜ばれたから、もしかすると彼も同じかもしれない。それは的中し、すぐに返事が来た。
『これ可愛いね。どうやったら手に入るの?』
 どうやら彼はスタンプの入手方法を知らないようだ。コトネはここぞとばかりに張り切って、スタンプをクリックしてダウンロード画面に飛び――と打ち込んだところで下書きをリセットした。
『今度会った時にレクチャーしますね』
 これで終わらないように、次への布石。また話したい、という下心は隠しきれていないけれど。
『よろしくお願いします』
 希望通りの返信が来て、声が弾んだ。
「やった!」
 枕に頬を叩きつけて歓喜していると、隣で鳴っていたアラームが止んでミニリュウが不満げに顔を上げる。
「ごめん」
 コトネは慌ててミニリュウを撫でながら再度寝かしつけると、また起こすことがないよう携帯を握りしめて布団の中へ潜り込んだ。温かな闇を照らす月の中に、次に会うきっかけとなる文字が浮かんでいる。
「やった」
 こっそりと、もう一度喜びを噛み締める。あと一時間は眠れそうにない。

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