今はパラフィン越しの記憶

 傾きかけた太陽が、この街をその名に相応しい黄金色に染め上げる。夕暮れのコガネシティはやりすぎだろうと呆れるくらい、きらきらと輝いていた。西日の当たるカフェのテラス席は眩しすぎて、コトネは連れ添うデンリュウと目を細める。赤い夕陽が角膜を刺激して、ふいにあの輪郭が視界に現れる。
 もしや、と顔を上げた時、太陽がせせら笑うように雲間へと隠れて日暮れの街並みをシャープに浮かび上がらせた。コガネシティは都会的で洗練されているが、それ故の冷たさも併せ持っている。侘しさが一層掻き立てられ、今の彼女の気分にはあまり適さない街だ。
 ちょっと背伸びしてアイスが載ったコーヒーフロートを頼んでみても、誰もそれを気にすることはない。隣の椅子に座るデンリュウがアイスを物欲しそうに眺めているくらいだ。
 仕方がないので、十歳なのにもうコーヒーを飲めているんだぞ、とこっそり胸を張った。きっとあの人なら、それに気付いて自分を褒めてくれるかもしれない。
「コーヒー飲めるんだ」
 と、テーブルの向かいで微笑んでくれたりして。想像すると思わず頬が緩んだ。
 彼はどんな飲み物を注文するだろうか。
 カイリューに乗って移動しているようだから、体型には相当気を遣っているはずだ。テラス外の歩道を行き交う男性達より細身だが、引き締まっているように見えた。だから、多分、ブラックコーヒーを頼むに違いない。ミルクと砂糖はなし。ブラックなんて、コトネには苦くてとても飲めたものではない。彼は大人だ。格好いい。更に頬が緩む。
 その時、堪りかねたデンリュウがコトネの袖を引っ張ってアイスを要求した。ポケモンは主に似て甘いものが好きだ。カフェ自家製のバニラビーンズがたっぷり入った美味しそうなアイスクリームだが、「食べていいよ」とスプーンで大きく一掬い、気前よくデンリュウにあげた。
 本当はポフィンで我慢してよ、と言いたいところだけど。
「優しいね、コトネちゃん」
 彼がこの場に居たら、そう褒めてくれるかもしれない。
 想像は途切れることなく膨らんで、あの出会いの記憶を呼び出そうとする。コトネはショルダーバッグの大切なものを仕舞っているポケットの中から、小さなポーチを取り出した。旅立つ前に母に買ってもらった花柄のポーチはお気に入りで、個人的な宝物を見つけたらそれに入れようと思っていた。しばらく空の状態が続いていたが、先日ようやく仕舞う物が見つかった。ファスナーを開けて、中から出てきたのは小さなパラフィンの包みがたった一枚。元々ポケモン向けの薬を包んでいたので、皺が寄ってほんのり薬草の香りが残っている。それを嗅ぐと、スクリーンのようなパラフィン紙にあの思い出がいつでも投影されるのだ。

+++

「君もこの湖の噂を聞きつけてやって来たのかい?」
 いかりの湖で赤いギャラドスを鎮圧した時、沢山のギャラリーが讃えてくれた中で、その人だけは少し雰囲気が異なっていた。すらりとした長身に、引き締まった無駄のない身体つき。きっとポケモンに乗るのだろう。多分、隣にいるカイリューがそれだ。そういう大人はポケモンに負担を掛けぬよう、まるで騎手やレーサーのような鍛え方をしているから一目で分かる。青空に映える赤い髪とさっぱりした笑顔も好印象で、コトネはすぐに自分の名を告げた。
「はい。コトネって言います」
 ぎこちなく微笑むと、彼は先ほどとは別の、親しみやすい笑顔で自己紹介した。
「おれはワタル。君と同じトレーナーさ」
 自信漲る佇まいはこれまで挑戦したジムのリーダー達と似たものがあった。こちらを気にするカイリューだって並大抵のトレーナーが扱えるポケモンではない。無意識のうちにドラゴンを観察していると、不思議に思ったワタルが首を傾ける。
「珍しい?」
「あんまり見かけないポケモンですよね。私、まだ戦ったことがありません」
 素直に答えると、ワタルは「なるほど」と感心しながら噴き出した。トレーナーと顔を合わせればポケモンバトル、という暗黙の了解が染み付いていたから喧嘩を売っているように受け取られたのだろうか。コトネは狼狽えながら訂正した。
「いや、バトルを挑むつもりはなくて……」
 すると彼がフォローしてくれるように頬を緩める。
「そういう反応は滅多にないから、驚いただけだよ。多くは“初めて生で見た”とか、そんな感じだから」
 殿堂入りを夢見て、脇目もふらずポケモンバトルに明け暮れていた自分が少しばかり恥ずかしくなる。それでも、彼はまるで気にすることなく話を続ける。
「さっきの戦いを見ていたけど、コトネちゃん、君は相当な実力者だね。よかったら、おれと一緒に噂の真相を調べてくれないかな」
 無理やり進化させられたというギャラドスの噂や、チョウジタウンをうろつくロケット団らしき黒服の男達、怪しげな土産物屋が気になって仕方なかったので断るつもりなど毛頭ない。むしろ、先導してくれることに感謝した。
「分かりました、一緒に事件を解決しましょう! 町の土産物屋とか、いかにも怪しい感じです。私はあそこがクロだと睨んでいます」
 そう意気込むと気分はまるでバディものの刑事ドラマだ。
 いきなり事件と決めつけたことに目を見張るワタルを尻目に、コトネは早速近くに停めていたロードバイクを持ってきてそれに跨った。フレームにはコガネシティの自転車屋「ミラクルサイクル」のロゴが目立つようにペイントされており、ワタルが物の良さに舌を巻く。
「かなりいいロードだね。コトネちゃんのスポンサー?」
「そんな感じです。ワタルさんも気になったら、是非コガネシティのミラクルサイクルへ!」
 コトネはここぞとばかりに宣伝してペダルを踏み、逸る気持ちそのままにいかりの湖を飛び出した。その小さな背中を見送りながら、ワタルが羨むように呟く。
「たまにはロードもいいかもな」
 傍にいたカイリューが主を睨んだ。
「冗談」
 彼はドラゴンの脇をぽんぽんと叩きながら、軽やかにその背に跨った。
 コトネが宣伝用にと譲り受けた高級ロードバイクは軽くて丈夫で、そのスピードは並のポケモンにだって負けはしない。こんなに速く漕いでいたら、広告が目立たないのではないだろうか――そんな心配も三秒後には風に紛れて消えてしまう。草むらを駆け抜け、段差を軽妙に飛び越えて勢いよく坂を下ると、疾風がキャスケットを宙へ舞い上げた。これもいつものこと。クロバットに拾って貰おう――ボールに伸ばす手がふいに暗くなる。頭上をワタルのカイリューが覆っていた。上に跨るワタルが、コトネの帽子を掴んで彼女に被せる。
「お先に」
 ワタルは得意気に微笑むと、そのままロードバイクを追い越して町中へと飛んでいく。前を開けたライダースジャケットがマントのように靡いて、そこから覗く引き締まった頼もしい背中に目を奪われた。ロードバイクも心地良いが、颯爽と空を駆けるあの姿こそまさに風だ。
「ポケモン乗りって格好いいなー! たまにはクロバットで飛び続けるのもいいかも」
 その時は、素直に感心していたけれど。
 そこから既に、芽は出ていたのではないかと思う。

 一度気になりだすと徹底的に突きつめたくなる性質だからかもしれない。チョウジの事件は勿論、この旅とか図鑑集めだってそうだ。その人と成りが知りたくて仕方なくなる。徐々にペダルの回転を上げ、何とか五分遅れで土産物屋の前へ到着した。ロードバイクを投げ出して、店の出入り口へ向かうと粗野な男の罵声が聞こえる。
 ワタルさん、大丈夫かな――デンリュウを引き連れ、コトネは店内へと飛び込んだ。「警戒」を思い出したのはその直後だ。ワタルと対峙していた悪漢が、突如現れた少女に意識が向いた彼に手持ちのラッタを嗾ける。その距離僅か二メートル、瞬き一つで首筋を駆られる間合いだが、ワタルの方が上手だった。
「カイリュー、はかいこうせん」
 その一声で店内が揺れ、傍にいたカイリューが放った強烈な光線がラッタと後ろの仏壇に炸裂する。ラッタが飛びかかる隙を生んだのは自分のせいだ――コトネの心配を跡形もなく消し去って、ワタルは悪漢達を横目ににこやかに振り向いた。
「やあ、遅かったね。君の推理は正しかったよ。この店の地下に奴らのアジトがあるようだ」
 いかりの湖とは異なる不敵な笑みに、一瞬電撃が走ったように身体が震え上がった。爽やかで親しみが持てる青年が見せた、突き放すような一面はコトネの胸に爪を立て、スリルさえ覚える。こんな人、今まで会ったことがなかった。
 芽は確実に顔を出して、徐々に根を張っていく。
 もっと知りたい。あなたはどんな人?
 経験したことがない不思議な感情に心が焦げ付く。ここに乗り込んだ使命は怪電波からポケモンを守るため、と言い聞かせて敵トレーナーと戦ったが数の多さに弱冠精彩を欠いたのは反省点だ。ポケモンは予想以上にダメージを蓄積してしまったが、ワタルと出会ってすぐこのアジトに飛び込んだので道具も底を尽きかけている。コトネは自身の無計画さを嘆いた。
「怪我させてごめんね。でもポケモンの実力はこっちが上だから、傷薬を半分ずつで何とか押し切れるかな……」
 アジトの死角に隠れてデンリュウやクロバットの切り傷をぬぐい、一つの傷薬を分けて少しでも多くのポケモンを回復しようと急いだ。そこへ別行動していたワタルが合流する。
「大丈夫かい。君のポケモン、大分傷付いているようだね。良かったらおれの薬を分けてあげるよ」
 こちらは手持ちポケモンを総動員して戦っているのに、彼はあのカイリュー一匹だけ引き連れて動いていたようだ。その割にドラゴンは無傷である。コトネは困惑したが、断る理由はない。
「いいんですか」
 すると彼は勇敢で、親しみやすい笑顔を向けた。
「勿論。知人が調合してくれた特製の薬だから、市販のより効くんだよ。使ってみて」
 その余裕が頼もしくて、嬉しくて、眩しい。無意識のうちに両手を伸ばし、パラフィン紙に包まれた小さな粉薬を受け取っていた。ほんの一瞬触れた指先は、笑顔と同じくらい温かく、焦りでささくれた心を平らにしてくれる。
「ありがとうございます」
 その優しさが、薬と同じくらいコトネにも効いていたことに気付くのは数日後だ。
「さあ、ポケモンのために頑張ろう」
 治癒が終わると、ワタルはカイリューを引き連れ先を急ぐ。彼を追って行けば、この事件は滞りなく解決するだろう――そう思わせる頼もしい背中だ。それを見送るコトネの中に、尊敬と感謝、それに混じってもう一つの感情がぐっと芽を伸ばしていた。
 
+++

 先日の記憶はもう擦り切れるほど再生しているだろう。
 パラフィン紙片手に物思いにふけると、連れ添うポケモンは同じ映画に何度も付き合わされた友人さながら、退屈そうに椅子にもたれ掛かっている。ご主人、これでもう何度目なの? デンリュウはそう言わんばかりにコトネを睨んだ。
「だって、格好良かったじゃない。ワタルさん!」
 その良さを話せるのは今のところ、ポケモンのみだ。人間の友人がいない訳ではない。例えば親しくなったこの街のジムリーダーなんかは嬉々として話に乗ってくるだろう。いかにも恋愛話が好きそうな雰囲気。でもこの先、女の子の前でその話題を口にすることは絶対にない。
 万が一、同じ人を好きになっていたら困るから。
 目まぐるしく過ぎ去った一連の事件の後、コトネはその想いを自覚した。
「また会えるかな……」
 あの時は、何か含みがあるような激励を受けて別れたけれど。またいつかきっと――指先で名残惜しむようにパラフィン紙を揺らしていると、いつの間にかただのアイスコーヒーと化したフロートが目に留まった。コーヒーの上に載っていたアイスクリームは既に一かけらも残っていない。コトネは腰を浮かせて仰天する。
「全部、食べちゃったの!?」
 犯人は悪びれずに首を傾げている。量を制限せず、「食べていいよ」と言ったのは自分だ。主に残しておくなんて、考えもつかなかったのだろう。コトネは肩を落としながら項垂れる。目の前に残されたのは少しだけクリームが混ざった茶色のアイスコーヒーだ。 
「これじゃ苦くて飲めないよ……」
 大人を気取ってみても、ワタルはこの場に居ないのだからコーラフロートにすれば良かったと後悔する。その横顔を雲間から出て来た夕日が眩く照らした。この街の夕暮れは眩しすぎて、目を開いていられない。だが、黄金色の空に浮かぶあの赤色はやけに刺激的だ。
 コトネは指先に挟んだパラフィンを太陽に照らしてみた。幾重にも重ねたベージュのスクリーンに浮かぶ赤い輪郭は彼のように眩しくて温かい。いつか、もっと鮮明に見える時が来ますように。そう願って、彼女はパラフィンをポーチに仕舞う。

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